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一旗揚げましょう?  作者: 早雪
35/38

35, 2 - ⑨

ほぼ二万字あります。長いです。

後日、誤字脱字、誤植や文章の違いなど直すと思いますが、内容に変更はありません。

牢屋の外が騒がしかった。

それでも、ゲルダは気にも留めずに、ぼんやりと暗闇の宙を見つめていた。

反乱組織を作って内部から国を瓦解させようと画策し、強力な魔法を使える女を手土産に国を出ようとして、城を襲撃した事件から、既に四ヶ月以上が経過していた。

それからずっと、訊問や拷問で自白剤で調書を取られる時以外は、光のない悪臭漂う狭く冷たい地下牢にいる。


どうあっても口を割らないからか、年末になる頃には拷問も訊問もなく、ただ無為に地下牢で時を過ごしているだけ。見向きもされずに放っておかれている。

たまに、ぬるま湯の差し入れがあって体を拭いたり、拷問でボロボロになった服を厚手の囚人服に変えたり、毎日の食事を食べて過ごす日々だ。


黒髪と髭はすっかり伸びて顔にかかる。それでも眼鏡だけは無事だったが、この暗闇で見るものはなく、日がな一日、壁に寄りかかって冷たい石の床に座していた。視線を投げ出した両手に向ければ、手枷が嵌められていた跡。この牢屋は魔力を封じている結界があるので、この部屋を連れ出される時にだけ、手枷を嵌められ、吊るされたり、打たれたり…。

時々思うのは、こんなになってまで何をしているのかという事。助けはないのだから、殺された方が楽じゃないかと思う。全部を話して楽になればいいとも。

けれども、ゲルダは話せなかった。まだ、故郷に帰る事を諦めきれなかった。


ゲルダはイオニス帝国とファウス国の国境に近い、何の特色もない寒さの厳しい寒村に生まれた。ちょこちょこ小競り合いに巻き込まれたり、自国の兵に略奪されたり、作物が育たず実らず、手に入らずにひもじい思いをして、毎年亡くなる者が後を絶たない。

だがその分、村民の結束は強く、支えあって生きてささやかな生活を送っていた。家族と身を寄せあって、慎ましやかに。


その日常に転機が訪れたのが四年前。

人材不足で争いに駆り出され、そこで魔法の力が開花すると多少の功績を上げて、潜入捜査の隠密として訓練を受けて、ファウス国に派遣された。

クアドル宰相の手駒として、故郷の為、家族の為、いう事を聞けば故郷を争いから守ってやると唆されて、大切なものを人質にとられて。


何でもいいから今の状況から解放されたくて、戦争が終われば、故郷と家族が自由になれば、もうこんな仕事をして離れずに済むと思い、内部工作に勤しんだ。

反乱組織をまとめて徐々に規模を大きくし、有益な情報を流す。その流した情報の中に、強い力を持つ可能性のある、反乱組織の集まりに参加する若い女の情報も含まれていた。

すると、その女を連れてこいと命令が来た。間違ってもファウス国に奪われるな、そうなるくらいなら奪い取るか、魔力が弱いようなら殺せ。

だから、必死に探した。そして可能性のある女を見つけて、手に入れて実力を見極めようとした矢先に、ファウス国に奪われた。即座に奪い返して帝国に連れてこいと言われた。それだけ強い魔法師が貴重で、一人いるだけで戦局がガラリと変わるものだったのだ。


この任務は失敗すると、命令を受けた時に思った。ただ上手くやれば、弱体化している国相手に成功するとも考えてゲルダは受けた。

この国に来て、三年かけてこつこつ組織を作り、作った別の組織を崩壊もさせたが反乱組織レイヴンは上手く軌道にのり、人々を煽動して操って手に入れた情報を流して。

自身で多少戦闘狂でも強い仲間を集めた。

途中までは、順調にいっていたのだ。


だが結果は、全てファウス国に筒抜けだった。むしろ、ゲルダたちはいいように利用されていた。

女の母親を人質にしていう事をきかせるはずが、いざ拉致に行けば姿はなく、探して追いかければ城に逃げ込まれ、それでも女魔法師を味方につければまだ何とかなると思っていた。人質になりそうな王太子と、黒髪黒目の目的の人物にすぐ会えた事も僥幸だと感じたのに。

そこにカリスマ性のあるお飾りのリーダーとして名前を借りていたジェナスや、仲間だと思っていたハルカス少年が現れ、王子を始めとする兵の一団に包囲されて、否が応でも罠だったと認識させられた。与えられた任務は失敗に終わったのだと。そこで観念すればよかったのに。

それでも故郷へ、四年会っていない妻と息子の所へ帰る事をまだ諦められなかった。冷酷な帝国宰相に見捨てられて、殺されていない事を祈る日々だ。


近づいてくる足音に、ゲルダはどうせまた彼女が来たのだろうとあたりをつける。この三日、ゲルダが捕まってから四ヶ月以上、今まで会わなかった噂の魔法師長がちょくちょく訪ねてきた。

あの時、莫大な魔力と様々な属性を見せつけて、ゲルダたちを捕らえた黒髪黒目のロア・ノーウェン。てっきり彼女が魔法師長になったと思っていたのに、現れて魔法師長と名乗った女は十代半ばの空色の長髪に海色の目の少女。雰囲気はそっくりなのに、彼女のようで彼女の容姿ではなかった。


初めて会うのに、魔法師長の少女はゲルダたちの事を詳しく知っていた。襲撃したあの夜の事も。誰何すいかすれば、隠す気配もなくロア・ノーウェンだという返事。どうなっているのか疑問符を浮かべれば、あっさりと変化の魔法を解いて黒髪黒目に戻った。その実力に、驚かされた。

聞けば、新国王に期間限定で忠誠を捧げているという。意味がわからなかった。けれど『目に見える争いが終わるまで』という言葉を聞いて、納得した。それが終わればここを去る予定なのだろう。だから、容姿を変えて顔形は似ていても、普段の本人とは違う姿に化けた。


そんな事をしても人の口に戸は立てられない。

あの夜に、黒髪の本来のロアが魔法を使うところをたくさんの兵が目撃している。そんな疑問が顔に出ていたのだろう。ロアはあっさり「暗くて塀を挟んで距離があったし、光源は火だけ。辺りが燃えていたけど、すぐ塀を修復して隔てたから、街で噂になった黒髪の若い女魔法師はクーデリカが化けた姿で、勝手に他が街娘と勘違いした事になっている」と説明してくれた。ついでに、別人としてロアとクーデリカが城に働いて存在しているとも。


