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一旗揚げましょう?  作者: 早雪
36/38

36, 2 - ⑩

一万八千字越えてます。

シリアスです。よろしくどうぞ。

誤字脱字、誤植等は気付いたその都度、直して参ります。内容に変更はありません。



『━━命令だ。二人とも、無茶はせずに三人で無事に戻ってこい』


そう言って見送られてから、三日が過ぎた。

冬である黒の季節、二の月の中旬に入ったイオニス帝国はまだ冬の真っ只中で、毎日容赦なく雪が降り、踏み固められた雪の上に新雪が積もっていく。

そんな雪深いイオニス帝国の帝都のアクリウス。辺り一面、底冷えのする真白の世界で、辛うじてカラフルな外壁があるから、雪との境界線の判別がつく街並み。その大通りから大分外れ、雪に埋もれた鄙びた区画。

狭い建物の間にある地下階段から、既に閉鎖された酒樽のある店内に入って、隣の静かなバーに移動してから二階の宿泊部屋に辿り着いたロア。

隠れ部屋のような宿に入ったロアは、着膨れした防寒具を脱いで、一つ息を吐いた。


王命により、直ぐ様イオニス帝国帝都郊外に移動して、人気のない帝都の一画に潜入したロアとジェナスは、まるで薄氷の上を歩くように慎重に慎重を重ねて、情報収集を行っていた。

師のアルスマの居場所は割れているのだから、こっそり潜入して奪って帰ればそれで仕事は終わりだったが、そう簡単には問屋が卸さない。


古い、それこそ魔法が盛んだったノーザルス帝国時代の建国当初よりある代々の皇帝が住まうシリウス城。首都をファウスに移す前のノーザルス皇族の住まう城であり、皇族の直轄領だった城だけあって、強固な半永久の不可侵の結界が張られていた。

その後も色々と魔法を重ねがけし、魔道具の類いで多種多様な罠と魔力封じの結界が張られた巨大な灰色の城は、正に要塞。

正規の手続きを踏まないと出入りが難しい、一種の監獄のようだった。


よって移動魔法も外部による大規模な魔法攻撃も阻まれる。敷地内に入れば、制限があるものの魔法は使えそうというのが、古い文献やクーデリカの知識を鑑み、実際に目で見てロアが出した結論だった。クーデリカ曰く『当時の魔法師にとっては、移動魔法が使えないのが不便すぎて今のファウスに城を移した』らしい。


勿論、強行突破が不可能ではない。

だがそれをすれば、間違いなく犯人は絞られ、容疑者の最たる名に上がるのは、魔法師長だろう。その次がファウス国の王族や、貴族、優秀な魔法師となり、結局のところ魔法や魔道具に通じているファウス国が一番怪しまれる。


そんな愚を犯して、ルースやファウス国に迷惑をかけるわけにはいかない。それに、旅と危険に慣れていた師が捕まったという事実が気になる。人一倍警戒心が強いアルスマが一体どうして捕まったのか。何も知らずに行って、万が一にも気付かれて、師の二の舞になるわけにはいかない。


事前に帝都のアクリウスに潜入して、師の痕跡を探って辿っていたロアは、毎日のアルスマとの通信の会話で、何処にいるか言葉の端々からヒントを受け取っていた。

ルースたちに内緒でこの国に来てはその跡を辿り、既に帝国で彼が活動の拠点としていたこの部屋を見つけた。この部屋が、アルスマが捕まる前までいた場所だ。


帝国に来てから三日の間に、他にも師がいた場所を見つけては、各所に隠された魔法の痕跡を発見し、暴いた。そこには、師がかき集めたクアドルの不正の証拠たちが隠されていた。行動の報告書や小さめの物品、今後の計画書や各地で取引した契約書、証言や証人の情報。

それは既に、ファウス国からロア宛に転送されてきた魔法師長の仕事の書類と共に、手紙をつけて送っていた。


同時にジェナスが捕まった際の師の足取りを探り、幾人も辿って漸く、最後に接触したと思われる、クアドルの息がかかった者を見つけた。そのジェナスは例の男と接触を図り、今日、これからこの部屋に連れてくる予定だ。

ロアも行く、或いはロア自身が接触と交渉をすると言ったのだが、却下された。不満だったが、そこは隠密として慣れたジェナスの意見を受け入れた。


殺風景な部屋を見回してロアは、嘆息した。

焦っても仕方ないとわかっている。だが、日が過ぎれば過ぎるほど、不安と焦燥感が募るばかりだ。起きている時は、クーデリカにも諭される。そして彼女が『わたくしが巻き込んだから…』と落ち込むから、ロアが「大丈夫」と笑って励ます事になる。


そのクーデリカは今はもう寝ていた。最近、眠る時間が多い。ロアの体験した記憶の共有も追いつかない程に。心当たりはあった。どういう現象が起きているのかも、自分の事なので何となく解っている。考えると頭が痛いので、何も考えないようにしていたが。


ロアは手の中のメモを見て、肩の力を抜いて微笑む。今日、急ぎ届いたルースからの返事。『よくやった』と走り書きされた一文。それが嬉しくて何度も見ていたが、残しておいて誰かに見られたり、落としたりして、筆跡の証拠にならないよう念の為にそろそろ処分しなければと、魔法で炎を灯して燃やした。


ベッドに腰かけて、天井を見上げる。黒髪がさらりと動いた。この国に来た始めは他国なんて来たことがなくて不安で心細く、けどそれ以上に師の事を考えて焦っていた。ぼんやり木目を見て、師の事に頭を切り替え、祈るように目を閉じる。

その時、ガチャリとドアノブが回された。ロアは目を開けて漆黒の双眸を部屋の入り口に向けた。


四、五十代の小柄な男が赤ら顔で入ってきた。顔が赤いのは寒さのせいだけでないようで、足元が覚束ない。

部屋にいるロアに気づき、値踏みするようにじろじろと顔から胸から腰から足へと目を向けてきた。「まぁまぁか」という呟きと不躾な視線に感じた不快を隠し、ロアはすっと立ち上がって、淑女の礼を取る。


