プロローグ2
私の目の前には、エランの遺体がある。魔王の玉座の間は、崩れた石柱とひび割れた床、血と焦げの匂いに満ち、さっきまでの戦いの痕跡を冷たく刻んでいる。誰もが泣き疲れ、エランの死の重さに押しつぶされて動けない。私の心も、まるで止まったみたいに空っぽだ。エランの笑顔、仲間を鼓舞する声、「ノエル、笑顔の方が似合うよ」というあの言葉が、もう二度と聞けない。時間が無情に過ぎていく中、私はただ彼の冷たくなった身体を見つめるしかなかった。
「行くぞ、エランをいつまでもここに置いておけねぇ」
ラルフが立ち上がった。サブリーダーとして、いつもエランの隣で戦ってきたラルフの動きは、自分の心を無理やり奮い立たせるようだった。右目を覆う血に染まった包帯の下で、残った左目が赤く潤んでいる。ラルフは言葉なくエランの遺体に近づき、膝をついた。血で汚れたマントをそっと整え、エランの顔を覆わないよう慎重に折り畳む。その手つきには、深い敬意と、抑えきれない悲しみが滲んでいた。
彼はエランの遺体をそっと持ち上げ、背負った。その瞬間、彼の顔が歪んだ。
「軽すぎる……」
私はその言葉に胸を締め付けられた。エランの身体が軽いのは、血がほとんど抜けきったせいだ。魔王の攻撃が心臓を撃ち抜いたとき、血が流れすぎ、かつて筋肉質で力強かった彼の姿は、抜け殻のようだった。私の医療知識が、その冷酷な事実を突きつける。幼馴染のエラン、村の川で魚を捕まえ、木の枝で剣の真似事をしていたあの少年は、こんな軽い身体じゃなかった。「ノエル、俺が勇者になったら、絶対一緒に戦おうな」。あの笑顔が、頭をよぎる。その約束は果たされたのに、なぜこんな結末に?
サフィはシルバに凭れかかり、涙で腫れた目でラルフの背中を見つめていた。ダークエルフの彼女の気丈さは、悲しみに飲み込まれていた。シルバは俯いたまま、拳を握りしめていた。エミルは血で汚れた手を握りしめ、動けなかった。不衛生を嫌う彼女が、そのままの状態でいること自体、彼女の心がどれだけ乱れているかを示していた。「エラン……ごめんね」彼女の声は小さく、風に消えた。
私は震える声で言った。
「腐敗が……進むよ。このままじゃ、エランの身体が……」
私の言葉は、ラルフの背中に届いた。彼は振り返らず、ただ頷いた。
「エミル、防腐魔法を頼む」
エミルは一瞬怯んだが、ゆっくりとエランの遺体に近づいた。震える手で緑色の淡い光を放つ呪文を唱え、腐敗を遅らせる薄い膜を形成した。
「これで大丈夫。死体操作魔法使う?」
「いや、いい。俺が背負わないといけねぇんだ」
エランの遺体を背負い、玉座の間を後にした。私たちは何も言わず、ただ彼の背中に続く。誰もが心に深い傷を抱え、言葉を紡ぐ気力すらなかった。エランの軽い身体がラルフの肩に揺れるたび、血が滴り、地面に小さな赤い点を作った。防腐魔法で腐臭は抑えられていたが、血の匂いは消えず、私の鼻をついた。エランの死を、こうやって身体で感じるたびに、心が締め付けられる。
荒野を抜け、私たちは小さな村に辿り着いた。魔王の脅威が去ったとはいえ、村人たちはまだ不安げだった。ラルフがエランの遺体を背負ったまま広場に入ると、村人たちの視線が集まった。子供が母親の裙に隠れ、老人が杖をつきながら近づいてきた。「勇者様……?」その声は震え、すぐに絶望に変わった。
私はエランの遺体をそっと見つめた。防腐魔法の淡い光が、彼の青白い顔を不気味に照らしていた。血の染みがマントに広がり、まるで彼がまだ生きているかのような錯覚を一瞬与えた。でも、冷たい手、動かない胸が、死をはっきりと告げていた。村の少女が泣き出し、母親にしがみついた。「勇者様、死んじゃったの?」その声に、かつての私が重なる。エランが勇者として選ばれ、馬車で連れ去られた日、私は泣きながら追いかけて転び、鼻血を出した。あの無力感が、今また胸を刺す。
「魔王は倒したよ。でも、エランは……仲間を守るために……」
サフィが村人に言ったが、声は途切れ、涙が頬を伝った。シルバは黙って俯き、エミルは村の片隅で血で汚れた手をじっと見つめていた。彼女の目には、涙と後悔が混じっていた。
村の宿屋で休息を取ったが、誰も眠れなかった。ラルフはエランの遺体を部屋の隅にそっと下ろし、そばに座ったまま動かなかった。
「ラルフ、右目治すよ」
「いや、いい。この痛みは取っておきたい。あいつと一緒に戦ったことを思い出せる」
「じゃあ、浄化魔法だけ使うよ」
雑菌の繁殖を抑える優しい光がラルフの右目を照らす。
「あぁ」