なぜそんな隠し事をゲルダに話すのか不審に思ったが、何て事はない。ゲルダはこの先もずっとここにいて、その事を言いふらす先も訊問官か、見回りの兵くらいだ。どれだけ叫んでも彼らは罪人の言葉などに耳を傾けはしないだろう。

そう推測して、納得した。

それから若い女が一人で、暗くて寒くて衛生上悪い場所に足を運んで来た事に疑問に思った。


多忙なはずの魔法師長はここに来ては世間話をして、ゲルダの話を聞きたがる。ゲルダは肯定していないが、イオニス帝国宰相のクアドルと繋がっていると確信を持っているようだ。それでも口を割らずに、こうして生きている事を、まだ生きたい事情があるのだろうと、核心を衝いてきた。

街でお菓子屋を営んでいた時と比べて、鋭く恐ろしいとゲルダは本能で畏怖した。


彼女は様々な条件を出してきた。この牢屋から出そうと、場合によっては魔法師長の力を貸そうと、魔力を封じて鉱山での過酷な労働に送った仲間の助命でも受け付けると。

それでもゲルダは、簡単に頷かなかった。どこまで信用していいのかわからない。強かさも得体の知れなさもあった。だから、ゲルダはいつも返事をしなかった。その事で魔法師長がじっと見つめてくるのには、居心地の悪さを感じていたが、完全に断る事も出来なかった。淡い期待が、望みがあったから。

ゲルダは嘆息して、目を閉じた。足音がゲルダの牢前で止まる。


「………また、いらしたのですか。魔法師長とは随分と暇な仕事なのですね。後二ヶ月もすれば、雪が溶けて本格的な争いが始まるというのに」


自分で言っておきながら、ゲルダは鈍く痛む胸を無視した。じりじりと感じる焦燥。本格的な争いが始まれば、故郷はと家族はどうなるのか。助けを求めて、すがってしまいたい。けれどそう簡単に出来ない。ジレンマの嵐だ。


「………そうだな。だから、なるべく早くに決着を着けたい」


聞こえてきた予想とは違う声に、ゲルダはゆっくり目を開けた。ゲルダの前で灯りを持つ人物の鮮やかな目と目が合った。驚いて声もでないゲルダに、困ったような笑みを向けながら、その人が口を開く。


「久しぶりだな、ゲルダ・カーランド。お前に話があってきた」


裏工作員として、無くした筈の本名を呼ばれた事に、背筋が凍った。

それは全て知られた可能性があるという事。

息を呑んで心臓を鷲掴みにされたような気分に、ゲルダは顔を歪めた。潮時かもしれない。



***



魔法師長の執務室。

無駄な物がない整理整頓の行き届いた部屋で、魔法師長クーデリカ・オルシュタインこと、その姿に化けたロアはいつも通りに淡々と書類仕事をこなしていた。

室内は沈黙に満ち、紙の音だけが部屋に響く。

魔法師長を始めた際に、大量にあった書類や資料、毎日上がってくる書類は今では綺麗に分けられて保管され、仕事も魔法騎士団長カインやクリス宰相に回すようになって、ロアの仕事は徐々に減らしていた。


残り十数枚となった書類に目を向け、資料を調べて書き込みながら、ロアは「鬱陶しい」と呟いた。

静かな部屋に広がった声に反応したのは、護衛として傍らの机に座り、自分の書類仕事をしていたジェナス。


「ロア?」

「ジェナス、鬱陶しい。さっきから何なの。じっと私ばかりを見て。言いたい事があるのなら、はっきりしなさい。その目イラつく、見られて気持ち悪い。気が滅入って仕方ないんだけど」

「気が散るだろ!? それと、然り気無く俺を傷つけるのをやめろ」

「素直に本音で告げたのに」

「なお悪いわ!」


言い合いながらも、ジェナスはこちらを一切見ずに仕事するロアを具に観察した。強がっていないか、焦っていないか、変な事を考えていないか。

(いや、嫌がらせとか変な事を考えてるのはいつもか?)

再度視線を向ければ、蔑視の目に不快を隠そうともせずに顔を歪めた姉弟子。ジェナスの心が傷つき、魂の同居人ダーウィンに慰められた。同時に、淑女を不躾に見るものではないと説教もされた。


新年を迎えてから二月目。師であるアルスマとの連絡が途絶えて、今日で五日が過ぎていた。

元々、三日か一週間に一度のペースでこちらから連絡を取っていたジェナスなら、連絡がなくても気にしない程度。

連絡が途絶えたと感じたのは、ジェナスとロアの主であるルース陛下の一件があったからだ。ロアには内緒で、ジェナスは五日前にルースの手紙を魔法でアルスマに送っていた。それにはすぐに返答が来た。


ルースが何を尋ねて、どんな返事が来たのかジェナスは知らない。

ただイオニス帝国に潜入しているアルスマは、大仕事を控えているから詳しい説明は明日、落ち着いてから連絡するとルースに告げていた。だから、連絡が来たら教えてほしいと言われていたのに、その日は結局、何の連絡もなかった。

約束を守る師匠にしては珍しいと思いつつ、何かあったのかもしれないと通信魔道具で連絡を試みたが繋がらず、次の日も音沙汰なしだった。


そんな日が五日。

恐らく毎日連絡を取っていた姉弟子は、とうに怪しみ、何かあったと感じているはずだった。

それなのに、ロアの様子は普段通りで変わらない。今日も今日とて与えられた役割と仕事をこなし、焦りも不安も心配も苛立ちも何も感じさせなかった。

その態度が余計にジェナスを始め、ルースたちにも心配させて不安がらせていたが。それはロアも気づいているだろう。

お互いに知っていながらジェナスにはどうしようもなく、動いたのはルースだった。


イオニス帝国の城に潜入させていた間者や、三国に散らばらせていた隠密と連絡を取ったのだ。

他国からは特に目ぼしい情報は得られなかったが、慎重に秘匿して滅多に連絡を取らなかったイオニス帝国の城にいる間者から、情報が届いた。

夜間の見回り中、偶然見かけたらしい。はらりと落ちたフードから、この世のものとは思えない麗しい人が、ぐったりとした体を兵に支えられながら城に連れてこられ、ひっそりとどこかに運ばれたと。

