プロローグ3
数日後、私たちはエランの故郷に辿り着いた。 馬車が村の入り口に差し掛かると、懐かしい風景が目に飛び込んでくる。緩やかな丘陵に点在する木造の家々、遠くで揺れる麦畑、川のせせらぎ。子どもの頃、エランと一緒に走り回ったこの村は、変わらない静けさを湛えていた。だが、魔王討伐の報せとともにエランの死を知った村人たちの顔は、涙と悲しみに曇っていた。彼らは馬車を囲み、静かに頭を下げた。誰も言葉を発しない。その沈黙が、私の心をさらに重くした。
ラルフが棺をそっと下ろし、村の広場に置いた。防腐魔法の淡い光が、村の長老が震える手で棺の小窓を開けて呟いた。
「エラン……本当に、お前が……」
その声は、まるで風に消えるようだった。子供たちが母親の裙にしがみつき、泣き声を抑えている。エランと一緒に川で遊んだ同年代の若者たちが、遠くから見つめ、目を赤くしていた。
そして、エランの両親が広場に現れた。父親のハンスは、がっしりとした体格の農夫で、エランと同じ明るい茶色の髪が少し白髪交じりになっていた。母親のマリアは優しい目をした女性で、手織りのエプロンに手を握りしめていた。エランが国に連れて行かれてからは、エランの両親とちゃんと話したことはなかった。彼らはエランの遺体を見た瞬間、立ち尽くした。マリアが小さな声を上げ、膝をついた。
「エラン……」
ハンスは妻を支えながら、唇を噛みしめ、目をそらした。だが、彼の肩は震えていた。私はその姿に、胸が張り裂けそうになった。エランの笑顔は、母親譲りの温かさを持っていた。あの笑顔が、もう見られないなんて。
私はエランの遺体を見つめ、胸が締め付けられた。血が抜けきった彼の身体は、驚くほど軽かった。馬車で運ぶ間、棺が揺れるたび、その軽さが私の心を刺した。子どもの頃、エランはいつも私を背負って丘を駆け上がった。「ノエル、重いぞ!」と笑いながら、それでも軽々と走ったあの少年がこんな儚い姿になるなんて。私の目から涙がこぼれ、靴に当たって弾けた。
「エラン、ごめんね……私がもっと早く魔法を使えてたら……」
ラルフは黙ってエランの遺体を広場の片隅に安置した。右目に付けた眼帯が、戦いの傷を物語っていた。
「エランを……この村で、ちゃんと送ってやろう」
彼の声は低く、抑えた悲しみが滲んでいた。いつもエランの隣で戦ってきた彼の言葉に、私たちはただ頷いた。
ハンスが重い声で言った。
「エランを家に連れて帰りたい。家族のそばで……」
マリアが涙を拭い、頷いた。
「お願い、ノエル。エランを私たちに預けて」
私はその言葉に、幼い頃の記憶が蘇った。エランの家で、マリアが焼いたパンを食べながら、エランが笑っていた。「母さんのパン、最高だろ、ノエル!」あの温かい時間が、今は遠い幻だ。
「もちろんです」
パーティーメンバー達も頷いた。
村の長老が言った。
「葬送の準備には時間がかかる。数日は村にいてくれ。エランを、みんなで送りたい」
その提案に、誰も異を唱えなかった。エランの棺は、ハンスとマリアの家の一室に運ばれた。
その日から、私たちは村に留まった。エランの葬送をどうするか、村人たちや両親と話し合う必要があったが、それ以上に、私たちはエランの故郷で彼の記憶をたどりたかった。ハンスとマリアは、毎日エランの遺体のそばで過ごし、彼のことを語った。私たちもまた、エランの足跡を辿るように、村を巡った。
初日、私は村の川辺を歩いた。エランと私が子どもの頃、魚を捕まえた場所だ。川の水は透き通り、陽光を反射してキラキラと光っていた。私は川岸に座り、膝を抱えた。「エラン、覚えてる? 君が私の分まで魚を捕ってくれたよね。いつも、君は私の分まで頑張ってくれた」私の呟きは、川のせせらぎに溶けた。マリアがそばにやってきて、静かに言った。「エランは、いつもあなたのことを話してたよ。ノエルは頭がいい、ノエルは強いって」彼女の声は震え、涙がこぼれた。私はマリアの手を握り、言葉を失った。
サフィとシルバは、村の子供たちと話していた。エランが勇者として選ばれる前、よく子供たちに剣の真似事を教えていたという。小さな少年が、木の枝を手に持って言った。
「エラン兄ちゃん、かっこよかった! 俺も勇者になるんだ!」
その無邪気な言葉に、私は微笑もうとしたが、涙が溢れた。エランはこんな小さな子にまで、希望を与えていたんだ。サフィが少年の頭を撫で、言った。「エランは、君みたいな子が大好きだったよ」シルバは黙って頷き、目を赤くした。
二日目、エミルと村の外れにある小さな森を歩いていた。エルフの彼女にとって、森は心を落ち着ける場所だった。
「エランは、こんな場所が好きだったよね。静かで、風が優しい」
彼女は木の根元に座り、エランのことを思い出したているようだ。
「彼の笑顔、いつも温かかった」私は頷いた。エランはいつも、どんなときも笑顔だった。ハンスが森にやってきて、言った。「エランはここで、よく木を切ってた。俺に似て、力だけはあったんだ」彼の声は笑いを含んでいたが、すぐに涙に変わった。「あいつが、こんな風になるなんて……」
