勇者はサバイバルをする
「痛った」
僕が目を開けると、目の前には大きな猪に大きな牙が生えたやつが突っ込んでくるところだった。やばい。取り敢えず回避を試みたけど、足が革のベルトで大木と繋がれて動けなかった。
勇者としての経験がこの奇襲を冷静に判断させた。最善は回避だが、その選択肢がない以上攻撃に移るしかない。武器、ない。ブン殴るしか無い。
「おんどりゃ!」
妙に高い声が出た。いいタイミングで猪の鼻に拳が入ったのだが、僕の腕はペキッと簡単に折れてそのまま体吹っ飛ばされてが後ろにあった大木に叩きつけられた。
「グェ……これぐらいの魔物だったらいけると思ったのに。身体のキレが全然だめ」
体の奥の方から口へ、絵の具チューブを使い切るために思いっきり押したみたいに生暖かい液体が運ばれる。鉄の味がしたから血だろう。結構慣れた味だ。
猪は突進のための助走距離を確保して、再度の突進を始めた。
「ハミダシ使うしか無いか」
人間は、怪我をしないように脳がリミットをかけている。だが、命の危機を感じるとそのリミットが外れる時がある。それを何度も何度も擬似的に繰り返すことで、自分の力で外せるようになるようになるのだ。
不幸中の幸いで、ベルトから足は外れている。吹っ飛ばされた時に無理なら力がかかったせいで強引に抜けたんだろう、右足首が潰れている。昔だったら泣いていたけど、痛みに慣れた今ではそんなに気にならない。少しだけなら動けるはずだ。ギリギリで攻撃を避けて目の辺りに攻撃が入れば逃げてくれるはずだ。
周りが静かになる。だいぶリミットが外れてきた。攻撃の感じはさっきの一回で理解できた。知能が高い個体ではないだろうし、先程と同じ攻撃が来るだろう。
猪の蹄が地面を削る音が、森の静寂を切り裂く。目の前の巨大な魔物が、鼻から白い息を吐きながら、赤い目で僕を睨みつける。折れた右腕は力なくぶらりと揺れる。
先程と同じスピードで突っ込んで来る猪の攻撃をすんでのところで避けた。ハミダシのおかげで先程とは別格の一撃を放てる。
「フン!」
「グオオッ!」
猪が悲鳴を上げ、首を振って後ずさる。僕の拳がその左目にめり込み、血と粘液が飛び散った。ハミダシの力で放った一撃は、確かに効いた。だが、代償は大きい。左腕も右腕と同じく、骨が砕けたような激痛が走る。両腕が使い物にならない。ハミダシは緊急時の切り札だが、身体を酷使しすぎる。こんな無茶な使い方を続けたら、命が持たない。
もう逃げてくれ、こっちはもう限界だ。そう思いながら次の攻撃手段を探す。取り敢えず思い付いたのは石でも蹴って飛ばすくらいだ。
しばらく見つめ合う時間がある。目を逸らさずに、身体は限界を迎えていることを隠す。お互いにジリジリ離れていく。猪はふと唸りながら森の奥へ駆け出した。血と折れた枝を残し、木々の間に消えていく。
「ハァ……ハァ……逃げた、か……?」
地面に膝をつき、息を切らす。血の匂いが鼻をつき、両腕の激痛が意識を揺さぶる。右足首の痛みが一気に押し寄せる。ハミダシの効果が切れ、視界がぼやける。だが、生き延びた。猪は逃げた。少なくとも、今は安全だ。
「まだ……終わってない。動かなきゃ……」
あの革のベルトで木に縛られてたのは、偶然じゃない。誰かが僕をここに置き去りにした。罠か? それとも、何かの儀式か? 猪にダメージを与えられる前から後頭部に殴られたような痛みがあった。誰かに嵌められたのか? 頭が混乱する。魔王の光線が心臓を貫く。ノエルの叫び声、ラルフの血に染まった包帯、エミルの震える手。あの瞬間が僕の最後のはずだった。なのに、なんでこんな森で猪と戦ってるんだ?
