第三章 約束
五月の連休がやってきた。
学校も休みだし、この三日間は部活もない。
学は今日こそ一平の秘密を探ってやろうと張り切っていた。翼に話すとまた止められると思い、自分一人の胸に収めて一平の様子を窺う。
いつ出かけるか、いつ出かけるかと、舐めるようにして一平を見張っていたが、一平は一向に海へ行く気配がなかった。
昼間は人目につくし、宿題が溜まりまくっていたからだ。今日は出来る限り宿題を片付けてから図書館まで足を伸ばそうと考えていた。トリトニアの事を調べたかったのだ。洞窟へは夕方近くなってから行く予定だった。
学は肩透かしを食っていらいらした。家で手持ち無沙汰にしているのも何だが、目を離せばその隙に一平は海へ行ってしまうだろう。かといって、休みの日に勉強するのなんて真っ平御免だった。
「なあ、一平。泳ぎに行かねえか?」
こうなったらしょうがない。こっちから仕掛けるか、と学は一平を誘った。
「行かないよ。宿題溜まってんだから」
「休みの日に勉強なんてアホらしいじゃんか。たまにはオレと行こうよ」
「ボクは毎日行ってるからいい」
すげなく断られる。学は代案を出した。
「宿題なんて夜やりなよ。なんならオレが手伝ってやるよ」
「…心配だからいい…」
学は字も汚いし、勉強というものはおよそ得意でない。本当は学の方こそ急がねばならないほど宿題が溜まっているのに決まっているのだ。
学は口をひん曲げた。
「ちょっ…、つまんねーなー」
ゴロンと畳に横になった。
「ひとりで行ってこいよ」
そばでごちゃごちゃ言われても邪魔である。
「つまんねーよー」
翼を誘うわけにはいかないのだ。心臓に持病のある翼が一緒に泳いで遊べないのは、学にとっても一平にとっても一番残念な事であった。
翼は行きたいくせにそんな素振りを見せない。思慮深い彼は、そうすることでふたりが自分に気を遣い、楽しめなくなってしまう方が嫌だったのだ。
「もう少ししたら終わるから。そしたら図書館に行くんだ。おまえも一緒に行くか?図書館なら翼も行けるだろ?」
「図書館だぁ?冗談じゃねー。もっとつまんねーじゃん」
学はたまげた。こんな一平初めて見る、と思った。
「別にいいよ。行きたくなきゃさ」
一平は嘘をついているのではなさそうだった。
「あーあ」
学は諦めた。だらだらと外へ出ると、功が釣竿を出していた。
「父ちゃん釣り行くの?」
「学か…。漁協の皆とな…」
「オレも行っていい?」
「いいぞ。だが気をつけろよ。今日は犬首の方へ行くからな。滑らないように長靴と‥ライフジャケットをとってこい」
学が父について釣りに行こうとするのと、一平が図書館へ行こうとするのとはほぼ同じ頃だった。
「釣りに行くのか?」
「うん。おまえも行かない?」
一平は筆箱とノートの入った鞄を持ち上げてみせた。
「ほー、珍しいな。勉強か、一平」
伯父の功も声を掛ける。
「うん、図書館に行ってくる」
伯父はニヤッと笑って言った。
「さてはデートだな?こいつ、いつの間に…」
「そんなんじゃないよ。調べ物だよ…」
「隠すな隠すな。おまえももう中学生だからなあ。こいつと違って毛も生えてるし…」
「伯父さん!」
いくら血の繋がった伯父だとはいえ、道の真ん中でこういう事を言われたくはない。しかも、功伯父は声がでかいので有名なのだ。魅力的なバスではあったが。
「ひでーよ、父ちゃん。オレが遅いんじゃなくて一平の方が早すぎるんだよ」
生まれは早いのにガキ扱いされて学は僻んだ。
「ホントにデートなのか?」
ちょっぴり羨ましそうに学は訊いてきた。父の言う通りかもしれないと、ちらと思ったのだ。確かに一平はもう身長が百六十センチはあるし、声も低くなってしまったし、父の言うようにアソコに毛も生えてきた。加えて筋肉もついていて、体だけは大人の仲間入りをしている。それに、日本人ではない父親の血を受け継いで彫りが深くて整った顔立ちなのだ。小学生の時から一平が女の子に人気があるのは知っていた。
もしかして、ここのところ毎日出かけて行くのは女の子とのデートだったのか?