三日目、ラルフと村の鍛冶屋を訪れた。エランが使っていた剣は、そこで作られたものだった。鍛冶屋の老人が、剣の傷を指でなぞりながら言った。
「エランがこの剣を手に持ったとき、光ったんだ。この剣を、墓に置いてやってくれ」
ラルフは黙って頷き、剣を手に握りしめた。その姿に、エランとの絆の深さを感じた。ハンスが鍛冶屋の老人と話しながら、笑った。「エランは、剣を手に持つ前は、いつもここで俺の仕事を手伝ってた。頑固な子だったよ」その言葉に、私はエランの少年時代を思い出した。彼はいつも、父親の背中を追いかけていた。
私は村の丘に登り、エランが愛した古い樹の下に立った。夕陽が沈む時間、風が優しく吹いていた。ここで、エランと一緒に空を見上げた。「ノエル、死ぬならこの丘でいいよな。風が気持ちいいから」。あの笑顔が、頭をよぎる。私は膝をつき、地面に触れた。「エラン、君はここで眠りたいって言ってたよね。約束、守るよ」
数日後、村人たちやハンス、マリアと相談し、エランの葬送を丘の上で行うことにした。私とラルフは、村人たちの助けを借りて墓を用意した。ハンスが持ってきた石を一つ一つ積み上げ、シンプルな墓標を作った。ラルフはエランの剣を地面に突き立て、墓標の前に置いた。傷ついた刃は、魔王との戦いの記憶を静かに物語っていた。
葬式の日、村人たちが丘に集まった。ハンスとマリアはエランの棺のそばに立ち、静かに涙を流した。マリアが小さな声で言った。
「エラン、よく頑張ったね。母さん、誇りに思うよ」
ハンスは妻の肩を抱き、黙って頷いた。彼らの姿に、私はエランの家族の愛を感じた。長老が震える声で言った。
「エラン、お前は我々の誇りだ。世界を救ってくれて、ありがとう」
その言葉に、村人たちのすすり泣きが重なる。
幼い少女が小さな花を手に近づき、エランの遺体にそっと置いた。
「勇者様、ありがとう……」
その声に、かつての私が重なる。エランが勇者として選ばれた日、私は泣きながら馬車を追いかけた。あの無力感が、今また胸を刺す。
ラルフが墓標に手を置き、呟いた。
「ここでいいよな、エラン。風、気持ちいいだろ」
彼の声は穏やかだったが、肩が小さく震えていた。いつも強気な彼が、こんな風に声を詰まらせるのを初めて見た。
私は墓の前に膝をつき、エランの顔を覗き込んだ。
「エラン、ありがとう。ずっと、ずっと大好きだったよ」
私の声は風に乗り、丘を吹き抜けた。涙が止まらず、墓標に滴り落ちる。「一緒に世界を救おうね」。あの約束は果たされた。でも、なぜエランがいない世界で、私が生きているんだろう。
サフィが小さな花束を作り、墓標の前に置いた。「エラン、君のおかげで私たちは生きてる。ありがとう」彼女の声は震え、涙で濡れていた。シルバは黙って彼女の肩に触れ、静かに頷いた。
エミルはエルフの祈りの言葉を唱えた。
「エラン、森の精霊が君を導く。安らかに眠って」
彼女の声は静かで、風に溶けるようだった。血で汚れた手は、未だに洗われていなかった。
ラルフが最後に口を開いた。
「お前がいたから、俺たちはここまで来れた。ありがとう、相棒」
彼はエランの剣に手を置き、しばらく動かなかった。その背中には、エランとの無数の戦いの記憶が刻まれているようだった。
棺を掘っている穴に入れ、みんなで土をかけた。
葬式は静かだった。世界を救った勇者の最期にふさわしい、華やかな儀式ではなかった。だが、この小さな村の丘の上での別れは、エランそのものだった。彼はいつも、派手な栄光よりも、仲間や故郷のシンプルな幸せを愛していた。村人たちは一人また一人と丘を下り、日常に戻っていった。ハンスとマリアは最後に墓標に触れ、エランに別れを告げた。「エラン、ゆっくり休みなさい」マリアの声は、母親の愛に満ちていた。
私たちは丘に残り、エランの墓を囲んだ。誰もが言葉を失い、ただ風の音を聞いていた。サフィがシルバの肩に凭れ、エミルが墓標の前に座り込んだ。ラルフは剣のそばに立ち、遠くの地平線を見つめていた。
「いつも、君は私の分まで頑張ってくれた。なのに、なんで君がいないの……?」
涙がまた溢れ、地面に落ちる。私は医療の知識も、神聖力も、エランを救うには足りなかった。あの瞬間、魔王の光線から仲間を守るために身を投げ出したエランを、なぜ止められなかったんだろう。
エランの墓を後にし、私たちは村を離れた。世界は救われたが、私たちの心には癒えない傷が残っていた。エランの笑顔はもう見られない。それでも、彼の想いを胸に、私たちは歩みを止めるわけにはいかなかった。ラルフが先頭に立ち、力強く言った。「行くぞ、みんな。エランが見てる」
私は小さく頷き、仲間たちと歩き出した。丘の上の墓からは、風が優しく吹いていた。夕陽が沈み、墓標にエランの剣が赤く輝く。まるで、エランの笑顔がそこにあるかのように。私は振り返り、丘に別れを告げた。