「お待ちしておりました、ダガンさん」


本当に手薬煉てぐすねを引いて待っていた。

顔をあげて微笑めば、歩み寄ってきていたダガンに押し倒された。驚きに目を開いたのは一瞬、ロアは抵抗した。

男はニヤニヤ笑いながら、酒臭い息を吹き掛けてきて、気持ち悪さにロアは顔を歪めた。


「没落した令嬢が身売りとは可哀想だな。オレみたいな男にすがって、上とのツテを求めるなんて。まぁ初めてらしいから、優しくしてやるよ」


鼻息荒く、下婢た笑みを浮かべる醜悪な顔を、ロアは強ばった冷ややかな表情で見た。男の発言でジェナスがどんな説明をして、騙して連れてきたかが解った。


(あのバカジェナスっ! 帰ったらただじゃおかない!! マジはげろ!)


大方ロアなら魔法もあるから大丈夫だと思ったのだろうが、こんな狭い部屋で簡単に使える筈がない。

両手を押さえ込まれて、首筋に酒臭い舌が這い、ゾッとしたロアは容赦なく男の股間を蹴りあげた。男が目を飛び出さんばかりに開く。「ぐふっ!」と吐きそうな顔になりながら、ベッドから転げ落ちて土下座するように体を丸めた。


ロアは蔑むように見下ろして、睨み付けてくる男に護身用に持っていたナイフを突き付けた。男が「ヒィっ!」と硬直した。


「大人しく情報を渡すなら命は取らない。抵抗するなら、まずはその指を切り取る。それとも今さっき蹴ったところを一思いに切り取られたい?」


震えと吐き気を隠して、淡々とロアは無表情で告げた。

それが本気に見えたいい脅しになったのか、ダガンが蒼白な顔でガタガタと震えた。

その様子を見ながら、自殺等の暗示魔法がかかってないか探り、自白剤が使えそうだと考える。同時に疑問が沸いた。本当にこの男に師は捕まったのだろうか。その辺も可及的速やかに確認して、城に向かわなければ。


タイミングよく、周囲に男の尾行やこちらの様子を窺う者がいないか辺りを確認してきたジェナスが、部屋に戻ってきた。

ロアは闇魔法で男を眠らせた。深く眠らせてから、記憶を引きずり出すつもりだ。ついでに、この弟弟子の恥ずかしい記憶でも引き出してやろうかとにっこり微笑むと、ジェナスがぶるりと震えた。



***



夜陰に紛れて、ロアとジェナスはイオニス帝国の皇帝が住むシリウス城の庭に忍び込んでいた。本来なら半月より膨らんだ月が浮かんでいてもおかしくないが、分厚い雲に覆われ、雲の切れ間からは弱い光がたまにのぞくだけ。その状況も潜入に一役買ってくれた。

貰った城の地図と情報を活用して警備の目を掻い潜り、以前ロアが開発した気配と姿隠しの魔法を併用して堂々と庭を歩く。

歩きながら広い敷地内の中央に立つ灰色の角ばった尖塔から枝分かれしている各建物を見て、ダガンから掠め取った情報と照らし合わせた。宰相の執務室がある建物の一画に向かう。


襲われかけたあの後、男を闇魔法で深い眠りに落としてから、ロアは魔法で記憶を覗き、しぼれるだけ情報を絞り取って、ジェナスに男と飲んだ店近くに泥酔して路地に倒れ込んだように見せて放置させた。

男が長く連絡がつかなくなった事で、クアドル宰相に何かあったと勘繰られて警戒されるのは厄介なので、始末はしない。それに宰相の悪事を暴く証人にもなりそうだったので、その辺の匙加減は帝国に任せる事にした。すぐに店から出てきた客や主人が気付いて保護したので、死にはしないだろう。


ついでにお仕置きがてらジェナスも拘束して、彼の幼い頃の恥ずかしい失敗談を読み取って語り聞かせたら、泣きながら謝られたので、拘束を解いて泣き崩れた弟弟子の頭を撫でて、何故かロアが慰めるはめになった。でもこれで大人しく慎重になり、ロアを陥れるような嫌がらせはしなくなるだろうと赦した。

驚かせて緊張を解す事を目的に、一応すぐ助けに入るつもりだったそうだが、そういう問題ではない。弱味を握ったので、今回は赦すが次はないと念を押した。


それからロアは読み取った情報と地図を見て、作戦を練った。幸いにして、男は宰相の城の隠し部屋を知っていた。そもそもアルスマの飲み物に一服盛って、クアドル宰相の指示でここに運んだのもダガンだった。クアドルは「有用な駒が飛び込んできた」と言っていたから、恐らくアルスマの素性に勘づいている。


ロアは内心で苦く忌々しく思い、ダガンの記憶のクアドルについ舌打ちして、殴りたくなったが堪えた。一つ驚いた事は、ダガンが落ちぶれているものの、クアドル宰相の親戚で幼い頃は仲が良く、「クアドル兄さんはすごい。兄さんが国を治めたらきっと良くなる」と褒め称えて慕っていた事だ。これで勘違いして、宰相が王位簒奪を狙っていないと思いたい。


予定が決まってからは、こちらに着いた初日に、行動に移すと挨拶して以来連絡を取っていなかったシリウス城に潜入しているルース直属の隠密と、ルース自身にも連絡を入れた。

これから城に忍び込む事、どんな結果であれ夜明け前までに決着をつけて、一度ファウス国に戻る事。荷物も必要最低限を残して、侵入不可のロアの寝室に、集めた情報や書類も地図も魔法で全て移動させていた。ついでに送られてきた仕事の書類と共に、医者と薬の用意をお願いしておいた。

隠密の方にはダガンの情報を与えて、皇帝に教えるのも、取引に使うのも好きにしていいと伝えた。


曇り空の為、星も月も見えない夜。身に染みる寒さに夜闇の黒に映える白い吐息。ロアとジェナスはきちんと魔法が発動して姿が見えないとはいえ、緊張してなるべく人の少ない道を歩きながら、一つの建物にロアの移動魔法で侵入した。