そんな考えが浮かんでくる。
「違うってば…」
一平は一笑に付して離れて行った。行き先は反対方向なのだ。
しばらく歩くと、漁協の漁師たちとすれ違った。皆、釣竿やクーラーバッグを手にしている。伯父や一平の父も懇意にしていた連中だ。顔見知りである。
その中の一人、桂木という男が呼び掛けた。
「よう、一平、どうしてる?」
「こんちは」
父を亡くした一平を、気にかけて声をかけてくれるのはありがたいが、一平にはなんと答えてよいかわからなかった。彼は挨拶するに留める。
「功ちゃんはもう出かけたか?」
伯父のことだ。
「さっき、別れました。…これから、ご一緒ですか?」
「ああ、今日は犬首の方へ行ってみようと思ってな。勝さんの骨を撒いたのは犬首だったろ。だから犬首で奴と一緒に釣りを楽しもうと思ってよ」
父の遺言通り、お骨は犬首から散骨されていた。
「……」
黙り込んだ一平の様子を見て、桂木が申し訳なさそうに言った。
「思い出させちまったかな。悪かったな…」
「いいえ…。ありがとうございます。父も…きっと喜びます…」
「大人になったねえ。こんな一人前の口を利いてさ。勝さんもさぞかし草葉の陰で…」
桂木はぐっときたのか言葉を詰まらせる。豪快そうに見えて桂木は涙脆いのだった。父の勝は桂木にとっても大事な漁師仲間であり。釣りを介した友人だったのだから。
父のために涙ぐんでくれる桂木をこれ以上泣かせまいと、一平は健気に笑顔を作ってみせた。
「桂木ちゃんよ、みっともねえぜ。子どもの一平すら泣いてねえのによ」
一緒にいた堺という漁師が荒っぽく慰めた。
「呼び止めて悪かったな。またな」
漁師たちはそう言って功の行った方向へ歩いていった。
父と同年代の海の荒くれ男たちを見ていると、その中に父が混ざっていないのがひどく不自然に見える。一平もいつか父と一緒にその仲間に入りたいと願っていたのだ。その願いが叶うことはもうない。
しばらくの間、一平はぼんやりと父のことを思い出して佇んでいた。
散骨をした時のことが蘇る。犬首岬のうちでも、人の立ち入ることを許されている範囲内で、一平は自らの手で父の灰になった体を海に撒いた。風に乗り、灰はどこまでも海の上を舞っていくように見えた。煙のように見える灰は白い飛沫と青い波の間に飲み込まれていった。そしてその下で、一平はパールと出遭った。
ハッと気がついた。
(犬首だって?犬首へ行くって言ってたよな…)
胸騒ぎがした。
まさかとは思うが、行ってみた方がいいかもしれない。
パールのいる洞窟には普通の人は近寄れないはずだが、一平が行くことができるくらいだから、その気になりさえすれば誰でも入ることは可能だとも言えた。そうでなくても、もしパールが外を覗いた時に人目に触れでもしたら…。
一平は引き返した。
漁師たちがまだ歩いている。
しかしそれを追い越していくのはちょっと躊躇われた。変に思われるのはわかりきっている。
一平は回り道を求めてきょろきょろした。この辺りはよく知っている。犬首へは一本道で余計な通りなどない。あるとすれば海路だ。
一平は迷わず海へ飛び込んだ。
全速力で泳いで犬首まで行った。
その泳ぎを見ていたら、内山は腰を抜かしたことだろう。それほど早かった。部活での一平はあれでも大幅に手を抜いているのだ。真剣味が足りない、欲がない、と評価されても当然だった。
洞窟の下まで行くと歌声が聞こえた。
パールだ。
パールが歌を歌っている。
高くて澄んだソプラノ。天使の歌声と言われるボーイソプラノよりも少し愛嬌がある。見た目の幼さよりもずっと洗練された、人をうっとりさせる声だ。
この声で何度かパールは一平に歌って聴かせたことがある。歌っているパールはとても楽しそうだった。
だが今はそんな悠長なことを言っていられない。
姿だけじゃない。声だって、誰にも聴かせるわけにはいかなかった。
焦った一平は崖をよじ登るのに三回も足や手を滑らせ、擦り傷だらけになってしまった。
気配を感じてパールが歌うのをやめた。顔を出して不審な声をあげる。
「イッペイ?」
流石に疲れた。さっき漁師たちと別れた所からここまで走りづめ、泳ぎ続けで三キロはあった。はあはあと息ばかりが出てきて肝心なことが言えない。
「どうしたの?」
