━━━第五章・敵地潜入━━━ 2
音など立つわけも無い。お雪は両膝を抱えて丸くなり、しかも地面から少し浮いていたのだ。ふと、師匠の庵にあった古い掛け軸が脳裏をよぎる。そこに描かれていた雪女は、吹雪のただ中で、蝶のように白い着物の袖を広げて飛んでいた。
それにしても、ほっそりとした彼女の素足が目の毒である──と思いつつも、ちらちら目が行ってしまうのが、悲しい男の性か。
「ここで……待ってます……?」
「そうだな、ここが丁度いいか」
建物全体がコの字型として、下側の横線に位置する中庭に面した部屋の一つから、人の気配と共に明かりが煌々《こうこう》と漏れている。
お雪のか細い声に同意した双七郎は、中庭の一際大きい築山の裏に身を潜め、機をうかがう。
行動を起こすべき時が来たのは約一時間後の事であるが、それまで非常に気まずい雰囲気に耐えねばならなかった。
ゆらりと──部屋から出てきた人影から、ただならぬ殺気を感じた。
双七郎は、咄嗟に背中の大太刀に手を掛ける。額から冷や汗が滲み出す。この圧倒的なまでのプレッシャーは、ただ者ではない。まさか気付かれてしまったか。
人影は庭へ降り立ち、
「う……ヴエエェェェ」
いきなりその場にうずくまって、盛大に胃の内容物を吐き出した。
強烈な胃酸の臭いが、双七郎の鼻にまで届いた。隣のお雪も、可愛らしい顔をしかめながら両手で鼻を覆っている。
(おいおい、まじかよ。だがな……)
幸い、こちらには気付いていないようだ。吐いている今が絶好のチャンス。そろりと鞘から抜き放つが、
「……誰だ!」
突然の誰何に反応して、がさりと音を立ててしまった。光房とは違う、明らかに別人の声である。一気に斬り伏せて突っ込むか、なんとかやり過ごすか。色々な策をめぐらして頭をフル回転させる双七郎。
「にゃー……」
そのような緊迫した空気を破るかのように、なんとも気の抜ける鳴き声が小さいながらも響いた。お雪の仕業である事は言うまでもない。なんてこった。
「なんだ……猫か?」
しかし、意外な成り行きに双七郎は目を丸くする。じゃりじゃりと人影の足音が耳に届き、とりあえずは安堵の息をついた。
(さぁて、敵はクソ野郎だけじゃなさそうだな……ん?)
よくよく聞けば、足音は遠ざかるどころか次第に近づいて来ているではないか。一難去ってまた一難。思い詰めた表情で双七郎を見ていたお雪は、
「にゃーんっ」
わざと植木の葉っぱを揺らしながら、たまらず駆け出した。あまりにも突拍子な行動に頭を抱える双七郎。もうどうにでもなれ。
「まてまてぇ……逃がさぬぞぉ」
「にゃ? にゃにゃーんっ」
巧みに姿を隠しながら正門付近へ誘導しようとするお雪に、それに釣られて千鳥足で追いかける人影。こんな事があっていいのか。何もかもが上手く行きすぎて、さすがにおかしいと感じるが、
(えぇい、やるしかねぇ!)
心の中で気合いの雄叫びをあげ、行動に移ろうとした双七郎は直視してしまう。このタイミングで絶対に──見てはならないものを。