真夜中の冷える季節なので、すれ違う見回りの兵をやり過ごせば他に人気はなく、ある程度動きやすくなる。

古い建物のせいか無骨な灰色の石壁と床は見た目も体感温度も、寒々しさを演出するのに一役買っていた。

侵入した食糧庫から慎重に、隠密たちから報告にあった地下の隠し部屋に続く部屋へと足を進めた。途中何度か見回りの兵や使用人から身を潜めて会話を聞き、件の部屋に辿り着く。


だが、やはり部屋の内にも外にも見張りの兵と魔法師がいた。

この部屋から地下への道を探さなければならないが、いくら姿や声が見聞きできない魔法がかかっているとはいえ、部屋の物を動かしたり、弄っていれば流石に魔法師も兵も違和感を覚えるだろう。暫く廊下の角から様子を窺うが、交代も無さそうだ。


「どうする? 俺が別の場所で騒ぎを起こして囮になるか?」

「それは駄目。ここで二手に別れるのは、何かあった時にフォローに入れないし、三人で戻れない。最悪、私が魔法で全員を強引に移動させればまだ逃げ切れるよ」

「それじゃ」

「地図にも記載されてなかったから構造も解らないし、目印も何もないからやりたくなかったけど、背に腹には代えられない。魔法で地下に移動しよう」

「………大丈夫なのか? ここに来てから、魔法の使用頻度が多いだろ。それもお前しか出来ない難度の高いものばかりだ。特に今日はこの短時間で何度も使ってる」


ジェナスが案じるようにロアを見てきた。

今日の昼間もアルスマの残した魔法の痕跡や隠してあった証拠品を探し、夜はダガンを深い眠りにつかせて記憶を読み取り、記憶を改竄かいざんした。おまけにジェナスの過去の恥ずかしい記憶も暴いて、敷地内と城内へ侵入する為の移動魔法。それもここまで姿を消す魔法を使用しながら。他にも書類や荷物を送ったり、細々とした魔法を使っていた。

更にこの後、ここからファウス国まで三人で移動するという大魔法も控えている。

魔法師長のロアというより、クーデリカの魔力がなければ昼のだけでバテていてはずだ。


「……まだ余裕。ただどこに出るか解らないから、気をつけて」

「わかった」


ロアの顔色を見て、ジェナスは偽りではないと思う。基本、ロアが誤魔化しはするが嘘はつかない事を知っている。それよりは、慣れないここに居たくないといった雰囲気が漂っていた。

ふと、ジェナスは少し疑問に思った。クーデリカが寝ているのはいいとして、よくこれだけの魔法を魔力を供給して貰いながらやってのけているな、と。以前よりも使用の持続時間が長い。練習しているところはあまり見ていないが、きっとしれっとした顔の裏で色々計画していたように、努力していたのかもしれない。


そんな事を考えている間に、辺りの景色が歪み、内臓が浮かぶような体の浮遊感。一瞬後には、じめじめした黒に近い剥き出しの石が組まれた壁の回廊に出ていた。

篝火が焚かれているのに、濃厚な闇が支配し、どんよりと濁った重い空気。隠密として訓練を受けたジェナスは、感じた異臭に吐き気を催した。嗅ぎ慣れたものだが、ロアの護衛をしてから久しく体感してこなかったもの。血の臭いに、死体と腐敗の臭い、乾いた汚物や、えた臭いがこの地下空間に染み付いていた。


固まって動けない護衛をほっぽって、ロアは近くの部屋の気配を探り、そっとドアを開けた。慌ててその後にジェナスが続く。

入った薄暗い部屋は廊下と同じ荒く削り出された石壁に天井から手枷の鎖が垂れ下がっていた。そこに捕まっている人の姿はないが、壁にも手枷にも赤黒い血痕が飛び散り、付着していた。何より鎖の手枷のぶら下がる床にはおびただしい赤黒い水溜まりだったもの。既に乾いていたが、鉄錆の臭いが部屋を包んでいた。

見慣れているジェナスですら悪寒が走って慄然とした。慣れていない姉弟子を心配して目を向けると、ロアは唇を噛んで拳を握っていた。


「ロア」

「行こう。早く探すよ」


焦燥を滲ませた小声。

部屋を出る際にすれ違った顔色は悪く、体は小刻みに震えていた。その普通の反応にジェナスは安堵した。

普通の若い女性ならおぞましさに当てられて、気絶しても、吐いてもおかしくないだろう。そういう意味では普通とは違うのかもしれない。だがここに来て、そんな状態になられてはお荷物以外の何物でもない。

ロアも思うところはあっても、師の身を案じる事、助ける事を優先して考え、気絶している暇はないと叱咤して自分を動かした。


他にも部屋を覗きながら、時に情報がないか探りながら幾つか部屋に入って書類等を押収しつつ、白骨死体、既に事切れた無惨な死体、麻薬漬けや魔法研究の犠牲になった人体実験の部屋などがあった。

異様な狂気が日常のこの地下空間で、ロアが普通に怒っている事がジェナスには正気を保てる一つの要素だった。


途中で階段を見つけ、少ない人の出入りの流れを見ながら、おおよその位置見当をつけて、奥へと歩を進めた。

目の前のドアが開いて、鉄面皮の屈強な兵が三人、出て来て階段を上っていった。ロアとジェナスは互いの顔を見合わせて、頷いた。ジェナスが解錠し、二人が部屋に入って鍵をかけた。蝋燭が灯る室内に目を向ける。


そうして漸く弟子二人は、探し人が捕らわれた部屋に辿り着いた━━。



***



ファウス国側から連絡を受け、情報を渡された皇帝リュシエントはなかなか寝付けず、落ち着かない気分でまだ仕事をしていた。

疾うに真夜中を過ぎた夜半。恐らくもう、彼の国の誰かがこの城に侵入して動いている。城内に慌ただしい気配も騒ぎも何もない事から、まだ見つかってはいないのだろう。


ファウス国新国王の戴冠式に出席し、戻ってきてからリュシエントは、彼女に言われた言葉をずっと考えていた。それから自分なりに今の現実に目を向けて、本腰を入れて関わってみる事にした。

