○14
一人寝台に寝転がり、メイアは左手を上げて手の甲を見つめていた。
薬指には淡い金色の輪がはまっているが、まだどこか信じられない気持ちがある。
義兄がはめてくれた蒼い石の指輪と婚約指輪はとりあえずの役目を終え、宝石箱でしばしの眠りについている。
手首をひねり手のひらも見る。やはり指輪がはまっている。
今日、由緒正しき教会のぴんと張り詰めた空気の中で、義兄がそっとはめてくれたのだ。
結婚式のことを思い出し、メイアはくすりと笑った。
父は少し泣いていた。
義兄も大分泣いていた。
母とメイアは特に泣かなかった。
一家の中で泣くかどうかが男女でぱきりと分かれていておかしい。
義兄と父は外見は似てないのだが、性格は結構似ていると思う。
それにしても正装の義兄は格好良かったなあなどとうっとりしながら思い出していると、寝室の扉がノックされた。
メイアは体を起こし、返事をする。
入ってきたのはアルザスだった。
ゆったりとした寝巻を着て、メイアの方へやって来る。
「なんだ、普通の寝巻なんだな」
メイアを見てそう言った。
いつもより声が硬くて、緊張しているのが伝わってくる。
「ベビードールはまた今度着て差し上げます。お義兄様のお気に入りですものね」
メイアが笑ってそう言うと、義兄は狼狽えたようだった。
「だ、誰があんな……」
義兄は反応が良くて面白い。
からかい甲斐がある。
「お義兄様、いつまでそんなところに突っ立っていらっしゃるんですか?」
メイアが手を引くと、義兄は気乗りしなそうな感じで寝台の上に上がってきた。
義兄はとても大人しかった。
メイアの素足を見ると、彼は黙ったまま手を伸ばす。
その手が触れた瞬間、メイアの心臓がドキリと大きく鳴った。
けれど、義兄はそれに気付いた様子も無く、足の裏や甲を注意深く撫でさすっている。
メイアは彼の手の中で、足の指をきゅっとまるめた。
「くすぐったいです」
「ああ、すまない。……綺麗に治ったね。良かった」
そう言って、兄はメイアの爪先に軽く口づけた。
メイアの肩が小さく跳ねる。
義兄はメイアが彼を探し回っていたときの靴擦れを、いまだに心配していたらしかった。
そんなもの、とっくに治っているというのに。
メイアはすっと足を引っ込めた。
「いつの話をしているんです」
「そうだね。でも、あの時は本当にすまなかった」
義兄は腕を伸ばし、メイアをぎゅっと抱きしめてくれた。
「まさか君が、俺を探しに来てくれるとは思っていなくて」
「もういいです、全部水に流してあげますから」
メイアは義兄の背に手をまわし、宥めるようにぽんぽんと軽く叩いた。
「……ありがとう」
義兄は少し腕の力を緩め、メイアを見下ろす。
「キスしてもいい?」
「……どうぞ」
メイアが彼を見上げたまま目を閉じると、しっとりと唇が重ねられた。
義兄としかこういうキスはしたことがないが、彼のキスは不思議だと思う。
ただ唇を触れ合わせているだけなのに、彼の優しさが伝わってくるような、温かくくすぐったい感じがする。
とても幸せな気持ちになる。
メイアは義兄の胸に手を当てて、彼の口づけを受け止めていた。
目を覚ますと、夫が寝巻を着せ直してくれているところだった。部屋はまだ暗い。
どうやら自分は初夜に失神してしまったらしい。
既に身体も清めてもらったようである。
「無理をさせたかな」
メイアの隣に寝て心配そうに頭を撫でてくるので、メイアは首を横に振った。
何か言おうかとも思ったが、特に言葉も浮かばず、メイアはただぎゅっと夫に抱き付いた。
アルザスもぎゅうっとメイアを抱き締めてくる。
「くるしいです」
メイアが言うと、彼は「ごめん」と言っていくらか腕の力を弱めてくれたが、なおもメイアはしっかりと抱かれたままだった。
「メイア」
後頭部を撫でられて、メイアは彼を見上げる。
「ずっと、君のことが好きだった」
落ち着いた声でアルザスは言った。
メイアはぱっと俯き、彼の胸に額を押し付けた。
「な、何か言ってくれないか」
照れたように彼に言われて、メイアはしばらくしてからまた顔を上げた。
「……私も、ずっと前から貴方のことが好きでした」
「……うん」
彼は頷き、そして二人の唇が重なった。
それは甘い口づけだった。
「アルザス、まだ支度をしていないのですか? 七時に出ると言ったのは貴方でしょう」
妻の呆れたような声を聞き、執務に励んでいたらしいアルザスは慌てたように掛け時計を見た。
「なんだ、まだ五時半じゃないか。変なことを言わないでくれ。……君はもう支度が済んだの?」
意外そうな顔で尋ねられて、メイアはつんと顎を上げて答えた。
「見て分かりません?」
我ながら腹の立つ返しである。