魔法をかけながら、エランのことを思い出した。一緒に村の丘に登って夕陽を見に行った時、彼が言った。
「ノエル、死ぬならあの丘がいいよな。風が気持ちいいから」
あの笑顔が、今は遠い幻だ。私はそっとエランの手を握った。冷たく、反応のないその手は、まるで蝋細工のようだった。
「エラン……」
数日後、私たちは王都の門前に辿り着いた。魔王討伐の報せはすでに伝わっていて、門の外でもには歓迎の群衆が見えた。色とりどりの旗がはためき、子供たちが花束を手に笑顔で駆け寄る。紙吹雪が舞い、それが太陽の光を反射する。楽団が勝利の曲を奏で、商人たちが酒や食事を振る舞っていた。「勇者様! 世界を救ったんだ!」「これで平和だ!」歓声が響き合い、王都は祭りのような熱気に包まれていた。
最初に気がついたのは門番達で、私たちの姿を確認すると俯いて、震えた声で言った。
「通って良し。ありがとう」
ラルフがエランの遺体を背負って門をくぐり、王城までの一本道を歩いていくと、歓声が伝染するように消える。ラルフが通る度に、波のように静かになっていく。最初は道の入り口にいた数人の村人が、ラルフの肩に揺れるマントに包まれた身体に気づき、目を丸くした。「勇者様……?」若い男性が呟き、花束を握る手が止まる。隣の女性が口を押さえ、息を呑んだ。子供が母親の裙にしがみつき、「お母さん、勇者様どうしたの?」と小さな声で尋ねた。その声が、まるで波紋のように広がっていく。群衆の目が、血に染まったマントに包まれた軽い身体に釘付けになった。子供が花束を落とし、母親にしがみついた。年老いた商人が呟いた。「勇者様……死んだのか……?」
私は群衆の視線に耐えきれず、目を伏せた。エランの死を改めて突きつけられるのは、あまりにも辛かった。マントの隙間から見えるエランの顔は、まるで眠っているようだったが、血の染みと青白さが死をはっきりと示していた。
王宮に通され、私たちは玉座の間に立った。王は黄金の玉座に座り、廷臣たちが緊張した面持ちで並んでいた。だが、担架に横たわるエランの遺体を見た瞬間、王の顔から血の気が引いた。「勇者エランが……死んだのか?」彼の声は震え、言葉を失った。
ラルフが低く、力強く言った。
「魔王は倒しました。世界は救われました。だが、エランは仲間を守るために命を賭けました」
「そんな……勇者が死ぬなんて……」
若い廷臣が呟き、顔を覆った。年老いた将軍が拳を握りしめ、涙をこらえる。
広間の外では、すすり泣きが響いた。少女が母親にしがみつき、「勇者様、死んじゃったの?」と尋ねる声が私の耳に突き刺さった。あの日、馬車を追いかけた自分のように、この少女も勇者の死に打ちのめされている。
王が重い口調で尋ねた。
「遺体をどうするつもりだ? 王都で盛大な葬儀を執り行い、勇者を称えるべきでは?」
ラルフがきっぱりと言った。
「エランは故郷に帰りたいと言ってた。あの村の丘で、風に吹かれて眠りたいって」
廷臣の一人が進言した。「しかし、勇者の遺体は王都に留めるべきだ。民の士気を保つためにも」
私は思わず声を上げた。
「エランの願いを尊重します。彼は私たちの勇者である前に、村で生まれた普通の少年だったんです」
私の声は震えていたが、決意に満ちていた。エランの笑顔、丘での約束が、私の心を支えていた。「一緒に世界を救おうね」。その約束は果たされたのに、なぜこんな結末になったのかをずっと考えているが答えは出なかった。
議論の末、王は折れた。
「ならば、馬車と護衛を用意しよう。勇者の最後の旅路に、最大の敬意を表する」
王は立ち上がり、エランの遺体に一礼した。廷臣たちもそれに倣い、広間は静かな敬意に包まれた。
王都を離れ、私たちは王から提供された馬車で故郷を目指した。棺に入れられたエランの遺体は、清潔な白い布で覆われ、エミルと私の防腐魔法が重ねられていた。
私は担架の横に座り、エランの手を握った。「エラン、覚えてる? 丘で夕陽を見てたとき、約束したよね。『一緒に世界を救おう』って」私の声は震え、涙がこぼれた。
「約束、果たしたよ。でも、なんであなたがいないの……?」
ラルフが御者を務め、時折エランの遺体を振り返った。
「お前、あんなに弱かったのにな。よく魔王と戦ったよな」
彼の声は、悲しみと尊敬に満ちていた。右目の包帯が血で黒ずみ、彼自身の傷も癒えていなかったが、エランを故郷に届ける決意が彼を支えていた。
エミルは先頭で道を照らす魔法を放っていたが、彼女の目は涙で曇っていた。誰もがエランの死を受け入れきれず、馬車に揺られるしかなかった。