ユートピア
ぴりぴりした空気が、高遠にも流れ込んでいた。永禄七年の夏である。じっとりと纏わりつくような湿った暑さが、こんもりと茂った野山を覆っていた。
勝頼は薄らと額に滲んだ汗を拭った。目の前では弟の五郎が、大の字に転がってのびていた。
「兄ちゃん、団扇ない、団扇ー」
齢八つの子供にしては親仁臭い仕草と物言いで尋ねる。しばらく北で過ごしていた五郎には、高遠の蒸し暑さが堪えるのだろう、と勝頼は思ったが、思ったところで五郎所望の団扇は無いのだ。可哀想だが正直に答える。
「無い」
「うそっ!? 暑くないの?」
「……まあ、少し暑い」
しかしこんなものは慣れ次第でどうとでもなる、と勝頼は割り切っていたので、五郎ほど参ってはいなかった。要は気の持ち様である。
よいしょ、とますます親仁臭い掛け声と共に五郎は起き上がり、風を求めて縁側に移動した。板敷きに胡坐を掻いて勝頼を振り仰ぐ。
「兄ちゃんも安曇に来れればいいのに。そうしたら涼しいよ」
にかっと五郎は笑った。屈託の無い笑顔は、勝頼には眩しく見えた。
「そうだな」
暑気から来る不快感に顰めていた顔を少しだけ緩めて、勝頼は答えた。冬には豪雪に見舞われる安曇なら、夏でもだいぶ涼しいだろう。勝頼はその涼感を想像しようとしたが、あまりうまくいかなかった。知らない土地を思い描くのは難しい。
「なあ、甲斐はもっと暑い?」
「……暑いだろうな」
「だったらさ、」
兄弟みんな安曇に避暑に来ればいい、と五郎は言った。勝頼は弟の言葉に妙な違和感を覚えて振り向いた。
五郎は笑っていなかった。
「……どうした?」
「うん?」
曖昧な笑顔を作って五郎はいらえた。子供の顔には見えなかった。
勝頼は重ねて尋ねた。
「どうかしたのか?」
「なんでもないよ」
ぱっと五郎は笑った。鉄線のようだと勝頼は思った。太陽のほかには振り向かない、大輪の笑顔だ。勝頼は五郎の太陽ではない。
幼い弟のなかに何かが鬱屈しているのを察して、勝頼はひどく切なくなった。
「……皆で、安曇に行きたいな」
五郎の言葉を繰り返す。勝頼は、それが叶わない事を知っていた。現に勝頼は、おいそれと高遠から動くわけにはいかない身であった。
戦の矛先は飛騨に向いている、最前線は安曇郡だった。はるか背後の高遠は、直接その戦線に関わるわけではない。しかし高遠は、権兵衛街道・杖突街道・秋葉街道の三道が交わる要衝にあり、そのうち杖突街道は甲斐に通じている。人と物の流通の要なのだ。そのことは、高遠を任されている勝頼自身がよく理解していたし、国境地帯を任されるだろう五郎にも理解し得た。
だから、たとえば兄弟揃って暑気払いだとか、月見だとか、花見だとか、そういうことは望むべくもなかったのだ。
「おれ真桑食べたいな。湧水で冷やしてさ」
「あるのか、湧水」
「あるよ。すごい冷たいんだ。蛍もいっぱいいたから、松や菊に見せたら喜ぶよ。ちかちかしてきれいだった」
五郎は縁側から外を見たまま、無邪気な夢を語る。安曇の館から見える山麓の、陽光に輝くような翠だとか。さらさら流れる清流に、きらきらと跳ねる魚の腹の輝きだとか。澄んだ水辺の山葵菜の花、水芭蕉の花、片栗の花だとか。夜陰に瞬く蛍だとか、涼やかな合歓の花のにおいだとか、五郎は止め処なく、溢れるように語った。勝頼はいちいち相槌を打って、五郎の瞼に描かれているだろうその景色を想像した。
語ることは、夢を思うことだけは自由だった。空想の中で、勝頼や五郎は桃源郷にだって住めるのだ。
「贅沢だな、五郎は」
「なにが?」
「お前を取り巻く山野は美しい。それを、俺たちの中でお前だけが独占出来る」
「ああ、」
そういうこと、と五郎は微笑んだ。
「見せたいんだけどね、兄ちゃんたちにも」
「分かってる」
分かっているのだ、これはすべて絵空事なのだと。分かっていて、五郎は語る。分かっていて、勝頼も答える。
――きょうだいなかよく、ひとつところで。
ままごとじみた五郎の無垢な想いを、かつて勝頼も心のどこかに持っていた。
きっと、他の兄弟たちもそうだろう。勝頼はそっと思った。
「だから、お前は安曇の美しさを独占しておけばいい。そして俺たちに語れば、俺たちは安曇に行ける」
珍しい勝頼の台詞に、五郎はけたけたと笑った。よく笑う子供は、意図的に楽天家になろうとしている。五郎の年に似合わない態度はそれに根差しているのだ、と勝頼はようやく気付いた。
「なにそれ、ゲキレイってやつ?」
「どこで覚えた、そんな言葉」
「さあねー」
五郎はぱたりと仰向けに寝転ぶと、そよそよと吹いた風に手をかざした。
「おれ、寂しくないから。兄ちゃんと違って」
「うるさい」
「だいじょうぶだよ、だから、みんな」
ソクサイが何よりじゃ、としかつめらしく五郎は言って、弟に逆に励まされた事に気付いた勝頼は、照れ隠しに少しだけ笑った。
武田勝頼と仁科盛信
真桑瓜はメロンの変種です。




