第四章 遭遇
少しずつ身体を慣らしながら二人は上昇していた。
今日は犬首には近づかない方がいい。調べ物はまた今度にして、今日は時間の許す限りパールと一緒にいてやろう。そう一平は考えていた。
部活を終えてから夕食までの時間なんかあっという間に経ってしまう。パールの所へ来るのは昼間は避けていたが、今日のようなことがあるとそうも言っていられない。これからはもっと度々ここに来ることにしよう。自分が見られる分にはまだ取り繕いようがあるが、パールを見られたら本当に最後だ。パールを絶対に人目に晒せないという思いは一平の中でどんどん強まっていった。
二人は泳いでは休み、潜っては休み、魚や貝を採っては食べて過ごした。海上には出ることなく、いろんなものを指差して名称を確認し合った。身振り手振りで意思を伝え合った。こんなに長い時間一緒にいるのは初めてだったが、やることが何もないのにちっとも退屈しなかった。パールの方は見るもの聞くもの全ての名前を質問してくるし、一平は一平でパールがどんどん物事を吸収していく度に目を輝かせるのをとても微笑ましく思ってばかりいた。
パールはもう一平にとても慣れていた。刷り込みをされたひよこみたいに親鳥の一平を追いかけ回す。一人で潜っている時よりずっと楽しくて、いつしか一平は警戒を怠っていた。
そんな時、追いかけっこを始めたパールが勢い余って海上へ飛び出した。慌てて一平も水面を掻き分ける。
「こら。まだ水の上に出ちゃだめだ。あそこに船が見えるだろう?」
そう言って船を見やり、一平はぎくりとした。
五メートルと離れていない所に人がいた。
「学…」
いとこの学だった。
学は父の功たちと一緒に船で沖へ出ていた。犬首で釣りをすると言っても、波が荒いために釣り船ではそうそう近寄れない。湾内よりは外海の方が波が穏やかだし魚もいる。彼らは犬首岬からだんだん釣り場を移動して行った。
当然のことだが釣りの腕前は大人たちには敵わない。自分だけが大漁でないのが面白くなくて嫌気がさしてきた学は、父に断って泳ぐことにした。
「泳ぐのはいいが、遠くまで行ってやってくれ。この辺の魚がみんな逃げちまう」
そう突き放されて、学は船から離れて行った。
釣り人に迷惑がかからない距離まで来て、学は手足を伸ばした。仰向けに浮かび、太陽の光を浴びながら耳のそばで水がゴボゴボ戯れるのを聴いていた。
急に波が立って、学の顔面を海水が洗っていった。
こんな沖合で変だな、と思い、体勢を立て直した学の目に、見たこともない光景が映った。ちょっと離れた場所に大きな魚のようなものが浮かんでいる。
でも魚じゃない。ピンクの頭がついている。そして、その魚のそばに続いて現れたのは、図書館に行ったはずの一平だった。
「一平…」
(なんでこんな所にいるんだよ?海へは行かないって言ったじゃないか。このウソツキ野郎!)
学の頭に血が上った。
「学…」
一平の方も驚きを隠せない。こんなふうに鉢合わせすることになろうとは思わなかった。
午前中の学とのやりとりが思い浮かび、結果的に学を騙すことになったと気がついた。
学に睨みつけられ、一平はさっとパールを背後に庇った。
(見られたか?)
微妙なところだ。学にはどこまではっきり見えただろう。
目の錯覚だと思ってくれ、と一平は祈った。
一平を怒鳴りつけてやりたいのを必死で抑え、学は言った。
「なんだよ、そいつ?誰だよ?」
「……」
やはり、見られていた。どうしよう⁈学はまさかパールに危害を加えたりしないだろうが…。
学は泳ぎ寄ってきた。
思わず一平は退いてしまう。
(ニンゲンだ…)
パールも学に気がついて思う。
(逃げなくていいの?潜るんじゃなかったの?)
一平の命を思い出すが、そうしようにも一平はパールの手をしっかり握って離さない。
「パール、潜るから…」
「しっ」と、制したが無駄だった。
(女の子?)
確かに女の子の声がした。一平の後ろにいるのは魚じゃない。女の子だ。そう、学は見てとった。
「やっぱりデートだったんじゃないか」
図書館へ行くふりをしてこんな所でデートだなんて、そういう奴だと思わなかったぞ、と学はますますカッとなる。
が、何か変だ。学は思う。
女の子の髪が赤い。こんな髪の色は見たことがない。真っ赤ではない。にんじん色と言われる赤毛でもない。ピンクっぽいがピンクでもない。サーモンピンクに近いがそんな言葉も学は知らない。珊瑚の色に一番似ていた。
(染めてるのかな?)
そう思ってよく見ると、なんと女の子はあどけないくらい幼い顔をしている。
「ちっ…違うよ…」
一平はおろおろと両手を振る。デートなどというものからは程遠い代物なのだ。それなのになぜか一平は赤くなった。
「おまえ…こんな小さい子を…」
こんな沖合に連れ出してどういうつもりだ。見れば、女の子は何も着ていないようではないか。水着はどうしたんだ?
