エリュティアの来訪
時をやや遡る、まだ地震の混乱から覚めない早朝の聖都の中央付近で、若者たちの勇ましいかけ声が響いていた。ルージ国王リダルの館で、ルージからやってきたアトラスとその側近が、中庭に設けられた砂場でレスリングのトレーニングをしているのである。アトラスたちにとって朝の習慣に過ぎないが、地震の直後で不安に駆られる人々には、若者たちが競う声は激しい乱闘を連想させ、何事が起きたのかと耳を澄まさせた。
リダルは若者たちのトレーニングを止めさせようとはしなかった。若者たちが競い合う勇ましい声が地の悪神を威圧するという言い伝えがあった。ただ、この王は希代の戦術家らしく合理的で、若者のかけ声で悪神を退けようとは考えてはいない。若者たちの力強いかけ声で、地震で乱れる人々の心が静まることを期待したのである。その若者たちに混じるザイラスの声を聞きつけたリダルは、部下にザイラスを執務室に呼ぶよう言いつけた。
「我らが王よ、ただいま参じました」
ザイラスが挨拶するまもなく、リダルはザイラスを親しげに呼び寄せて続けた。
「おおっ、ザイラスか。近こぅ寄れ。神帝からのお召しがあった。儂は議会へ行かねばならない」
「では、エリュティア姫との面会の席は?」
「その事よ。お前はアトラスやエリュティア姫と歳も近い。年寄りどもより、気づくことも多かろう。お前が姫を迎える手配りをせよ」
「私のような者がですか?」
ザイラスがそう聴いたのは、自分は他の者と違って、一般庶民出身で誇るべき家柄がないということである。リダルはその点について全く膾炙する気配もなく断言した。
「そうと決めたぞ」
この王が断言すると、その言葉を覆すことは難しく、臣下は命令を受け入れるしかない。
「仰せの通りに」
そう頷くザイラスに、リダルは腰の短剣を差し出した。リダルが日常生活の中で、戦の長剣の代わりに身につけている装飾品で、武器としての実用性はない。しかし、束にはアクアマリンがはめ込まれたルージ王家を証する持ち物である。
「これを、儂の身代わりとせよ」
リダルがそう言ったのは、王族に次ぐ貴族の一員という身分に取り立てるので、気兼ねせず他国の王家の者に接しろと言うことである。装飾や儀礼を嫌うこの王は、時に家臣が驚くほどの気配りと大胆な決断をする。そしてそれは気まぐれや思いつきではなく、常に冷静な計算の結果である。確かに、ザイラスという青年は、次世代の王となるべきアトラスを支える側近として申し分のない能力を持っていた。
しかし、ザイラスは光栄に浴した喜びの表情の内側で、様々な感情が入り交じって乱れるのを自覚している。男としてリダルの勇猛さには敬意を感じている。その男から全幅の信頼を得たという喜び。また、リダルがザイラスの父を殺した仇だと言うこと、そして何より、今の自分がリダルの信頼を裏切って他国に内通しているという後ろめたさである。ザイラスは複雑な表情で、アトランティス議会に向かうリダルの背を見送った。ただ、復讐心というザイラスを支え続けた信念に揺るぎはなかったようで、彼は迷いを振り払って任務を考えた。あと、二ライ(約二時間)も経てば、挨拶に来るエリュティア姫を館に迎えるのである。
アトラスと面会するためにエリュティアが、シュレーブ国公邸を発ったのは、面会時間のかなり前である。目的のルージ公邸はルミリア神殿を挟んで東に1ゲリア半(約1200メートル)、体力のある者がたいして息も切らさずかける事ができる距離だが、自国の公邸前で行列の隊列を整え、エリュティアを輿に乗せ、神殿前の蛮族の砦を避けると称して、迂回して、シリャードに住む一般市民が集う広場を通過して、休息を取った。ルージ国公邸までたっぷりと時間を使うのである。全て、シュレーブの姫がルージ公邸を訪問すると言うことを市民たちの目に焼き付けておく為である。この噂はすぐに各国に広がるだろう。行列に付き従うエリュティアの教師ドリクスはそんな計算をしていた。ドリクスは最後の決断を促すようにエリュティアに語りかけた
「では、参りましょうか」
「はいっ」
エリュティアは短く返事しただけで、素直に輿に乗り込んだ。アトラスへの贈り物になるクレアヌスの胸板を、深紅の布で包んで胸元に大切に抱きかかえていた。本来は侍従が捧げ持って目的地まで運搬する。エリュティアはそこ刻まれた真理の女神に祈りを込めるように、侍従にはまかせず自分で持参しているのである。