望んでいたわけではないが、この地位に生まれたからには、こうしてここまで生きてきたからには、その分の責任を果たそうとやっと現実を見て向き合った。これまでの昔に思いを馳せてふわふわしていた自分とは決別して。


そうしてまず邪魔になったのは、先代の皇帝の時より宰相をしているクアドルだった。彼の野心には気づいていたが、興味がなかったので放っておいた。それに、即位してすぐに実績もないのに彼を排除しようとしても、リュシエントの方が失脚させられただろう。時折、意見が対立する事はあっても邪魔ではなかったから、皇帝のままでいられたのだと思う。


でも今は、過去に心をとらわれる事があったとはいえ、リュシエントなりに政務をこなして、実績も積んできた。そのお陰で、対立が目立ち始めても、リュシエントについてくれる部下もいる。


「前はどうなろうとあまり興味はなかったんだがな」


今はこの生に執着をいだき始めていた。その変化も彼女に会った事がきっかけだろう。城に戻って以来のリュシエントの変化を周りも気付いて、協力者も増えた。

協力者や自分を慕う者を見て、自分は今まで勿体ない事をしていたと実感した。過去に捕らわれず広い視野を持って、いかに自分が遠い遠い昔しか見ていなかったが、よく解った。


「感謝してもしきれないな…」


一つ息を吐いた。

魔法師長クーデリカ・オルシュタインを名乗る彼女。初めはその名を聞いて、皇女クーデリカを思って興奮した。

過去に自分で自分に転生を望む魔法をかけたとはいえ、まさか上手くいくとは思っていなかった。記憶が戻ったのは十歳を過ぎてからで、戻ってすぐに思ったのは━━会いたい。それだけだった。

何処にいるかもわからない、兄と開発したあの魔法がが上手く作用しているか、どんな形で実現するかもわからず、この広い大陸で下手したらもういない、この大陸ではないどこかで蘇ったかもしれない、会う事が困難で奇跡を願うしかない再会。


戴冠式への出席は反対された。

宰相からも、よく仕えてくれている側近たちからも。それでも会いたかったから、情報収集と魔法師長とファウス国の実力を見に行くという尤もらしい理由に、細々とした有益な理由をくっつけて、強引に承認させた。

クアドルも周りも納得していなかったし、他に任せろと最後まで渋っていたが、ファウス国でどんな目に遭っても、人質にとられたり、最悪命を失う事になっても構わないと覚悟して、対応もそのようにしろと言えば、反論は減った。


クアドルも一応納得した。

リュシエントが戻ってきてもいいが、戻らなくても何の問題もないから。戻らなければ、それを正当な理由にしてクアドルが指揮を執り、ファウス国に攻め込めばいいから。

そんな自殺行為に貴重な戦力を割けない、民を犠牲には出来ないと、ファウス国への護衛も付き人も少なかった。

けれどそんな心配は杞憂で、国賓に何かあっては大変とファウス国にとても良くして貰えた。睨まれる事や避けられる事があっても、強く言い含められているのか、統率力が見事なのか、帝国にいる時よりも快適に過ごせた。

過去からの様々な発展を見て楽しくて、多忙な魔法師長に会える宴会を楽しみに待ち、漸く出会えた人。

会場に現れたその姿を見て、心臓を掴まれた心地がした。最後のリュシカの記憶と違わないその姿に。


「はぁ、駄目だ。全然仕事が手につかない。何より落ち着かないな」


リュシエントは自分自身に、苦笑した。

誰が来ているとは聞いていない。けれど、このシリウス城に乗り込んで来ると聞いて真っ先に思い浮かべたのは、クーデリカの姿をして、その存在をよく知る彼女の事。


ルースの即位を祝う宴会場で見た姿に、勝手に喜び舞い上がって、過去の自分がよく知るクーデリカだと思い込んで浮かれた。

どう接触して自分に気付いて貰うかばかり考え、熱心に見つめた。周りは氷の皇帝のポーカーフェイスのお陰で心情に気付かず、勝手に最難関となる魔法師長をどう攻略するか考えている、弱味を握ろうとしていると勘違いしていたが。

本当はすぐにでも接触したかったのに、滅多にお目にかかれない皇帝に挨拶してくる者が非常に多く、他の王に先を越されて焦れる時間ばかりが過ぎた。


やっと傍に行けて胸が高鳴って嬉しくて、視界に入ってずっと長く思い続けた憧れの人の手をとり、衆人環視の中で踊れた時は今世の自分の生まれに感謝した。

改めてじっくり誰に憚る事なく見つめて、記憶と変わらないクーデリカに会えた嬉しさを噛み締め、リュシエントの心に余裕が出来たからか、魔法師長としてファウス国の為に臣下となり、尽くす姿が昔と重なって嫌な気分になった。


クーデリカがどうして今の立場にいるのか、困った事はないか、利用されていないか、それとなく話を聞き出そうとした。同時に、自分の存在に気付いて欲しくて仕方なかった。

目が合って微笑まれれば年甲斐もなく動揺し、昔の自分の名前が出てきた時は、叫びたい狂喜に打ち震えた。

それで見た事のない綺麗な笑顔に誘導されるまま、転生して記憶がある事を話してしまった。

まさか別人なんて思いもしなかったから。


(本当に驚かされた……)


聞きたい事は聞いたとばかりに、昔の話題を振るリュシエントに合わせていたクーデリカが、突然掌を返して革命の皇女ではないと言うので、混乱した。

彼女の存在が気になり、どこかでまだクーデリカだと信じ、敵対する自分にわざと素っ気なく振る舞っているのだと考えた。絶対に逃がすまいと、邪魔されずに二人きりで詳しく話をする為に思ったのは、ここで口説く事。