「ノエル……ラルフ……みんな、どこにいるんだ……?」
足を引きずりながらとにかく人を探す。自分じゃあ治せない。このままでは死んでしまう。「誰か、誰か!」
叫んではみるものの響くばかりで返ってくる声はない。諦めて、拾った木の枝を杖代わりにとにかく進む。こんな森の奥で人を探すというのが無理な話だ。村でも何でも見つかってくれ。
しばらく歩いて行くと、湧き水が溜まっている場所を見つけた。休んでいる場合では無いが、体力も限界だ。気持ちを落ち着かせるために屈んで水を顔を飲もうとした時に気がついた。
「ん?」
まず視界に入ったのはペンダントだった。ペンダント? 今まで全く気が付かなかったことにも驚いたが、何よりもそれが表すこと、聖女候補が着けるペンダントだ。聖女候補には神聖力を持っていれば誰でもなれる。ただ、聖女になるのには試験を突破しなければならない。ノエルはそれを突破し、さらに勇者パーティーに入るための聖女の中での選考も突破したのだ。神聖力は女性にしか与えられない力で、魔力と練り合わせると、回復魔法を行使することができるようになる。
そして、水面に映った顔。長い黒髪に吊り目気味だがパッチリとした目、手入れができていないのか肌が荒れている。見覚えがある。確か、リアナ公爵令嬢だ。ルーク王太子と婚約が決まっていたはずだが、なぜこんなところにいるのかわからない。グラマーな身体にはボロボロの布が巻き付いているだけだ。五年間の旅路の間で、国の方針が大きく変わっているのかもしれない。
わからないことだらけだ。死んだと思ったらリアナ公爵令嬢になっている。リアナ公爵令嬢が殺されかけている理由もわからない。
でも、希望が見えた。もしかしたら回復魔法が使えるかもしれない。僕には魔力が無く、単純な剣の技量と身体能力だけでここまでやってきた。だから、魔法なんてどうやって使うのかさっぱりわからないが、やるしか無いのだ。使えないと死ぬ。
目を瞑って集中する。ノエルの振る舞いを思い出す。
「頼む……」
心を落ち着け、身体の奥に意識を集中する。ノエルの笑顔、ラルフの叫び声、仲間たちと過ごした日々が頭をよぎる。守りたい。あの約束を果たしたい。胸の奥で何か温かいものが動く。指先にわずかな熱を感じ、淡い光が浮かぶ。ノエルが回復魔法を使う時、いつもこんな光だった。右足首に光を当ててみる。ズキズキとした痛みが、一瞬だけ和らぐ気がした。だが、光はすぐに消えてしまった。
「くっ……こんなんじゃ、ダメだ……」
もう一度。
淡い光が指先から広がり、身体を包む。ノエルの言葉を思い出す。「イメージだね。筋肉も、血も、骨も、一つ一つが戻ってくるようなイメージを持つ」。折れた骨が元に戻り、内臓が、潰れた足首が、両腕が、萎んだ風船が空気を取り戻すように、形が整っていく感覚。彼女に何度も怪我を治してもらった経験が、頭の中でそのイメージを鮮明にする。光が強くなり、痛みが少しずつ和らいでいく。ズキズキとした激痛が、鈍い疼きに変わる。完全に治ったわけじゃないが、足首に力が入るようになる。そして次に腕の方の修復に入る。小さい子が書いたように曲がっていた腕が、腕としての形を保ちだした。
「やったぞ……!」
息を吐き、額に浮かんだ汗を拭う。神聖力と魔力の使ったからか頭がクラクラするが、取り敢えず死ぬことはないだろう。
山で遭難したら、登山ルートへと戻るために登るのが基本だが、どこの山かもわからないようなところで、闇雲に登ったところで意味はない。それに、今の僕は「リアナ公爵令嬢」だ。力を取り戻したとはいえ、長距離を移動できるほど体力があるわけじゃない。まずは生き延びる準備を整える。それから人里を目指す。それが一番だ。
湧き水で喉を潤し、空になった掌に水を溜めて顔を洗う。冷たい水が心地よく、ぼやけていた視界が少しクリアになった。「ふぅ……少しはマシか」 身体の痛みは鈍く残っているが、もう歩ける。問題は食料だ。森の中で丸腰のままでは、また猪のような魔物に出会ったときに対処できない。武器と食料、あと夜露をしのげる場所が必要だ。勇者だったころ、最低限の野営は覚えた。それを思い出せばいい。
まずは武器だ。近くに落ちている枯れ枝や石を拾い、適度な長さと重さの枝を選ぶ。枝の先を岩で削って尖らせると、簡単な槍のようなものになった。少なくとも、素手で殴るよりはマシだろう。