(エリュティア様は、クレアヌスの胸板にどんな思いを込めているのか)
ドリクスはふとそう思った。彼女は救国の英雄の登場を祈っているに違いない。しかし、周囲の男どもによって運命の糸を操られる操り人形の少女に、この時だけはアトラスと結ばれた後の自分の幸福のみ祈っていて欲しいとも考えたのである。
一行は広場を出発した。既に到着を知らせる先触れの使者はルージ公邸の門前に到着しているだろう。
同じ頃、館の主が不在になったとき、公邸の内部を取り仕切る役割を託された老ランドスは、王の意を受けて、ザイラスによく協力して準備を整えた。その手際の良さに、アトラスの近習の若者たちはすることもなく手持ちぶさたで、公邸の門に近い一画に屯している。
「我らが王妃となる姫か。早く一目みたいものだ」
アトラスの側近のラヌガンが仲間の若者を見回して言った。仲間もまた好奇心を込めて頷いた。彼らはリダルを名ではなく「我らが王」と呼ぶ。「我らが王妃」と称したのはアトラスが次の王となり、その王の后として彼らが敬う女性になるだろうという確信を持っているのである。
「ラヌガン、お前たちは、奥の部屋で控えていろ」
ザイラスが通りかかって、若者たちに命じるように言った。
「朋輩のくせに、我らの指揮官にでもなったような口をきく」
「王の短剣を得て、思い上がっているのではないか」
そんな声が背後に聞こえたが、ザイラスは忙しく、説明に要する時間がない。ザイラスには先日、エリュティア姫を訪問したときの記憶がある。アトラスがやや乱暴で、姫に対する敬意を失する態度だった。今回の面会ではそれを避けたいと考えているのである。
(なんと、愚かなことだ)
ザイラスは自分の心情を心の中でそう評した。リダルを親の敵だと信じ他国に通じている。ただ、その一方で幼い頃から共に過ごしたアトラスに、弟に感じるような親近感を感じていた。父の愛情を妻であるアトラスの母に向けさるため、アトラスは父親の歓心を買おうと行動する。時にそれが乱暴な武人の姿を取ることがある。
しかし、その仮面を取り払えば、アトラスという王子は無邪気な少年の心を持っていて、あの無垢なエリュティア姫とよく似合う。ザイラスはアトラスを無垢な少年のままエリュティアと娶せてやりたいと考えているのである。この時期にアトラスの素直な人格を知るのは、幼い頃から共に過ごしたザイラスと、偶然に彼の心に触れたリーミルだけだったに違いない。先日の面会の後、アトラスは素直に自分の無礼な態度に自己嫌悪を抱いているようだ。ただ、ここで側近のラヌガンたちにそそのかされれば、彼は再びつまらぬ見栄を張って武人の姿を装うに違いない。ザイラスはそれを避けるために、一時ラヌガンたちをアトラスから遠ざけておこうと考えたのである。しかし、意外なところでザイラスの危惧が的中した。
将来の妻となるかもしれない女性がまもなく来訪する。自分の運命に関わる女性だという思いと、出会ったときに不躾な振る舞いをしてしまった罪悪感で落ち着かず、アトラスは控えの間に留まっておくことができずに、部屋の入り口をうろうろと歩き回っていた。奥の間に引き上げるラヌガンたちがアトラスと顔を合わせたのはそんな時だった。
「我らが王子ではないか。ここに居られたのか」
「おおっ」
頷くように応じたアトラスに、ラヌガンと同じ侍従のテウススが茶化すように言った。
「我らが王子が、王妃となる娘御を手懐づける様子、とくと拝見いたしましょう」
「その通り。我らが世代になっても、女どもに政治に口出しされるのはたまらぬ」
「女どもをてなづけるのは早いほうがよい」
近習たちは次々にそう言った。名指しはしないが、ルージ国の宮廷でアトラスの母リネをはじめとする女たちが、政治に口出しをする状況に辟易しているというのである。飢狼王とも称される勇猛なリダルが、気だての強い王妃の扱いに手を焼いているというのは、家臣や他国の者どもの知るところで、失笑を買ってもいる。それを密かに知るアトラスは未来の家臣に応えざるを得ない。
「何、女など力でねじ伏せればいいだけのこと」
アトラスの言葉を聞いたラヌガンたちは口々に次の世代の王を褒めた。
「さすがは、我らが王子。期待していましょう」
部屋に走り込んできた小者がアトラスに告げた。
「エリュティア様がお着きになりました」
アトラスの目から素直な少年の心が消え、武勇を誇示する男の視線に変わっていた。