求婚して混乱させようとしたのに、あっさり見抜かれて思惑は未然に防がれた。けれども、招待客たちは驚き、動揺してその夜会で強く印象に残った出来事になった筈だった。

それに気づいた彼女は、すぐに和平という言葉で周囲を混乱させ、大魔法を使って記憶の印象を鮮やかに塗り替えた。ますますリュシエントが興味を持ったとも思わないで。


「来ているのなら、会って話してみたいが」


それをすれば、クアドルに怪しまれてしまう。今回の密約が知られれば、リュシエントもファウス国王もただでは済まされない。そうなったら、名前も知らない━━最後まで何も教えず、素顔も見せてくれなかった演技上手な魔法師長は、さぞかし怒るだろう。友人にという話も一瞬で消えそうな気がした。


それを想像しただけで、少し笑えた。

席を立って窓から、最低限の明かりが灯る宰相のいる棟を見た。

綿密に練られた密約。邪魔をさせる訳にはいかない。さっさとこんな状態は終わらせなければ。本格的な戦争が始まって、憎しみの連鎖が止まる事なく続く前に。その為、失脚させる材料は多い方がいいと、情報を貰ったダガンを確保に向かわせた。

昔の記憶があるせいか、リュシエントはファウス国が嫌いではなかった。五百年前も決して賢者の一族を表舞台に出して戦わせようとしなかったノーザルス皇家、その後、賢者の一族を保護してくれた、だいぶ遠いクーデリカ皇女の血を引く王族の治める国。


クアドルが捕まえたのは既に数少ない賢者の一族。それも長であるカルマンの名を継ぐ男だという。

話を聞いた時に感じたのは、まだ続いていて一族が存在した驚きと、家族である一族の子孫に手を出された怒り。手を伸ばせない己の悔しさと不甲斐なさ。

願わくは、無事に逃げ切って欲しい。

雲間から覗き始めた月明かりを見上げ、窓につけた手を握りしめて宰相が管理する城の棟を見つめ、首を捻った。じっくり目を凝らすと、違和感に気付いた。

建物が揺れている。

嫌な予感がしたリュシエントは、部屋を飛び出した。



***



今まで見てきたどの部屋とも同じ作りの岩肌が剥き出しの黒に近い灰色の壁と床。天井から吊り下がる手枷は、吊るす長さを調整できるリールのようなものに繋がり、壁のフックで固定されている。血や饐えた臭いも変わらない。というより、他よりも濃かった。熱気が篭り、強い体臭と男女の臭い。荒い息遣いと甘ったるい香り。それらが混じり合って、異臭となっている。

他とは違い、ある程度の清潔さが保たれた部屋で、足がつく長さで天井から下がる手枷に吊るされているのは、半裸でぼろぼろの服を着た襟足の長い白髪の色男。白い玉のような肌にはみみず腫や細かな裂傷。皮膚が裂けて血が滲んでいる。

顔は俯き、金の双眸は茫洋として現実ではない何処かを眺めているようだった。

異常な空間であっても、誰もが見惚れそうな絶世の美貌は失われる事なく、ただならぬ廃頽的はいたいてきな色香を醸し出し、振り撒いている。

色がましい雰囲気にジェナスも思わず呑み込まれそうになった。落ち着こうと隣を見ると、息を呑んだ驚愕から、茫然として能面へと変化した姉弟子。その様子に荒れ狂うジェナスの心音が治まった。

ロアは繊細な一枚の絵画か彫刻のように吊るされた美男子からその足下に目を移していき、唇を噛んだ。ジェナスもその視線を辿る。


アルスマの足下には柔らかなクッションと布団が敷き詰められ、血や湿り気を帯びていた。そこから離れた壁際には裸体の女一人と男二人が折り重なるようにして倒れていた。引き締まった胸がはっきり上下するアルスマとは違い、三人は呼吸はしているが虫の息。その三人の肌も傷つき、血が流れていた。そこから少し離れた所に、食べかけの食事や水差しが転がっている。

余りの不快さと醜悪さと悪趣味さに嫌悪を隠さず、ロアとジェナスは顔を盛大に歪めた。


「ジェナス、下ろして」


震える小さな声で出された短い命令。

ジェナスは思考が麻痺していたが、我に返って手枷の鎖の事と理解した。鎖の長さを固定している壁際に、震える体を叱咤して動かした。

一方のロアは焚かれた香炉を踏み潰して、倒れている三人へと近づき、それを案じるようにジェナスが見ながら、固定された鎖を外してゆっくり緩めた。吊るされた体に力は入っていなかったようで、鎖だけで支えられていたアルスマはすぐ膝をついた。


近づいたロアの気配に気付いた女が怯えたように、手をのろのろと頭を庇うように動かして震え始めた。男の一人は白目を剥いて既に絶命していた。そしてもう一人の男は、急に体を起こしたと思うと興奮した獣のようにロアに襲いかかってきた。押し倒され首もとを力任せに締め上げられ、外套と服の襟元が少し破れた。


「ロア!」


慌てたようにフックで固定して、ジェナスが駆けてきた。勢いそのままに男を蹴り飛ばして、ロアの手を掴んで引っ張り起こした。噎せながら起きたロアの破けた服の間から覗いた白い素肌に、首筋付近に噛みつかれたような赤い痕。それを見て、自分でも意識が凍りついたのが解った。蹴り飛ばした男を見て、魔法で燃やそうと確実に殺す為に手を向け、横からその手を掴まれた。


「人が来る。静かに」


魔法の気配がしたのは一瞬。発動した魔法に包まれて、周囲から自分たちの姿を隠す。食べ物が転がる部屋の片隅へと移動して、慌ただしい数人の気配を感じながらドアに目を向けつつ、ロアは首筋を服で擦るように拭った。気付いたジェナスが何とも言えぬ顔をして唇を噛んだ。