パールが不思議そうに覗き込む。
「‥間に…合った…。よか…っ…た…」
やっとのことで呟いた。
「?」
なんだか一平はとても疲れている。更にいつもと違って見慣れぬ服を着ている。大抵は海パンかパンツ一丁でここにやってくるので、ズボンやシャツを着ている一平を見るのは初めてだった。びしょ濡れの服が身体に張り付いて濡れ鼠だ。
パールは洞窟の奥に行ってバスタオルを持ってきた。一平が何かと必要だろうと__主に自分にだが__持ってきておいたやつだ。これが濡れた身体を拭くためのものだということはもうパールにはわかっている。
「‥ありがとう…」
一平が礼を言うとパールはニコッと笑った。
天真爛漫な愛らしい微笑み。これが見たくて一平は毎日ここに来ると言ってもよかった。
念のため、そっと洞窟の周りを見回して、一平は洞窟の奥に戻ってくる。
人心地つくと彼はパールに言った。
「よく聞けよ、パール」
この言葉もよく一平が使う。何か大事なことを伝えようとしている時に一平はこの言葉を使うのだ。パールは頷いた。
「この近くに人間が来ている。人間は怖いやつだ。パールを見たら捕まえてしまうかもしれない」
「ニンゲン?」
「そう。ボクと同じような姿をしているが、全然違う、、もし見つけられたらすぐに逃げろ」
「逃げるの?どこに?」
一平は海を指差した。
「海に飛び込んでできるだけ深く潜れ。人間は追いかけてこれない」
言うと同時に動作を交えた。手で潜る時の動きをしてみせた。
「うん。潜るんだね」
トリトニアの言葉でパールが答える。自分の言うことは一平には通じるのだということはパールにはもうわかっていた。
「海の上はだめだ。人間は船に乗って追うことができる。網や銛で捕まえられてしまう」
一平は洞窟の岩に炭で船や網の絵を描いてパールに教える。
「わあ。銛だあ」
「キューピック?」
パールは一平の描いた銛の絵を見てそう言った。
「これ、トリトニアにもあるよ」
銛のことをキューピックというのか。トリトニアという所にはこういう武器もあるんだなと、一平は心に留めた。
「人間はこれで魚や鯨なんかを突き刺して捕えるんだ。一発で死ななくてもまず致命傷を負うと思っていい」
これはちょっと難しかったかな、と一平は思った。案の定パールは首を傾げている。
無防備な幼けな子どもの目がまっすぐに一平を見つめる。
「わかるか?パール。ボク以外の人間に絶対見られちゃだめだぞ。見つけられたら…おまえはトリトニアに帰れなくなる。だから逃げろ。ボクがいない時にもし人間が来たら、海に潜って逃げるんだ」
「潜るんでしょ」
その言葉だけはわかった。
「今からそこへ行こう。隠れるのにいい場所をボクは知ってる。もしそんなことになったら、ボクが来るまでそこにいるんだ。一日以上は絶対待たせないから…。おまえがここにいなかったら必ずそこへ迎えにいくから…」
一平がしきりに何かを伝えようとしている。でもパールにはわからない。
一平はパールを抱き上げた。洞窟の近くに船や人の姿がないのを確かめてから一気に飛び込んだ。
パールの手を引いて一平は潜った。途中、目印になりそうなものをパールに指し示しながら導いてゆく。海面から三十メートル、岸壁から百メートルほど離れた場所に、海溝とは呼べないまでも深い地の裂け目があった。人一人がやっと通れるくらいの間隔しかなく、中は暗い。
パールが少したじろいだ。
(怖いのか?)
一平は自分が先に入ってみせる。
「おいで」
そう言われてパールは思い切って一平の後についてゆく。一平においでと言われて困ったことになったためしはない。
「人間に追いかけられたら、ここでボクの来るのを待つんだ。必ず来るから。約束だ」
一平は右手の小指だけをパールの目の前に立てた。
じっとパールのことを見ている。
(どうすればいいのかな?)
考えた挙句、パールは一平の真似をすることにする。
小指を立てると、一平が自分の小指を絡めてきた。そして上下に振った。
「約束、だ」
「ヤクソク、ダ」
これのことをそう言うのだ。きっと。パールはそう思った。
「パール、人間見たら潜ってここに隠れるの?イッペイ、来てくれるの?」
確認した。
パールは理解してくれた。多分、守ってくれるだろう。
自分も守らねば、と一平は決意した。