2:遠い背中
素早く朝食を済ませてから家の外に飛び出ると、まだ見える位置に義姉の後ろ姿があった。たまにあることなので驚きはしない。
義姉がどこに寄り道しているかなど、まるでわからないのだが。
そもそも、義姉には謎が多かった。昔はいちいちそれを本人に聞いていたが、そのうちにやめたようだ。ようだ、というのは、これも記憶が曖昧なせいなのだが、覚えている限りなら、
「どうやったら、そんな風にボールを蹴られるの?」
との問いかけに対し、
(蹴ってないのよ。ボールと風にそう命令しているだけ。ボールはまだわたしに慣れないから、なかなか言うことを聞いてくれないんだけど)
というのが答え。また、
「いつも、家のなかで誰と話しているの?」
(精霊たちに決まってるじゃない。ものに宿る精霊たちと声を交わすことで、人はその場所に『慣れて』いくの。みんな無意識にやっていることだけど、わたしたちは意識して、『向こう』の扉を開くことによって、そうした干渉のレベルを強めることができるのね。この家はなかなか面白いわ。みんなあなたが好きだし、わたしのことも好きになってくれそう)
「―い、いま、二階から飛び降りなかった? 大丈夫?」
(『慣れた』場所なら平気だって、何度言えばわかるの? はじめての場所だったら、まだ無理だけど、そのうち大丈夫になってみせるわ)
などなど。
聞かなくなった理由もわかる気がする。聞いたところで理解不能だからだ。
昔はだから、義姉のことをとても素晴らしいマジシャンだと思い込もうとしていた節がある。
いや、待て。マジシャンだと思ったのは、もう少しあとになってからだ。最初に会ったときは……確か。
――魔女。
裕樹はぶるっと肩を震わせた。そう、義姉のことを、テレビの特撮番組に出てくる魔女なのだと思っていた。
高校生のいまとなっては、馬鹿げていると思う。魔女よりはマジシャンのほうがまだしもだ。
しかし、テレビで見る凄腕のマジシャンでさえ過去の義姉にはおよばない。あるいは昔のことだから、凄い、凄いと思い込んでいるうちに、実際のものとはちがう記憶になってしまっているのかもしれない。
頼んだらまた見せてくれるかな、と裕樹は思ったが、すぐに自分の思いつきを打ち消した。
あり得ない。視界に小さく映る、義姉のほっそりした後ろ姿。これだけでわかる。昔は前後に並んで歩いていた。
(鉄の掟、第一条)
姉さんはいまより小さな指を一本立てて、言ったのだ。
(あたしより前を歩かないこと!)
「破るとどうなるの?」
(わたし、裕樹のお姉さんじゃなくなるわ。約束破る人と家族でなんていられないもの)
「そ、そんな」
(イヤでしょ? だったら、絶対守るのよ)
小学校もいっしょだったから、裕樹は登校するとき、いつも義姉の後ろに引っついて歩いていた。義姉の鞄を持ちながら。
それが、いまじゃこの距離だ。
鞄持ちをさせられることのない代わり、鉄の掟はいまや十二条にまで膨れ上がり、そのなかでもっとも厳守すべきなのが「学校でわたしに関わらないこと」なのだから、義姉との距離は開く一方で、家でさえほとんど会話をしないような関係になってしまった。
――いいんだけどさ。
裕樹ももう高校生。いつまでも、お姉ちゃんお姉ちゃんという歳じゃない。だからいいんだけど。でも……。
地面と垂直に、ピシッと一本線が通っているかのようにまっすぐな義姉の後ろ姿。歩いているだけでも、そこだけ異世界のように見せてしまう義姉を、遠巻きに眺めている人たちは多い。星粛高等学校の生徒たちも同様だった。
見ているだけ。近寄ろうとはしない。
異世界とやらはあるいは、義姉が意識してつくりあげたものではないのかもしれない。むしろ、周囲のそうした人たちのほうがつくったものなのかもしれない。――自分も含めて。
通勤通学の人が増えてきた街中を、たったひとり歩いていく義姉の後ろ姿を遠目にするたび、裕樹は理解のできないもどかしさに襲われる。あの義姉がなぜかとても小さく見えるときもある。
それなのに、いつも自分は見つめている。
たった数十歩の距離を埋めることなく――。
そのとき、背後で小さく爆音が聞こえた。