ロアの負担にならないよう防音の結界はジェナスが張った。ドアから目を離さず、警戒したままジェナスが悔しそうに言う。


「ごめんな」

「謝らないで。ああなる可能性があったのに、予想外の力で喉を圧迫されてまんまと襲われた私も悪いから。師匠と同じくらい強い数種類の麻薬や催婬剤を使用されているみたい」

「えっ!? それじゃ」

「師匠はあの三人ほど影響を受けてない。説明は後。黙って」


ドアが開いて、白髪が目立つ初老の中肉中背の男を先頭に、屈強な五人の兵士と長衣をまとった細目の男が鍵を開けて、入ってきた。上等な服を着た初老の男は立ち振舞いも堂々としており、まるでこの場の支配者のようだ。

文官服の長衣を着込んだ鼠色の髪に細目の優男が、初老の男に「クアドル様」と声をかけるのを聞き、ロアとジェナスは食い入るように、その人物を凝視した。

クアドルは気にせず、途中の床に転がった男を踏んで真っ直ぐアルスマの元に歩み寄った。顎に手をかけ、顔を上げさせる。

秀麗な美貌をじっと見つめて、倒れる女と男を一瞥した。


「まだ何も自分の名前すらも話しません。致死量ギリギリの薬を与えても、思考を奪う強力な自白剤を飲ませても、拷問をしても、口を割りません。それならばと快楽を感じる薬や正体を無くす催婬剤を投与して使っても、男と女に襲わせても何も話しませんでした。毎日昼夜問わず、数種類を投薬しても変わりません。いいように甚振られ、責め苦を与えられ、痛みと快楽に感情も思考も壊されても何も言いません」

「それでも相変わらず妖艶というか、美しい人形だな。綺麗なものだからと恩情をかけたのが悪かったか。存外、壊れないものだな」


淡々とした文官の報告に、クアドルは唇を歪めた。

ざらりとした殺意がジェナスの中で膨れ上がり、袖を強く掴まれて隣を見た。真っ青な顔で震えながらも耐えている姉弟子。目は口ほどに物を言うとはよく言ったもので、ジェナスは思わずぎょっとして、冷静になった。


「その男が特別なのでしょう。屈強な兵士が何人も艶かしさにやられて興奮し、職務を忘れて襲った者や失神した者がいたほどです。既に廃人になっていてもおかしくなく、各種薬もこれ以上与えれば間違いなく死ぬかと」

「綺麗な人形でそれなりに気に入っていたのだが、役に立たぬのなら構わん━━処分しろ」


瞬間、ぶわりと。

濃厚な魔力が溢れて、空間が揺れた。

ジェナスが震えながらも、ロアの腕を掴んで押し留めようとした。それでも我を失ったロアは、止まらなかった。魔力のない者には毒となる強く濃い魔の力。それが渦巻き、クアドルを始めとした男たちに叩きつけられた。荒く削られた石壁に兵士の甲冑が凹む圧で衝突した面々が、激しい衝撃に気絶した。血を流して倒れる者もいる。


ロアはいないもののようにジェナスを振り切って、アルスマの前に膝をつき、ぎゅっと抱き締めた。一筋の涙が流れ、きつく目を閉じ、歯を食い縛ると、倒れた男たちを射殺さんばかりに睨んだ。アルスマを守るようにロアから放たれる魔力の渦に抗って、ジェナスがどうにか二人に近づき、手枷を外した。

枷が外れた途端、アルスマが唸り声をあげてロアを攻撃した。咄嗟で拳を避けられず、ロアの左頬で鈍い音がした。錯乱しているアルスマは振り払うように上げた手でロアの右頬を打ち、獣のような咆哮をあげて首を絞める。

アルスマとロアの二人から流れ出る魔力に吹き飛ばされたジェナスは、どうにか師に近づいて引き剥がそうとした。だが、近づけなかった。師の顔も姉弟子の顔も醜く苦しげに歪み、酔うほどに濃い魔力の渦に部屋というより建物全体が大きく揺れて、悲鳴を上げた。石壁に深く亀裂が入る。天井も大きく抉れ、崩れた砂塵が舞った。


「……っ、し、しょ…っ」


ロアが泣きながら手を伸ばして、金の目から流れる涙が伝う頬に触れた。はっと我に返ったように、アルスマから力が抜けた。ロアが師の体の下から抜け出して、咳き込む。それを黙って見ていたアルスマの目に徐々に濁っているが、光が戻った。

魔力の衝撃波も徐々に収まる。


「……あ……あぁ……っ!?」


痛みや疼きに耐えるように大きく震え、腕や喉を掻き毟ろうとしたアルスマをロアが抱き締めた。淡い光が師の体を包み込み、切り傷やみみず腫が癒されていく。二人ともぼろぼろで髪は乱れ、血の痕が痛々しいが、優しい光にジェナスはほっとした。


「………ロ、ア……?」

「何ですか、師匠」


ぼんやりとした掠れた声に、ロアが普通に答えた。

アルスマがゆっくりと顔をあげて、正面から自分を抱き締める弟子を安堵したように見た。


「………ロアだ…」


甘えるようにすがるように抱きついて、ロアの首もとに顔を擦り付けるようにしてアルスマは目を閉じた。赤く腫れた顔のロアが辛そうに唇を噛んで、噛みすぎたのか血が滲んだ。

白髪を優しく手でいて、うとうと微睡むアルスマに告げた。嗚咽が零れないように深呼吸して、明るいいつもの声を作る。


「っ、……心配、したんですよ…? 皆も、………母も待ってます。帰りましょう、師匠…」


その言葉に緩く微笑んで、アルスマが気を失った。ロアが悔しくて腹立たしそうに顔を歪める。しっかりとアルスマの体を支えて、声も我慢してひたすら静かに涙を流した。涙が、切れた頬から流れる血と混じり合う。

ジェナスがそっと二人に近づいて、ふと部屋に響いた音に顔を上げた。ロアも首を動かしてそちらを返り見ると、朦朧としたクアドルが薄目を開けて、ロアたちを見て目を見開いた。


「お前たち、何処からっ」


ドゴォッ!