門番からも噂が上がったから、間違いないとの事。

そんな報告が届いたのが三日前。

落ち着いていられないだろうと思ったのだが、ロアはどこからどう見てもいつも通り。時々、姿を見かけなくなるのもいつもの事なのだが、心配して探せばメイドの仕事をしていたり、お菓子を作っていたり、街に出掛けたりしていた。


「……だから、言いたい事があるのなら、はっきりしなさいって言ったでしょ。そんなに見つめてくるなんてナニ? 告白でもしたいの? お断り。言いたいのならどうぞ」

「俺だってお断りだ! つーか、どうぞと言いつつ、耳を塞ぐな!」

「チラチラとこっちを見てきて目障りなんだけど」

「相変わらず俺の扱いが酷いな!」

「今更でしょ。知らなかったの?」

「知ってたよ、こんちくしょう!」

「文句言わない。姉弟子の言う事は絶対でしょ」

「理不尽な要求過ぎだろ! それと一ヶ月早く姉弟子になっただけで、年齢は俺が年上だからな?」


「少しは敬えよ」と言えば、ロアに鼻で嗤われた。ムッとするも、大人だから相手にするなとジェナスは自分に言い聞かせる。

深く息を吐いて、改めて真面目な顔になった。黙々と仕事をこなすロアに目を向ける。


「……随分と落ち着いてるんだな。師匠のこと、気にならないのか?」

「仕方ないでしょ。危険を承知で頼んだし、引き受けてくれた。今私がするべき事はこの国の為に、どうするか。雪が溶ければ、間違いなく帝国は攻めて来るよ。まずはそれを回避しなくちゃ。それにああ見えて、師匠は優秀だよ。好きなものにはでれでれで時々仕事も放棄するけど、これまで旅してきた中で、襲われるなんて日常茶飯事で修羅場も死線も経験してきた人だから大丈夫でしょ。自ら捕まった可能性もある。今連絡を取る方が、もしかしたら危険に晒す事になるかもしれない」


「違う?」と問われれば、複雑な心とは別にジェナスも納得した。その可能性もあるから、ジェナスもどう動くか決めかねている。そしてジェナス自身の仕事も、ここでルースの手足となり、ロアを守る事だ。


ロアは、頷いて一応自分を納得させているジェナスを見て、そっと息を吐いた。実はこっそり色々と動いているのだが、ジェナスはそれを知らない。ロアも話して巻き込むつもりはない。ただルースには筒抜けで、誰も彼もがロアに騙されているのに、彼だけは誤魔化せなかった。


こっそりロアを訪ねてきては、ゲルダの地下牢への訪問も知られていたり、「アルスマの事を調べさせるから、まだ待て」と今にも動こうとしていたロアを宥めた。冷静なようでいて、疲れているのか軽率な行動をとろうとした事に気づいて、ロアは感情を切り離して、今ある情報だけを見つめ直し、改めて内密にクーデリカと計画を練った。


動揺して感情に振り回され、不甲斐ない自分を知って落ち込むロアを、ルースは笑って「アルスマの言った通り、懐に入れた身内には甘いよな」と慰めてくれた。それからは忙しい中、時間を作ってロアの様子を見に来ては、何かと気にかけてくれた。不安が薄くなるまで、傍で愚痴でも何でも受け入れてくれた。無茶な事をしないようにという、牽制と心配もあったのだろう。ロアが師を外に追い出したのに、ルースの方が強く、ロアもアルスマも巻き込んだと自責の念に駆られていた。


書類を全て片付けて、ロアはぐっと体を伸ばした。最近眠りがちなクーデリカに『準備はいい?』と内心で呼び掛けてみるが、また寝ているらしい。寂しく思いつつも、頭の中で今後の諸々を確認して、よしと一人納得する。これなら大丈夫だろう。メイド業に行くからと姿を黒髪黒目に戻し、後は終わった書類を各部署に届けるようジェナスに押し付けて、席を外そうとした。

ジェナスには不満そうな顔をされたが、後で自分のと一緒に書類を持っていくと了承した。ロアはまだ書類と睨み合う弟弟子を一瞥して、ふっと微笑した。


部屋を出ていこうと席を立って、扉に向かうとノック音が響いた。

返事を待たずにドアが開いて、慌ただしくルースが入室してくる。ジェナスが目を丸くし、ロアは驚きを隠して平静を装った。


「陛下、どうなさいました?」

「……間に合ったか?」


そんな呟きが正面に立つロアにだけ聞こえて、バレていたと確信を持ったロアは僅かに息を呑んだ。ぐっと拳を握る。止められて決心が鈍るから内緒で居なくなろうとしたが、やはり挨拶するべきかと覚悟を決めた。


「クアドルを見張らせていた協力者から、隠密を通して連絡があった。やはり、アルスマは捕まっているらしい」


ロアと席を立って傍に来ていたジェナスが同調したように目を見開いた。ロアが拳を握り込み、唇を噛む。目を閉じて一つ息を吐き、ぐっと顔を上げてルースを見上げた。


「陛下、申し訳ございません。誠に勝手ながらお願いがございます。私をイオニス帝国に行かせてください。━━というか、勝手に行きます」

「ちょっ、おい、ロア!?」


ジェナスが焦った様子で、咎めるようにロアの肩を掴んだ。ロアは動じる事なく、真っ直ぐルースを見つめていた。


「ナニ言ってんだよ!? そんな事が許されるわけないだろ? 魔法師長が我儘を言うな。その責任の重さも覚悟もわかっている筈だろ!?」

「ジェナス」

「陛下、すみません。ロアは少し疲れてるようで━━ってぇっ! 俺を蹴るなよっ! なっ、やめっ、踏もうとするな!」


ルースの呼び掛けに取り繕うとしたジェナスが、ぴょんと跳ねて、右足の脛を押さえた。ロアのヒールが左足の甲を狙っていると気づき、慌てて更にぴょんと避ける。

ロアは忌々しそうに顔を横に向けた。


「ちっ」

「舌打ちすんなよ。本当に恐ろしい女だな、お前は! せめて口で言え。淑女はそんな事しねぇだろ!?」

「今は平民のロアだから。あと実力行使の方が早かった」

「理由になってねぇ! 人として舌打ちするな、蹴るな」

「ジェナス、うるさい。ちょっと黙ってて」


話が進まないと、ロアは指を鳴らした。抗議しようと口を開いたジェナスから声が発されず、はくはくと口が動いただけだ。

ジェナスが驚愕し、ルースはその様子をじっと見ていた。やはりと、ルースはアルスマからの返事を思い返して、息を吐いた。


「話す時の空気振動を奪っただけだから、そんなに空気を求めなくても別に死なないって。呼吸は出来てるでしょ」


ロアが呆れて「黙っててよ」と念を押して、魔法を解除した。「あ…」と、ジェナスの声が元に戻り、本人は驚きで唖然としていた。それを無視して、ロアは改めて彼女の王に向かい合う。