低く唸った爆音がそのまま猛スピードで近づいてくる。思わず道の端に跳び退きかけた裕樹のすぐ側面を、一台のバイクが通り過ぎた。
ライダーは黒いフルフェイスのヘルメットですっぽり頭を覆い、同じく黒のライダースーツで全身を包んでいる。
危ないな、と憤慨する余裕もなかった。バイクはなおも一直線に突き進んでいく。
義姉の後ろ姿に見る見る近づいていき、そのまま跳ね飛ばすかに見えた。
「お、お嬢さま!」
思わず、昔の呼び方で大声が出る。
「あっ」
という叫びは、裕樹と、そして周囲の人が発したものだ。真那のほっそりした姿が突き飛ばされたように路上に転がる。
裕樹の胸がざわっと音を立てながらも空洞と化した。
ライダーの後ろ姿はすでに遠い。
バイクの上で突き出した右手には星粛高等学校の鞄があった。真那から奪い取ったのだ。
仕留めた獲物を誇るかのようにその鞄を振りまわしながら、バイクはぐんぐん遠ざかっていく。
「あ、あいつ!」
気づいたときには裕樹は駆け出していた。さっきまでは遠かったはずの数十歩の距離を一気に埋めて、路上にへたり込んだ真那の傍らで急停止する。
理由は不明だが、例の『女殺し』は真那や藍那、つまり家族には発動しないのだ。
「お嬢さま、大丈夫ですか!?」
両脚をくの字に折り曲げて、長い髪に顔を埋めるようにした、妙に色っぽい格好で尻餅をついていた真那は、ふと白い顔を上げて、
「あら、登校途中に声をかけるのも禁止してなかったかしら」
と言った。
「確か……第二十三条? それに、『お嬢さま』呼ばわりも、他人行儀な敬語もおやめなさいと言ったでしょう。これは確か第十条。ポイント減ね」
「そ、そんな場合じゃありません……ないって!」
頭に血が昇っていた裕樹は大声を返す。十二条しかなかったはずだが、義姉の頭では続々と増えている真っ最中らしい。
ともかく、傷ひとつないらしいのを確認してから、「待ってて」と声をかけてふたたび駆け出した。
あのバイクのあとを追うのだ。
確か左手側の細い路地へと入っていった。道を曲がる。クラブやスナックが軒を連ねる通りで、朝早い時間帯に見ると、まるで廃墟になりたての無人街みたいだった。
すでにバイクの姿は消えている。それでもあきらめきれずに走った。
犯人がなんの目的でひったくりをしたかはわからない。金品目的なら学生を狙うのは妙だ。
では、ストーカー行為の一種だろうか? 真那からそういう話を聞いた覚えはないが、充分にあり得る。
というより、なんだからしくない。
そりゃ、義姉だって普通の女子高校生だ。後ろから迫るバイクになにができたわけでもないだろう。が、むしろ裕樹が引っかかっているのは、その直後に見た義姉の態度だった。
声をかけたとき、その表情には怒りも恐れもなかった。
というより、まるでそもそもの感情が欠落したみたいにぼうっとしていたような気がする――。
あっ、と裕樹は足を止めた。ひょっとして頭でも打ったのだろうか?
見た目に怪我がなかったので安心してしまったが、もっとよく確認すべきだった。
裕樹は右往左往した。
戻って義姉の様子を見たい気持ちと、鞄をすぐにでも取り戻さないともう手の届かないところまでいってしまうという焦りとが、心身を真っ二つに裂けかける。
「く、くそっ」
とつぶやいたそのとき、裕樹の目が丸くなった。
捜しものがあっさりと目に留まったのだ。
店舗と店舗のあいだ、狭い空き地になった場所があり、そこに星粛高等学校の鞄が投げ出されてある。
警戒するのも忘れて裕樹は飛びついた。鞄には開けられた形跡すらない。
裕樹は鞄を手に、急いで路地を戻っていった。
◆
しばらく経って。
「なによ、あいつ?」
空き地の奥から、怨嗟のこもった声が聞こえてきた。店の裏側に隠れていたらしい。
「計画を邪魔してくれちゃって。まさか弟のほうがやってくるなんてね」
「あ、あいつに構うのはやめましょうよ。噂だと、本当に危ないらしいですから」
「ただの噂でしょ。あんたらがあんまり止めるから、思わず見逃しちゃったけど。――でも、聞いて。いいこと思いついたわ」
憎々しげな声は一転し、どこか楽しげな響きを帯びた。