「変態オヤジか?おまえは?」
「ばっ…‼︎」
一平は絶句する。思い違いも甚だしい。
でも、学の言い分もわからないことはなかった。
「いくつだ、その子?」
「さあ…。六つか七つぐらいだろ、多分‥」
「おまえなあ…」
あまりのことに学が呆れている。
「おまえがロリコンとは知らなかったよ」
「違うって言ってるだろ‼︎」
ますます一平は赤くなって怒鳴っている。こんな勘違いをされるとは予想もしていなかった。誤解を解くことに気がいって、パールを隠すことを忘れてしまった。
「ふーん…」
学は意味ありげに鼻を鳴らしてパールをじろじろ見る。
パールもちょっと怯えてはいるが、興味津津で学のことを覗き見ていた。
一平の言うような怖いニンゲンには見えなかった。むしろ一平と仲が良さそうである。怒鳴り合ってはいるが、心は通じている。そう、パールには受け取れた。一平がパールを逃がそうとしないのが何よりの証拠ではないか。
そんなパールに対する学の感想はこうだった。
―ちいちゃいけどかわいらしい顔をしている―
(こういうのが好みだったのか…)
学の誤解はまだ解けない。
それにしても、こういうことまでもうするか?学はパールの裸の身体に視線を落とす。幼女とはいえ、女の子の身体に興味がないはずはないのだ。
そこで学はあれ?と思う。乳首がない⁉︎
「やらしい目で見るなよ!」
いきなり一平に頭を沈められた。
水の中で泡を吹きながら学の見たものはそれだけではなかった。
少女の腰から下に足がない。あるのは魚の形をした尻尾だ。
(人魚?)
プハッと息を吹き、一平に水飛沫をかけてから、学は問い質した。
「どうなってるんだ?一平⁉︎」
しまった、と自分のしたことを後悔したがもう遅い。学はガクガクと唇を震わせて追及してくる。
「…こいつ…こいつは…」
一平は観念した。
「ああ、そうだよ。この子は人魚だ。パールっていう…」
「ど…どこで…拾ったんだ?」
「犬や猫の子みたいに言うな。迷子だからボクが保護したんだ」
「保護って…おまえ…」
当たり前みたいに言っているが、簡単には信じられない出来事だ。
「架空の…生き物なのに…」
「架空じゃない。…ボクもその仲間だ」
言ってしまった。
架空の生き物と言われてついと董が立った。学に悪気がないのはわかっていたのに。
「な…何言って…」
学が戸惑う。おまえはオレたちと同じ人間で、オレの従兄弟じゃないか。
「……」
その先を言おうかどうしようか、一平は迷っていた。でも、もう撤回はできない。
「父ちゃんと…この子の故郷は同じ所なんだ…」
「何?」
「ボクは実は…水の中でも息ができるんだ、学…」
「何だって?」
寝耳に水の話だ。そんなことはこの十三年間一緒にいて一度も…。
「誰にも…喋っちゃいけないって、父ちゃんは言ってた」
一平はとても嘘やでたらめを言っているようには見えなかった。
一平の言っていることとしていることの矛盾に対し、学は言った。
「オレなんかに…言っちゃっていいのかよ…」
「……」
一平はちょっと考えてから言った。
「学は…人の秘密をばらして回るような奴じゃない。けど…先に喋ったのはボクの方だ。もしも、他の誰かに知られたら…ボクがこの村を出ればいい…」
「な…」
「パールは迷子だ。トリトニアがどこにあるか知らないが、ボクはパールを親元に帰してやりたい…」
一平は本気のようだった。
学は怒鳴った。
「バカヤロウ!見損なうなよ!オレは男だぞ!」
人の秘密をばらしたり親友を困った立場に追い詰めたりするのは腐った女のすることだ。学は心からそう思っていた。兄弟にも等しい一平の力になりこそすれ、陥れるような真似をすると思われるなんて心外だ。
「‥オレも仲間に入れてもらう。…紹介してくれよ」
一平は目を見開いて学を見た。学がウインクしてみせる。
一平はパールに向き直る。パールに訂正しなければならない。
「パール。こいつはボクの友達だ。おまえの味方になってくれる。だから逃げなくていい。わかるな?」
「トモダチ?」
一平は頷いて言った。
「学、だ」
身を引いてパールから学がよく見えるようにしてやる。
「一平ちゃんのお友達の学ちゃんだよー」
まるで赤ちゃんに向かってする自己紹介だ。一平は眉を顰めた。
「イッペイチャンノオトモダチノガクチャン?」
鸚鵡返しで答えたパールはその言い回しが気に入ったらしい。
「イッペイチャン…ガクチャン…イッペイチャン…」.
何度か繰り返してから二人を代わる代わる指差して言う。
こっちが『イッペイチャン』、こっちが『ガクチャン』だと。
「パール…」
パールがあまり楽しそうにきゃらきゃらと笑うので、一平は訂正できなくなってしまった。それからのパールは、一平の名に『ちゃん』をつけることをずっと忘れてくれなかった。