「陛下、去年の約束を覚えておられますか? 戴冠式の夜会が片付いた後、褒美に何でも一つ願いを叶えると仰ってくださいました」

「ああ、勿論。忘れてない」


頷くルースにロアはほっとした表情で、微笑んだ。


「では、叶えてくださいませ。そうですね、一週間で大丈夫です。帝国に赴いて、バレることなく敵に捕獲された困った師匠を助けて戻って参ります。それが出来なくとも、必ず一週間で戻りますので、その勝手な振る舞いと魔法の使用をお許しください」


ロアが目を伏せて、深く頭を下げた。


「攻められる心配のない雪深い今ならばまだ、少しくらい魔法師長が不在でも、大丈夫です。魔法騎士団の実力は国内外で知れ渡っておりますから、問題ないかと。今後の指示書も用意してありますし、私でなければいけない書類や用件は紙に書いて、一段目の机の引き出しに入れてください。自動転移で私の書類箱に転送されます。何か火急の有事の際は、こちらを」


ロアは自分の机に戻って、二段目の引き出しから黒色の宝石がついたペンダントを出した。そのついでに、書類の転送方法や今後の指示書や、抱えている案件の代案等の書類が納められた各書類を見せて、二段目の引き出しに戻していく。

準備のよさに「計画的かよ」と、ジェナスが呆然と呟いた。全然その様子に気づかなかったとも。

ルースが面白くなさそうに嘆息した。


「今後の予定の割り振りと指示書、旅に必要な準備物をこっそり集め、連絡手段の確保やメイドのロアとしての休暇届、日持ちする店用の菓子のストックなど色々と万全に準備していたからな。出掛けますと、実に分かりやすく教えてもらったよ。

おまけに、何かあった時に自分が身軽に動けるように━━もしくは自分が居なくなった時の為に、俺の即位後、年末になる前からクリスとカイン、ジェナスや研究所の専門家の魔法師それぞれに、魔法師長の仕事を割り振って教えて、自分の仕事量を減らしつつ、いつ居なくなっても仕事や政務が滞らないように流れを作っておいてくれたからな。ご丁寧に、彼らが苦手な分野や困る案件の手引き書や資料まで付けて、これやるから自力でやれと、傲慢な魔法師長の無茶ぶりに見せかけてやらせた。お陰で、未だに所々抜けていた甘さの目立つ普段の書類不備も減ってきたぞ」


腕を組んで苦虫を噛み潰したような顔で告げたルースの話に、ジェナスが目を剥いた。言われてみれば思い当たる節がある。

てっきりいつもの横暴さと嫌がらせや八つ当たりとかそんなものだと思いながら怨み言を吐きつつ、ヒイヒイ言いながら皆でこなしていたが。そして何故か、魔法師長の被害者の会なるものが発足して以前よりも仲良くなり、チームワークが良くなった。


全部、計画していたのだろうか。一体いつから、どこまでを。

クーデリカが賢者の弟子らしいと、以前告げた意味が実感を伴ってジェナスの中に呼び起こされた。普段は本当に腹立たしく、一部の人を除いて、すげなく冷たく扱っているのに。子供のような嫌がらせや悪巧みを思い付いては、周りを翻弄して楽しんでいるとばかり思っていたのに。

そんな事を考えていたら、睨まれた。


「……ジェナス。ムカつくからその成長したなぁと、孫を見るような視線をやめろ。てか、はげればいいのに」


図星を刺されたジェナスは、視線を明後日の方に向けて「はげるのはイヤだ」と律儀に返してから、ルースを見て誤魔化す。


「それにしても、よく気づいたな」

「解りやすかっただろ。毎日連絡を取り合っていたアルスマからの連絡がなくなってから、ずっとそわそわと落ち着かなかった。すぐにでも探しに行ける算段をつけて、イオニス帝国についてを調べ始めたからな」

「え?」

「街で商人たちから帝国の情報を集めてみたり、ゲルダの牢屋に通っては帝国との繋がりや情報を引き出そうとしたり、転移魔法で直接イオニス帝国にも足を運んでいたな」


最後の一言にはロアも驚いた。知られていないと思っていた。上手くカモフラージュして、一日二時間ほど、帝国に魔法で移動しては、情報を集めて師の足取りを掴もうとしていた。


驚くロアを見て少しは溜飲が下がったのか、ルースが僅かに表情を柔げた。

我に返ったジェナスが、ほんの少し身を引いた。


「……何か某隠密を思い出す行動力というか、調査力というか、ストー」

「そう言えばジェナス、女性たちに囲まれて寒い水の中に落とされるの羨ましいって言っていたよな。━━寒中水泳、するか?」

「遠慮します!」


ジェナスが青ざめて、冷たく微笑むルースに首を横に振った。ルースが息を吐く。


「ロアの性格を考えれば予想がつくだろ。すぐにでも助けに行きたいと思うのは。それが許されないから、情報を集めてやるべき事をこなした後で、他を巻き込むわけにはいかないから少しだけ自ら動くと」

「…………」


そうかもしれないとジェナスは思った。知られていたと動揺し、それを隠すロアを見て、漸く自分が感じていた違和感という、不満の正体を掴んだ。師の事を知って冷静に仕事をこなすロアを見て、師が心配じゃないのかと、何かしら動くと思っていた期待を裏切られたように感じていたのだ。