自分が男だったらこういう女とは絶対結婚しないなとメイアはいつも思うのだが、夫はなぜかこういう女を選んだ。
蓼食う虫も好き好きとはよく言ったものだ。
メイアはもう、日常生活の中ではアルザスを「お義兄様」とは呼ばない。
夫婦なんだからいつまでも義兄妹気分でいると変だろうという彼の意見によるものである。
けれど実際は、二人の間の感情の問題というより単に世間体を気にしてのことだった。
その証拠に、閨では今でも「お義兄様」と呼んでメイアは彼に甘えているし、彼もそれを咎めることは全く無い。
義兄は何も言わないけれども、たぶん悦んでいる。
メイアがそう呼んだ時の、彼の身体の反応から推測するに。
アルザスはメイアの装いを頭のてっぺんからつま先まで見て、手に持っていた書類に視線を戻した。
「お気に召しませんか?」
「いやっ……いいと思う。ただ、いつもと大分雰囲気が違うから」
眉間に若干皺を寄せて彼は答えた。
照れるときに眉を顰めるのは、アルザスと父に共通する癖である。
それにしても、彼がメイアのドレスの雰囲気を意識していたとは驚きだ。
透けるような生地のものを着るとへそを曲げるので無関心でないのは知っていたが、露出度しか見ていないと思っていた。
「私ももう人妻なので、少し大人っぽく落ち着いた雰囲気のものも着てみようかなと。あとは露出が多いのを着ると貴方がうるさいので減らしてみました」
「うん……すごく、綺麗だ」
深い青のドレスはメイアとしては色が暗すぎないかと思ったのだが、彼の好みではあったらしい。
それなら、また機会を見つけて着ようかな、と思わないではない。
未だに慣れない胸の高鳴りを感じながら、そこでメイアははっと我に返って用件を思い出した。
夫にドレスを褒めてほしくてさっさと着替えて来たわけではない。
「着替えましょう、アルザス」
そう。彼を着替えさせるためにメイアはここへ来たのである。
着替えくらい自分でできる、と言い張る夫を無視して、メイアは下女のごとく彼の着替えを手伝った。
アルザスは勉学においても剣術においても人より秀でているのだが、芸術だけは縁がなかった。
昔彼が描いたウサギの絵は、風邪を引いたときの夢に出てくるような混沌とした謎の生命体と化していた。
本人も自分が美的センスを欠いている自覚はあるらしく、またそれを恥じる気持ちもあるようである。
メイアは彼の奇怪な絵などは好きだし、芸術にやたら疎いところもかわいいと思えてしまうのだが。
それはともかく、そんなわけで彼の正装は仕立て屋が持ってくる見本のように無難を体現したようなものなのだ。
もちろんそれでも彼が着れば映えるのだが、メイアは一度お洒落な格好をした彼を見てみたいと思っていた。
絶対格好いいだろうなと思っていた。
居心地の悪そうな顔をしながらも、彼は大人しくマネキンになってくれた。
彼の魅力はお堅いところだと思うので、やたらに着崩させたりはしない。堅苦しくなりすぎない程度でいい。
上着とリボンも彼なら組み合わせないような色にした。
髪はかっちりとはまとめず、少し遊ばせる。
全てを終えて彼を姿見に立たせたとき、メイアは瞳を輝かせた。
「できました!」
「……」
アルザスは相変わらずちょっと不機嫌そうなむず痒そうな顔をして、鏡に映る自分を見ている。
一方のメイアは上機嫌だった。
やっぱりお義兄様はとっても格好いい。
こうして自分の魅力に合った装いをすれば、婦女子の間で評判の貴公子にも負けないと思う。
「どうですか? 着てみて」
夫は考え込むような感じで、特に髪を気にしていた。髪はメイアの力作である。人の髪をいじったことなど無かったのだが、素晴らしく上手くいったと思う。胸が高鳴って仕方がない。
「慣れてないからなのか、ちょっと変な感じがするな……。でも、こういうのが君の好みなのか?」
「はい! 惚れ直しました! 好きです」
そう言って抱き付くと、夫は驚いたようだったが抱き返してくれた。
「それなら、まあ……たまにはいいかな」
そう言って夫はごく自然にメイアにキスをした。
メイアの機嫌は上々である。
「少し早いけれど、もう行こうか。せっかく君がお洒落をさせてくれたんだし、少し寄り道するのもいいかもしれないな」
夫がそう言うので、メイアは彼の腕に手を絡めて頷いた。
アルザスはメイアに歩幅を合わせて歩いてくれる。それも足元を見たりせず、ごくスマートに。
夫はちょっと口うるさいところがあるけれど、紳士的で優しく、洗練されているうえに優秀で、見た目だけでなく振る舞いや心根がとても美しいと思う。
メイアはどうしたって彼には敵わない。
少女は義兄の肩にそっと頭を預けながら、やっぱりお義兄様は世界一のお義兄様だと思うのだった。
辺りは光に満ちていた・おわり