次に、森の中を歩きながら食べられそうなものを探す。実や果実がなっている低木を見つけ、慎重に見極めてひとつ口にしてみる。酸味が強いが、毒はなさそうだ。いくつか実を摘み、服の裾にくるんでおく。さらに木の根元に群生していたキノコも採るが、こちらは判断がつかないので今は保留する。
移動しながら、太陽の位置と地形を確認する。昼はまだ少し先だ。夜になる前に寝床を決めなければ。大きな木の根元や、落ち葉が積もった窪地など、風を避けられそうなところをいくつか見て回り、しばらく歩いた先で倒木と大岩が斜めに重なり合い、簡易的な屋根のようになっている場所を見つけた。「ここなら、夜まで持つだろう」 葉や枝を集めて敷き、地面の冷えを少しでも防ぐようにする。
準備が一段落した頃、再び湧き水のところまで戻り、手にした果実をかじる。甘みはほとんどないが、腹が満たされるだけで安心感がある。水を飲み、顔を上げると、空は濃い青に染まり始めていた。
息を整え、槍を膝に立てかける。「まずは、ここで夜を越す。明日は、川沿いか谷を下ってみよう」 人里があるなら、必ず水の近くのはずだ。そうやって、少しずつ近づくしかない。勇者だった頃のように、仲間はいないし、剣もない。でも、まだ終わってない。
ノエルの笑顔が、胸の奥に灯る。 守らなきゃいけないものがある。約束を果たさなきゃいけない。
夜の森から聞こえる遠吠えに耳を澄ませながら、枝を握る手に力を込める。「まだ、死なないぞ」 静かに決意を口にし、目を閉じる。
眠れないかと思ったが、疲れ切った身体を睡魔は蹂躙した。 夜が明ける。 冷たい風が頬を撫で、鳥の鳴き声が遠くで聞こえる。木々の間から、柔らかな光が差し込み、闇に閉ざされていた森が少しずつ色を取り戻していく。
目を覚ました僕は、倒木の下で小さく伸びをしてから立ち上がった。全身の節々が痛い。夜の冷え込みのせいか、治したはずの足首や腕がじんじんと疼く。それでも昨日よりずっと動ける。「よし、今日こそ脱出する」 小さく呟き、槍を握り直す。
まずは水辺を探す。川か、もっと大きな湧き水があれば、そこを伝って人里まで下れるはずだ。空を見上げて太陽の位置を確認する。東は……あっちだ。木の影を頼りに、慎重に足を進める。
森の中は相変わらず不気味に静かだった。ときおり枝の折れる音や、茂みの向こうで何かが走る気配がする。魔物か、ただの野生動物か。とにかく警戒は怠れない。
歩き続けていると、やがて土の匂いが湿り気を帯びてくる。苔が増え、地面に小さな水たまりが点在している。川が近い。「あった」 笹の茂みをかき分けると、幅の狭い川が流れていた。透明な水が音を立てて流れ、浅瀬には魚影がちらついている。幸い流れは穏やかだ。これなら渡ることもできるし、川沿いを歩いて行けばいい。
まずはここで水を飲み、魚を狙うことにした。槍を構え、水面をじっと覗き込む。しばらく待っていると、小さな魚が近くまで寄ってきた。タイミングを計り、一気に槍を突き刺す。「よし!」 勢いで二匹、細い魚を仕留めることができた。思わず笑みがこぼれる。昨日までの自分なら無理だっただろう。
魚を川の水で軽く洗い、腰に結わえて持ち歩けるようにする。そして川沿いをさらに進みながら、次に焚き火ができそうな場所を探す。夜に備えて、暖を取れる場所が必要だ。
午後になる頃、川沿いの開けた場所に出た。平らな岩が重なり合い、焚き火をするにはちょうどいい。少し離れたところに小さな洞窟のようなくぼみもあり、そこを寝床にできそうだ。「今日はここを拠点にするか」 決めたらすぐに動く。枯れ枝や落ち葉を集め、火を起こす準備をする。二匹の魚も小枝に刺し、あとは火がつくのを待つだけだ。
火打ち石を叩き、火花を落とし、細かい草に炎が移ったとき、小さく安堵の息が漏れた。「これで少しは、人間らしい夜になるな」 魚が香ばしい匂いを立てて焼けていくのを見ながら、明日のことを考える。川はまだまだ続いている。ここで少し体力を戻して、準備が整ったら必ず人里に戻る。
そう心に決め、魚にかぶりつく。熱い肉が口の中に広がり、思わず涙がにじんだ。生きている実感が、少しだけ戻ってくる。 夜空を見上げると、星々が静かに輝いていた。「絶対に、戻る」 そう呟き、焚き火の炎が揺れる中で眠りについた。
翌朝、冷たい朝露で目を覚ました。焚き火はとうに消え、灰になっていた。まだ体の節々は痛むが、昨日の回復魔法のおかげで歩くことはできそうだ。「今日こそ、人を見つける」 呟き、川の水で顔を洗う。昨日の残りの魚を口に入れ、川沿いをさらに下る。