ただ自分が気づかなかっただけだった。


「それで陛下、私の望みは叶えていただけるのでしょうか?」

「叶えるも何も行くと決めていると宣言しておいて…。━━駄目だと、そんな危険な目にあうかもしれない要求は呑めないと、俺が言ったらどうするんだ?」


焦燥を滲ませるロアに、ルースが真面目な顔で返した。

そう言われるとは思っていなかったらしい。ロアが息を呑んだ。きゅっと唇を閉ざす、いつもは傍若無人な魔法師長。それが今は、落ち込んで悔しがる年相応の少女に見えた。

ジェナスが友人を見て、口を開く。


「ルース。そこを何とかならないのか」

「駄目だ。他に頼みたい仕事がある」


ロアが真っ直ぐルースを見上げた。心なしか眉尻が下がっているように見えた。

厳格な王の姿にロアは、落ち込んで残念がる心を隠し、僅かに目を伏せた。


「……解りました。我儘を言い、申し訳ございません」

「褒美はもっと別な事に取っておけ。━━ロア・ノーウェン」

「はい」


真面目な王の呼び掛けに、ロアは切り替えてスッと背筋を正した。


「危険な任務だが、話を聞いてくれるか?」

「陛下のご命令とあらば」

「では、お前に命じる。ジェナスと共にイオニス帝国に潜入し、賢者の一族の長であるアルスマ・カルマンを救出し、無事に全員で戻ってこい。期間は一週間。━━可能か?」


ジェナスが呆け、ロアは僅かに目を瞠ると、空色の双眸と合ったので、強気に笑んで見せた。それから優雅に腰を落として、礼を取る。


「可能でございます。我が君」

「では、頼んだ。違える事なく完遂しろ」

「我が君の仰せとあらば」


ルースが安堵したように微笑んだ。

ロアが感謝を込めて、深く頭を下げた。


「すぐに出立が出来るな。だが行く前に話がある」

「何でしょうか?」


まだ驚いているジェナスを横に、二人の会話は続いた。

ロアに澄んだ空色の目が向けられる。


「ゲルダが情報を提供してくれた」


その一言で、ロアは全てを理解して瞠目した。まじまじと仕える王を見て、困ったように、それでいて喜びを隠さずに、やられたと微笑んだ。

呆然と話を聞いていたジェナスが、酢でも飲んだような顔になる。


「私でも無理だったのに、一体どうやって籠落したんですか? 本当に、師とは別の意味で人たらしの才能がありそうですね」

「対人交渉において右に出る者がいない魔法師長に、そう評価されるとは光栄だな」

「お褒めに与り恐縮です」

「いや、違うからな。誰もお前の脅しに逆らえずに、泣く泣く要求を呑んだ結果、全部お前の望む通りになっただけで、かなり恨まれているからな?」


すかさず茶々を入れたジェナスに、笑顔から一転、冷ややかな黒目が向けられる。


「その為の護衛でしょ。急いでたんだから多少の強引な手段は仕方ない。私自身に来たのは全部返り討ちにして、一回はお咎め無しで済ませたんだからいいじゃない。二回目からは容赦なく叩いたけど」

「全然よくないだろ!? 何だよ、お咎め無しって!」

「今は話が進まないから、取り敢えずそれは置いておくとして、本来なら案内役にゲルダを連れて行かせたかったが」

「無理でしょう。体力も精神もすっかり磨耗して弱ってますから」


喚くジェナスを遮って話を進めたルースに、すかさずロアが返した。ルースも肯定して頷く。ジェナスが嘆息して黙り、話に集中する。


「ゲルダから、イオニス帝国宰相クアドルが、この国に害をなそうとしたと言質は取れた。証拠もあるから帝国の非を明らかにして、糾弾できる。後はクアドル宰相の城内における領域テリトリーやどこに人を閉じ込めるかも話が聞けた」

「それは有り難いが、その情報を信用して大丈夫なのか?」

「安心しろ。協力者に確認した。隠密にも確かめさせた。定期的にそこに食事やら人が出入りされているようだ。間違いないだろう」

「それで、どんな条件を呑んだんだ? ただでここまで黙っていた情報をくれたわけじゃないんだろ?」

「そうだな。簡単に言えば、ゲルダを脅した」

「えっ、お前がか?」

「ああ。ゲルダには大切な家族や村があって、それを人質にクアドルに従っていたところもあるからな。だから、協力しないならお前の大事なものを潰すと言った。捕まっているお前になすすべはなく、クアドルは律儀に約束を守って小さな村を保護してくれるかと」


それはゲルダにとって痛いところだったのだろう。それでも黙っていたから、ルースはある条件も提示した。それで契約して、漸く口を割ったのだ。

ロアが感心する。


「ゲルダには家族が…。よく調べられましたね。その協力者のお陰ですか?」

「ああ。調べてもらった。上手く隠していたが、僅かに帝国地方の訛りがあって、間者だというのはわかっていたからな」

「その協力者を伺っても?」

「リュシエント帝だよ」


ロアが僅かに眉を顰め、ジェナスがあんぐりと口を開けた。


「向こうから、打診があったんだ。去年は例年に比べて作物の実りが悪く、軍備増強や増えた兵たちの兵糧の他に給金を払っていては、国庫に限界が来ると。春先、開戦して今のファウス国とやりあっても決着は着かずに疲弊するだけだから、老害を廃して国をまとめるのに力を貸して欲しいそうだ。それで、俺はその提案を受け入れた。だから、リュシエント帝は去年から頑張って宰相と表だって対立を始めただろ」

「………そういう事かよ。それにお前も絡んでいたってわけか」

「まぁな。元より即位式後ロアに話を聞いて、その線で取引出来ないかと考えていたから、都合がよかった。……リュシエント帝を動かす起爆剤となったのは、魔法師長らしいからな」

「私ですか?」

「ああ。そちらの魔法師長に焚き付けられて、昔ではなく今の国と自分の立場を考えた結果、その結論になったそうだ」


呆れたようにジェナスが見てきたので、ロアは「ナニ?」と睨み返す。ルースが眩しいものを見るように目を細めて、苦笑した。


「相談もせず黙っていて悪かったが、正式に約定を交わしたのが三日前だったんだ。何はともあれ、そんなわけで皇帝とは慎重に話し合いを重ねて王同士で停戦の密約をしたが、老害が厄介で不正の証拠も証人も糾弾出来る案件も無かった。困っていたが」

「ゲルダがいた。タイミングよく、師匠も拐われた」

「ああ。嫌な事は重なるな」


こんなのは望んでいなかったと苦い顔のルースに、ロアはほっこりと心が暖かくなった。今まで何度も思ったが、また改めて感じた。━━この人が主で良かったと。

不意に、視線が交わって鼓動が慌ただしくなる。油断していた己を叱咤し、何とか平静を取り繕った。


「ロアはもう準備は終わっているから、後はジェナスだけだな。すぐに不在の連絡とその際の仕事の割り振り等を確認して、手配。さっさと引き継ぎを終わらせて、旅支度をしてこい。防寒具もしっかりな」