クアドルの横の壁が風圧で崩れ去った。

ロアは凍てついた眼差しで、震えて唖然とする帝国宰相を見やり、わなわなと震えた。どうしようもなく憎くて、殺意が芽生えていた。いっその事、もうここで殺してしまえと、心の声が囁く。

それもいいかもしれないと思った。その方が色々と手っ取り早く片付く気がした。

そんなロアの様子に何かを感じ取ったクアドルが、大きく息を詰めて「……やめ、やめろっ」と首を横に振った。先程までの冷酷な顔が消えて、怯えと恐怖を宿している。


アルスマをそっと横たえた能面のロアが立ち上がり、一歩、踏み出した。二歩、三歩と足を踏み出すと、恐怖に耐えきれなかったのかクアドルが再び失神した。

四歩目で破れた服の内ポケットから黒い石のついたリボンが床に落ちた。硬質な音が響き、ロアの歩みが止まった。それでも漆黒の双眸は失禁した男に向けられたまま。

止めなければと思うのに、ジェナスは動けなかった。化け物染みたロアが怖かった。それに、クアドルが死ねばいいとも思っていた。望んでいるのに、心の片隅でそれは違うとダーウィンの声がした。


「ロア!! 止まって!」


響いたのは甲高い少女の声。

切羽詰まった制止の言葉に、ロアの足が止まった。感情の読めない顔で振り返り、いつかのように黒い石から浮かぶ皇女クーデリカを見た。


「駄目よ、ロア。あなたは誰も殺さないで。誰も殺さないで魔法師長を務めあげるって言っていたでしょう? そのままのあなたでオルマン国に渡って、夢を叶えるんでしょう? わたくしと同じ道を行かないで。お願いよ、ロア」


クーデリカは祈るように胸の前で両手を組んで、海色の目で長い付き合いの友人に訴えた。手を汚させない事。それが巻き込んだ彼女に対するせめてもの罪滅ぼしだ。それしか今のクーデリカには出来ないから。

本当は怖がっていたロアを、無理矢理今の立場に押し上げて争いに引きずり込んだ事が悔やまれる。アルスマの言った通りだ。巻き込むべきではなかった。それに何よりも大切な友人に、血塗られた同じ茨の道を歩いて欲しくない。


「でもここで葬れば、簡単に問題が解決するよ。もう、師匠もリュシカも国民も、陛下がたも煩わされずに済むから」

「━━ロア!!」


声が届かないと、クーデリカがもどかしげに半透明の小さな手を伸ばす。感情を封じたように凍りついた黒い目に映る無力な自分が憎くて、悔しい。


「クーデリカの言う通りだ。止めろ、ロア」

「どうして? 簡単に済むならその方がいいじゃない」

「お前がそんな事する必要はねぇだろ? お前だって望んでねぇ筈だ。師匠だってクレアだって、俺だって望んでねぇ。ルースだって頼んでねぇだろ、そんな事」


ぴくりとロアが反応した。


「答えろ、ロア。━━お前の主はそんな事を強制したのか? ここに来る前に命じられたのはそいつを殺す事か。お前が唯一忠誠を誓ったあいつは、そんな事を望んでいるのか?」

「………違う。あの人は……」


『━━命令だ。二人とも、無茶はせずに三人で無事に戻ってこい』


優しい命令が聞こえた。

為政者にあるまじき、優しい笑顔で告げられた絶対の命令が。

ロアは俯いて、クアドルに背を向けた。クーデリカとジェナスが胸を撫で下ろす。ロアは髪飾りを拾い、微笑んだクーデリカが姿を消した。アルスマを支えて立ち上がろうとしたが支えきれず、見かねたジェナスが片側から肩に寄りかからせるように師の腕をとって支えた。


ガラガラと崩れる音がする。

振動がして、天井から石壁の欠片が振ってきた。

派手に力を使って暴れすぎたロアは青ざめた。毒のように浸透する濃厚な魔力に建物が浸食され、元々の老朽化もあって大きな館を支えきれなくなったのだろう。


「帰ろう、ジェナス」

「ああ」


ロアがそっと目を閉じて、人の気配を探った。ふっと風が吹くと、部屋に倒れていた人間たちが消えた。崩壊する建物から、ロアは強制的に建物内にいた人々を眠らせて、外に避難させた。

自分たちも逃げようと移動魔法を発動させようとしたら、崩れた石壁から、白銀の髪に氷の目の美丈夫が現れた。

氷の目がロアたちを見て、大きく開かれる。


「お騒がせしました、陛下。ここは間もなく崩れます。お早く退避してください」

「━━お前が」

「宰相たちは外に。混乱するでしょうが、私たちの記憶は奪っておきました。彼らの中では賢者の一族の彼が、命を賭して暴れて魔法を放った事になっている筈です」

「……━━。っ、お前のその傷は」

「陛下、私の自業自得とはいえ、正直腹が立っています。今すぐこの城を、この忌々しい空間をぶち壊したいくらいに」


真顔で冷淡に告げられた言葉に、ジェナスとリュシエントが目を丸くした。


「い、いや、そんな暇ないから止めとこうぜ? それより早く帰って師匠の治療を」

「うっさい。解ってるよ」


八つ当たりの如くロアに睨まれて、ジェナスは黙った。

リュシエントは名前を知らないから、ロアの名を呼べず、さりとてクーデリカではないと知っているから、その名前も呼べなかった。

でも一目見て、目が合って、彼女だと解った。

顔は赤く腫れて首もとの服は破けてよれよれ。見える白い肌は寒さのせいか赤く、結い上げた漆黒の髪は乱れてほつれ、黒曜石のようなしっかり前を見据える瞳を綺麗だと感じた。スマートじゃない彼女の姿に何があったのかと心配になる。けれども、動揺と同じくらい、漸く会えた本当の姿に、リュシエントは喜びも感じた。