森の中は相変わらず不気味に静まり返っている。時折、頭上で枝が揺れ、鳥が飛び立つ。そのたびに心臓が跳ねる。油断はできない。この森は、まだ自分を殺そうとしている。
川は徐々に広くなり、流れも穏やかになる。地面の土が締まり、ところどころに足跡のようなものが見える。獣のものかもしれないが、形が不自然だ。よく見れば靴底の跡にも見える。「これは」 しゃがみ込み、指先でなぞる。丸い踵と、浅いが真っ直ぐに並ぶ溝。人間の靴の跡だ。しかも複数ある。古くはなさそうだ。少なくとも数日以内につけられたものだろう。
心臓が高鳴る。生きている人間が近くにいる。だが、それがリアナ公爵令嬢を殺そうとしている奴らだったら。恐ろしい考えが浮かぶ。
「よし!」 慎重に足跡を追う。川沿いの道を外れ、茂みの奥へと続く。数百メートルほど進むと、獣道のような細い道が現れた。人が踏み固めたような道筋。枝が折れ、草がなぎ倒されている。人が通った証拠だ。
その先に、さらに決定的なものを見つける。「……焚き火の跡か?」 小さな窪地に、黒く焦げた灰と丸い石が積まれた跡。周囲にはまだ人の匂いが残っているような気がした。周りの枝には切り取られた跡があり、いくつかの短い縄が残されている。間違いない、人間がここで一晩を過ごしたのだ。
さらに近くの木の幹に、赤い染みが付いているのを見つけた。血だ。誰かが怪我をしたのか、それとも魔物に襲われたのか……。 ただ、重要なのはまだ新しいということだ。すぐ近くまで来ている。この森に、人がいる。
焦る気持ちを抑え、深呼吸する。下手に声を出しても危険だ。慎重に、痕跡を追いながら進む。すると、やがて森の奥で微かに音が聞こえてきた。 カン……カン……と、金属が石に当たるような音。人間の営みの音だ。
胸が熱くなる。誰かがいる。最悪のケースを考え、そっと槍を握り直し、音のする方へと進む。木の間から、白い煙が上がっているのが見える。煙が、朝の空気に溶けていく。 視界の先に、木を削っている男の姿が見えた。簡素な布の服を着て、腰に斧を差した男が、一心に作業をしている。周りには粗末な柵と、数軒の小屋が建っていた。
人里だ。小さな集落のような場所。「助かった……!」 思わず声が漏れそうになるのを堪え、胸を押さえる。だが、まだ油断はできない。見知らぬ土地だ。相手が敵ではない保証はない。
それでも、一歩ずつ近づく。煙の匂いが、鼻先に届く。人間の声が、はっきりと聞こえる。
???視点
湿った石の匂いが充満する地下室で、数人の人影が蠢いていた。 木の机の上には地図と書類が広げられ、その中央に、リアナ公爵令嬢の肖像画が置かれている。長い黒髪に吊り目がちな瞳、美しいが冷徹さを感じさせる顔立ち。その瞳の強さに、誰も真正面から見返せなかった。
「失敗した、というのか?」
部屋の奥、唯一椅子に座っていた男が、低い声で問う。 報告している男は深く頭を垂れ、震えながら答える。「はい……縛り付けて魔物を誘導しましたが、獣の反応が消えました。恐らく、仕留めきれず逃げられたかと……」
重苦しい沈黙が流れる。 椅子の男の隣に立つ女が、白い指先で地図の端を叩く。
「あの女が、獣を退けた? まさか」
報告者は、たまらず口をつぐむ。その表情には怯えがあった。
「あの女は悪魔です。公爵家の令嬢の顔の裏で、貴族や官僚の弱みを次々と握り、王族の意志を捻じ曲げるように立ち回って……。王太子殿下ですら、あの女の言いなりに……」
彼の言葉に、女が吐き捨てるように言う。「放っておけば、いずれ国は完全にあの女に乗っ取られる。あれはもう人ではない、悪魔だ」
椅子の男が、ゆっくりと口を開く。「だから事故に見せかけた。あれを人の手で殺せば、疑われるだけだ。王族の面子も保てない」 女も頷く。「獣なら都合がいい。森で事故に遭い、獣に喰われる――それで全てが片付くはずだった」
しかし、その“はず”が崩れた。あの女はまだ生きているかもしれない。 報告者の背筋に、冷たい汗が流れ落ちる。もし失敗していたなら、逆にあの女に全てを嗅ぎ付けられ、潰されるのは自分たちかもしれない。
再び、重苦しい沈黙が落ちた。 椅子の男が、ゆっくりと顎を撫でながら言う。「……次はない。必ず仕留めろ。悪魔は、生かしておけない」