首肯したジェナスが、ロアの終わらせた書類と自分の書類を持って退室し、ロアとルースが部屋に残された。

ロアが嘆息して、咎めるように口を開く。


「ジェナスは見事に流されましたが、私はそうはいきませんよ、陛下。話を変えてうやむやにしていましたが、どんな条件を呑んだのか教えてください」

「……別に大した事じゃない。ゲルダの家族と村の守護をリュシエント帝に話をつけて、皇帝側との橋渡しをしただけだ。もし上手くいかなかったら面倒を看るから、村の家族全員でファウス国に来ればいいと」


ロアは反応に困った。何という破格の条件を出したのだと。


「随分な無茶をなさいましたね。条件もですが、勝手にそんな密約して、バレたら貴族たちに総袋叩きに非難されても知りませんよ?」

「仕方ない。大切な魔法師長とその師を守る為だ。他に行かれては困るからな。大丈夫だ、ゲルダたちがこの国に来ても国の利益にもなる。各研究部署で手伝いをしてくれる人手が欲しい、世話役を付けてくれとあちこちから言われているからな。どんな厳しい状況でも耐えて生き抜いた彼らなら、気難しい変人学者たちの世話はうってつけだろう」


何てこと無さそうに、ルースが笑う。その朗らかな笑顔にロアは仕方ないと微苦笑した。すっかり絆されている自覚はあった。


「でもこの密約を、他に知らせるつもりはない。傍目には今まで通りを装い、関わりも極力絶つ。この件がクアドルに知られれば」

「糾弾されて追い詰められるのは、リュシエント帝へと早変わりですか」

「ああ。だから、帝国に行っても彼の協力は仰げないだろう。俺もざっくりと返して貰いに行くとしか告げてない。あちらで動けるのは、本当にお前とジェナスだけだ。それでも」

「行きます。いえ、行かせてください」


強く断言したロアに、ルースが苦しげに自嘲した。


「ああ、お前に任せる。賢者の一族を庇護する役目を負っているのに、アルスマをこんな目に遇わせ、弟子のロアとジェナスを頼って任せるなんて情けない話だが」

「違います。私が魔法師長として必要だと判断しましたし、師匠に甘えていたんです」

「では、やはり俺の責任だな。魔法師長の後見は俺だろ。この国の為にロアがしてくれた事の責任は俺が背負うと、前に言った。━━すまない、ロア。たくさん傷つけ、傷つけさせた」

「それなら私はこう返しましょう。陛下、私も以前、言いましたよ。それを全て承知で引き受けたと。だから、謝らないでください。それよりは━━」

「誉めろ、だったか」


ルースが苦笑し、張りつめた表情が柔ぐ。その様子にロアはほっと胸を撫で下ろした。


「ありがとう、ロア。お前が居てくれて本当に良かったと心の底から思ってる」


ロアが頬と口元を緩めると、ルースも笑った。


「ところでロア。俺も曖昧にして流されないぞ」

「何のお話ですか?」

「さっきジェナスに強引に取引した事を言われて、『急いでたんだから多少の強引な手段は仕方ない』と言ったよな。当初の期限は二年で、まだ半年も過ぎてないのに、どんどんこの国の改革は進んでいたが━━やはり急いでたんだな。春先までに片をつけるつもりで、か?」


見通されたロアが目を丸くした。答えられずにいると、ルースの表情が沈痛なものとなる。


「最近、菓子も食べきれない程、多く作ってはあちこちに配り、殆どジェナスに消費させているらしいな」

「……新作のアイディアが次々浮かんできたので」

「そうか。でもそれだけじゃないだろ? 春先、何らかが大きく動くから━━もしかしたら場合によって人を殺める可能性があるから、その前に出来るだけ作っているように見える。覚悟を決めたとはいえ、そんな事になってしまったら、もう作るつもりはないんだろ?」

「………どうして…」


そんな事まで知っているのか。驚くロアにルースが苦笑した。


「お前を見ていて気づいたと言えたら、かっこ良かったのかもしれないが、クーデリカからの情報だ」

「クーが? 一体いつの間に…」

「お前が寝ている間に。帝国に潜入していた事も、二時間できっちり帰ってきた事も」


ロアは頭を押さえた。まさか、身近に情報提供者がいたとは。でも、ルースもルースできっと気づいていたと思う。地下牢へ行っていた事をすぐに知って、その日の内にロアの不安を見抜いて尋ねてきたから。