「━━ん? ……いいよ、手短にね」


ロアの独り言に怜悧そうな氷の美貌が顔を上げると、黒髪の少女が前に黒い石のついた髪飾りを左手にのせて差し出していた。

それを見つめていたリュシエントは、石から現れた小さな半透明の姿に、息を呑んだ。


「久しぶりね、リュシカ。いいえ、今のあなたはリュシエント帝だったわね」

「どうして……何が、どうなって……」

「あなたたちの魔法は成功していたわ。だからわたくしもウィンも再会できた。ありがとう、感謝しているわ。あなたともこうして会えて、とても混乱したけど嬉しかったのよ。でも、魂だけのわたくしたちとは違って、あなたはこの世に生を受けているわ。どうか過去にとらわれる事なく、きちんと今を生きて」

「クーデリカ…」

「そして願わくは、わたくしたちが大嫌いな戦争を起こさないで。もう、あんな思いは懲り懲りなの。わたくしからはそれだけ。あなたならきっと大丈夫よ。わたくしと違って、この国を立派に治められるわ。元気でね」


懐かしいクーデリカの姿が消えた。

リュシエントは戸惑いながら、黒い目を見つめた。クーデリカの言葉は以前、彼女に言われた言葉と同じだった。

建物が一際大きく揺れた。倒壊まで時間がない。


「それではさようなら、陛下」

「待てっ」

「危ないのでこの建物、粉々にしていきますね。ついでにムカつくので他の建物も皹くらい入れておきます。クアドルの悪事は後で物証と共に報告します。その情報は要取引ですが」

「待っ、まだ━━」


ロアは言いたい事だけ言うと、リュシエントを強制的に退避させた。ふっと皇帝の姿が掻き消える。今頃、クアドルたちの傍にいるだろう。


「お前は…」

「何、ジェナス。壊すのは親切心だよ」

「明らかに嘘をつけ」

「別にいいでしょ。ストレス発散だよ」

「はい、理不尽な言動きた」

「私を怒らせておいてこれだけで済むんだからいいでしょ。寧ろ感謝されてもいいくらい」

「どうしてそうなった!?」

「ハイハイ、さっさと帰るよ。本当にムカつく、大地震を起こしてやろうかな。あいつの家だけに」

「こわっ! そんなおかしな現象、あり得ねぇから止めとけ。疑われるのはお前で、陛下に迷惑がかかるぞ」

「……それなら、我慢するか。でもいずれ、きっちり仕返しするけど」

「………今お前がしようとしているというか、城の一部を壊していく事は仕返しじゃないのか?」

「コレは八つ当たり。本当は盛大にぶっ壊したいのを我慢してるんだから。後で慰謝料もふんだくらなくちゃ」

「………俺は何も聞かなかった。何も知らない」


ジェナスはぶつぶつと自分に暗示をかけ始める。

ロアは深く眠る傷ついたアルスマを見て、悲しげに目を伏せた。「ごめんなさい、ありがとう」と心の中で呟き、反省は後だと、軽い地震の魔法をかけておく。

それからすかさず、溜めた魔力で移動魔法を発動させた。




宰相の執務室がある城の棟が、瓦礫の山となるのはその直後の事だった。ついでに小規模の地震、震度三が帝都のシリウス城を襲い、皇帝の執務室である中央の城と一部の建物以外は、外壁に皹が入り、帝都もほんの少し揺れたものの、被害は城のみで死者どころか傷ついた人は誰もいなかった。

だが、政の中心が受けたダメージは大きく、他国と争うかどうかの話ではなく、この冬の寒さの真っ只中、どうやって急ぎ政治も城も建て直すかと費用捻出が、専ら帝国政治の議題の中心となった。


宰相クアドルは、禁止されている人体実験に手を出したと関係者と共に捕らえられ、余罪を追求され、人心も権力も再び皇帝に集まった。

皇帝派でまとめられた帝国議会は、本格的に争う準備をしていたのを取り止め、無難に治める方法を模索する。

帝国民の間でも、何十年も細々と続く争いに厭戦の風潮が高まっており、議会も毎年の実りが減少して国の収入が減って内政がガタガタになってきているのに、民から搾取して軍備を増強している場合ではないとの意見が大多数だった。

今後、魔法師長や魔法騎士団、今の発展したファウス国と戦っても勝ち目は望めず、民意が離れ、内部から帝国が崩壊していくだけと、予想した。


では、どうやって上手く矛を収めるか。

奪おうと争いを仕掛けておいて、やっぱり辞めますご免なさいでは済まされない。争ってきた民も前線の兵たちも納得いかずに、弱腰の身勝手な国に失望し、他国からも舐められ見下されかねない。

そこで皇帝が、内々にファウス国と停戦の密約をする事を提案した。取引において、イオニス帝国側の立場が弱くなる事を心情的に渋っていた帝国議会だが、他に何の有益な案も出ず、月日だけが流れていく事に焦り、このまま争いに突入して無駄に国も民も疲弊していくのは望むところではなかった。

その為に、皇帝の案を受け入れた。

リュシエント皇帝とルース王との間で既に、おおよその取引内容は決まっていたものの、さも少しずつ決まっているかのように、帝国議会へ話し合いの内容を小出しにして討論させ、上手く落としどころに誘導して、あたかも自分たちが決めたように見せかけた。

多少の修正は余儀なくされたが、それも誤差の範囲内で概ね密約の通りになった。


一方のファウス国側も国王ルースや宰相クリス、カイン魔法騎士団長、魔法師長クーデリカが帝国から停戦の打診とその取引内容を議会で見事に操り、あっさりと決定させた。

両国の落としどころとして、国の境である連峰の雪が溶けた春先に、今までよりも大きく開戦。

魔法師長が一人で帝国の兵と相対して絶大な力を見せつけ、兵たちの士気をへし折って歯向かう気概も無くなる程、完膚なきまでに力の差を見せつける。そうする事で、イオニス帝国の立場が弱めの取引内容でも双方に納得いくように上手く収め、決着を着ける事となった。






ここまで、お疲れ様でした。

本編、残りあと二話になります。

年内に終わらせられるよう頑張ります。


メリークリスマス。

楽しい一日になりますように。

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