「ロア。手を汚さなくていい。最大限、回避する為に動いていいんだ。誰も殺さなくていい。俺はその約束を違えるつもりはないぞ」


その力強い笑顔と言葉に、ロアは花が綻ぶように「知っています」と笑んだ。

実際に彼の心を疑った事はない。ただ状況が許さない気がしていただけだ。ルースもそう思ったから、密約に乗ってリュシエント帝に協力してくれたのだと思う。

国と民の為でもあるが、そこに少しロアとの約束と気遣いもあったのだ。

焦っていた心がふっと軽くなった。

改めて、神聖な誓いをたてる騎士のように、膝をついてルースがロアの手を取り、「約束する」とこうべを垂れた。半年前を思い出す。お互いに約束を交わした事を。

嬉しいが、国王をこのままにはさせておけない。

ロアはその手を握って、「立ってください」と引き上げた。

立ち上がったルースと、正面から顔を合わせた。


「大分、改革は進んだが、まだ途中だ。ロアが必要だ。居なくなって貰っては困る。けれど、誰も傷つけたくないのに、お前は帝国に行くんだな」


ロアは小さく微笑んで、否定しなかった。彼の言葉を何より嬉しく思い、誉れだと感じた。

そっと手が伸ばされて、頬に触れられる。ロアは逃げずに受け入れた。ルースはもう片方の手をそっと肩にのせて、ぐっと引き寄せた。堪えるように強く抱き締めて、離す。

さっきまでの笑顔が打って変わって、苦悩を滲ませたような苦い顔。コツンと目を閉じたルースと額がぶつかる。


「ロア、呉々も無茶はするな。無事に戻ってこい」


万感の思いが込められたルースの本音。それにロアも柔らかく答えた。


「はい、陛下。お約束します」


ルースが目を開けて、辛そうに微苦笑した。それから少し離れて、また顔が近づく。お互いの熱を分け合っていた額に、柔らかな感触。額への口付けは祝福。

驚いたものの、嫌ではない。以前、クリスとカインにされた時のような不快とムカつきは感じなかった。

ロアもお返しに、ルースの右手を取って指先に口付けた。見事にゲルダを味方に率いれ、いつの間にかリュシエント帝と取引をしていた賞賛を表して。


「………気をつけて、行ってこい」


行かせたくないと表情で目で、全身で伝えてくるのに、ロアの意思を尊重して、いつも手を離してくれる。それどころか、背中を押してくれる。

ロアは痛くなる胸を無視して、綺麗に笑った。

ドレスの裾をつまんで、優雅に一礼してみせる。


「━━行って参ります、我が君。必ず望むものを手にして戻って参ります。………あなたのお傍に」


微笑めば、ルースが零れんばかりに目を丸くして、やられたというように笑った。

今のロアにあげられるのは、その約束だけだ。不安も心配も完全には消せない。


「ああ、待ってる。こっちの事は任せておけ」

「はい」


彼がいるならば、ロアは安心してこの国を不在にできる。魔法師長がいなくても、ルースならどうにかして切り抜けてくれると信じられる。先王セオルドとその妻カレンティーナも、ケネディ将軍も、クリスとカインもいる。だからきっと大丈夫。

ロアは自分の今後の事だけを考えて、存分に動ける。


そこに元より急な任務に備えて、最小限の旅支度を整えた鞄としっかり防寒具を装備したジェナスが戻ってきた。

ロアも隣の寝室に隠しておいた最低限の荷物を持ち、動きやすい服装に変えた。

防寒具を着込んで執務室に戻ると、ルースが手を出してきた。


「これを。城にいる隠密とリュシエント帝とも連絡が取れる。それからこれも」


ルースに差し出されたダイヤ型の青いタイピンと、紙をロアが受け取った。

広げると、帝国のシリウス城内の地図と帝都アクリウスの詳細な地図と最新の帝国内の情報だった。ジェナスもロアも貴重な物に、息を呑む。

どれだけ彼が心を砕いて、精一杯の事をしてくれたか、よく解った。有り難く旅費と共に受け取った。


「二人とも、気をつけてな。成果を期待している。もしもの時はどうとでもしてやるから、気にせず好きに行動してこい」


腰に手を当てて、ルースが朗らかに微笑んだ。ロアもにっこり微笑み返し、ジェナスが青ざめた。


「いや、それはまずいだろ。どんな恐ろしい被害が出るか…。俺がメチャクチャ苦労するのが目に浮かぶっていうか」

「………あー…。ガンバレ」

「今何か諦めたろ、ルース」

「気のせいだ」

「ぐずぐずしないで行くよ、ジェナス。最短で、囚われの姫を奪い返して戻ってくるんだから」

「姫って、いや、まぁ確かに物凄い美人だけど」


ぶつぶつ言うジェナスを無視して、ロアはルースに向き直る。丁寧に頭を下げた。


「陛下も呉々も気をつけてください」

「ああ、わかってる。お前たちが戻るまでちゃんと無事でいるよ。時々、魔法師長にも母と交互に化けておくから心配するな」

「何だよソレ! 楽しそうだから俺もそっちの方がいい! その姿でした事は全部、こいつの責任になるって事だろ」

「━━ジェナス。師匠の代わりに置いてこようか」


一瞬、緊迫した空気が流れ、冷やりとした声に、ジェナスが「冗談だ」と震えて答える。

ルースに「仲がいいな」と笑われた。二人が嫌そうな顔をすると、更に笑われる。

ロアが嘆息して、ちょいとジェナスの防寒具の腕部分を指先で掴んだ。「移動するよ」と素っ気なく告げる。それに「俺はバイ菌かよ」と返せば、「その方がまだ可愛いげがある」とカウンターを喰らって、ジェナスがうずくまって傷つき落ち込んだ。その姿にロアとルースが内心で、アルスマに似てきたと思っている事など露知らず。


「ジェナス、頼んだぞ」


王として、友人としての込められた言葉。ジェナスが真剣な顔で頷いた。


「━━命令だ。二人とも、無茶はせずに三人で無事に戻ってこい」


祈るように告げられ、ロアとルースが臣下の礼を取る。


「我が君の仰せのままに」

「御意」


ロアが移動魔法を発動させた。室内をふわりと風が吹き抜け、足元が仄かに光る。二人の姿が消え行く際、ルースは漆黒の瞳と視線が重なった。互いに微笑み、一瞬後、部屋に残されたのはルースだけだった。


先程までの賑やかさが嘘のように静まり返った部屋で、ルースは王太子の時とは違い、更に身軽に動けなくなった自分を悔しく思う。きつく拳を握り、出来る事が他にないか、己のやるべき事を考えた。

すると、ノック音がして、ルースが答えると幼馴染みのクリスとカインが入室してきた。ルース以外、誰もいない部屋を見回して吐息した。


「ジェナスに先程言われて驚いたのですが……もう、行かれたのですね」

「急いで仕事を終わらせて来たんだが、間に合わなかったか」

「惜しかったな。ついさっき、行ったばかりだ」

「そうでしたか」

「会わなくて良かったかもしれない。会えば、ロアに暇なら仕事しろって言われそうだ」


カインのため息混じりの言葉に、ルースとクリスが苦笑した。

クリスが気遣うように、ルースを見た。


「ロアたちは」

「大丈夫だろ。とっとと囚われの姫を奪い返して戻ってくる、と言っていた」

「囚われの姫って……」

「いや、まぁ確かに絶世の美人だが……鎖に繋がって閉じ込められているのが似合うというか、変態どもが喜びそうな図ではあるか……?」


クリスとカインが困惑した表情で、どこか遠い目をしながら呟いた。辛かった合宿を思い出したのか、ふるりと二人が震えた。


「普通、囚われの姫と聞いて思い浮かべるのは女性なのに、不思議ですねぇ。周りの女性で思い浮かぶ人が一人もいません」

「自分もだ。エリーも誰の影響か逞しくなったからな…」

「二人とも失礼だ。というかそれは仕事上、一番関わりのあるロアや母を基準にしているからだろ。普段、関わりのあるご令嬢たちやメイドとかもいるだろ」


二人が目を丸くし、思い付かなかったと、深く溜め息を吐いた。


「……よく、行かせましたね。てっきりあなたは別の仕事を与えて、止めるとばかり思っていました。まぁそれで彼女が納得するとも思えませんが」

「そうだな。あいつなら影でこっそり動くだろ」

「だから、命じた。賢者の一族の保護は王の仕事の一つだ。賢者の一族の長が敵の手元にいるのは見過ごせない。どんな些細なこの国の情報も渡すわけにはいかない。彼らの知識も魔法も利用される事などあってはならない。その為の庇護の約束だ」


それに、とルースが困ったように笑った。


「そんな事をしたら、がっかりされてかっこ悪いだろ。俺は縛り付けたいんじゃない。……捧げてくれた忠誠に、たくさん砕いてくれた心に見合う主でいたい」

「……それだけですか? 傍に縛り付けておかなくて、よろしいのですか?」


ルースが「過激だな」と苦笑しながら、探るように見てくる紫の目をかわす。同時にクリスが何を言いたいのかも考えて、内心で息を吐いた。


ルースを含めた王族にだけ、魔法師長が絶対服従の忠誠を捧げている事は既に周知の事実だ。愛人だ何だとの下衆の勘繰りはあるが、今後も傍にいて力を尽くしてくれる事を疑う貴族は少ない。ロアがそう思わせて、二心ない忠誠を見せつけてきた成果だ。


だがそれを、ずっといるものと勝手に都合よく勘違いしているのか、魔法師長をそのまま愛人にし、同盟の証としてルシン国との繋がりを目に見えて確かなものに、民もその方が安心すると婚姻を議会で奨めてくる貴族が増えた。

勿論、以前手酷く断られている事から慎重にと、反対する貴族もいる。民だけではなく、自分たちが安心出来る確証が欲しいだけだろうと、安易に賛同する輩を痛烈に批判した程だ。

その先鋒である宰相が不安げに吐露した。


「ずっと傍にいる保証なんて、どこにもないですよ。ましてや彼女は最長で二年と期間を定めました。最近、ふと思うんです。もしその二年になる前に粗方の改革が終わり、一番厄介な憂いである帝国との争いも無くなって関係が改善されたら、彼女を縛ったクーデリカとの約束は果たされた事になります。そうしたら、やはり居なくなってしまうかと」

「いたら便利だから、頼れて安心できるから、このまま城に残って欲しいと? 民の為と大義名分を出して、お前や俺たちの心の安寧の為に縛り付けると?」


クリスが貴族を批判した事を思い出させるように、ルースが皮肉った。以前のクリスなら、そうではないと、御為倒おためごかしに誤魔化して否定しただろう。

だが今は、「それもあります」とあっさり頷いた。

ルースは成長したなとしみじみ思う。それを促してくれた魔法師長には本当に感謝の念が尽きない。成長した褒美というわけではないが、質問に答える事にした。


「クリスが不安に思ったのは、順調に進んでいる事に気づいたからだろう」

「……気のせいではなかったわけですか」

「ロアが画策してた。実際に魔法師長が少しくらい不在でも、どうという事もなく、落ち着いていられる。それ程、体制が整いつつあるって証拠だろ」


それがルースたちが望んで目指していた改革だ。魔法師長がいなくても、揺るがない国家体制。


「様々な老害や弊害が取っ払われて、随分と城内の風通しが良くなりました。増えるだけの無能貴族が魔法師長に手を出したり、急に大人しく従順になったり、国庫も没収した財産や罰金で潤い、研究費も増額して順調に発展して、民にも還元し始めました……彼女はそんなに早くに城を出て行きたいのですか?」


クリスが、そこはなとなく色気が漂う何とも言えぬ微妙な顔になる。


「単純に怖いし、自分の居場所じゃないと思ってんだろ。こんな大事に関わっている事も、巻き込まれて今回のように誰かに何かあるのも、いざこざが長引いて争いが激化して人を殺す可能性が高くなるのも慣れてない。当然と言えば当然で、ずっと無理させてきた自覚はある」


ルースは意外な事を聞いたと、不思議そうな顔をするクリスとカインを一瞥した。執務机に回って、変装の指輪と通信魔道具を手に取り、自分が保管と管理をしようと決めた。


「だから春先までに、争いが本格化する前にある程度終わらせようと必死なんだ。その一方で最悪も覚悟して、人を殺す前にお菓子をたくさん作っているんだ。間接的な事は置いておくとして、直接一人でも殺したら、ロアは菓子作りの仕事を辞めると決めているそうだ」

「早く解放される為に、ですか」

「たぶんな。俺の推測混じりの話だ。が、外れていないと思う」

「それであなたは手放すと?」

「さてな。それより、忙しくなるからしっかり、仕事しろよ。ロアたちが戻って来ても、すぐに仕事が出来るとは限らないからなな」

「でもそれまでは、暫く静かに平和に暮らせるだろ」


黙っていたカインが、口を開いて肩をすくめた。


「これで少し羽を伸ばしてゆっくり出来る」

「そうですね。仕事は増えましたが、大体は終わらせていってくれたようなので」

「帰ってくるなり、抜き打ちチェックがあるかもな」

「恐ろしい事を言わないでくれ、ルース」

「そういえばいつ戻ってくるかは知らないのですね」

「最短でという事だから、二日か三日で終わらせてくるかもな。好きに動いてこいって言ったから」


二人が衝撃を受けて、愕然とした顔になる。ジェナスと同じ反応だとルースは苦笑した。


「そんな恐ろしい許可を与えるなんて…あなた正気ですか、ルース?」

「そうだぞ。何が起こるか…バレて問題になったらどうするんだ!?」

「どうもしない。早く戻って来てくれれば喜ばしい事だろ━━ああ、二人にはまだ密約の件を話してなかったか。丁度いい、このまま話すか」


ルースは唖然とする二人に、イオニス帝国との密約をざっと語って聞かせた。目玉を零れんばかりに大きくして、二人がぐったりとした。


「それはまぁいいですが、本当に二人だけで……大丈夫そうですね。きっとジェナスが苦労するだけです」


クリスが頭を抱えて悩ましげに嘆息し、カインは無言で帝国の方角を向いて合掌した。

ルースは苦笑しながら、二人の無事を祈った。




本当はここまでが前の話と合わせて一話でした。そんな事したら、一話が三万字越えてましたね。

今後も一話が長くなりそうですが、お付き合いくださると嬉しいです。

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