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昼休みがしっかりとれるというのは素晴らしい。
その日の気分で食べたいものを頼めるし、ゆっくり味わって食べることもできる。
何事もなく倉庫の前を通り過ぎ、今日もつかまらずにすんだ、と喜んで昼休みを満喫する日々を過ごしていた――はずなのだが。
……今日もいないな……。
十日も経たないうちに気になり始めた。
なにしろ最近は三日に一回はつかまっていたのだ。違う課なのに、なぜか庶務課の倉庫内の配置まで覚えてしまうくらい手伝わされたのだ。
それがいきなりぱったりとなくなると、なんだか落ち着かない。
これが普通だ正常だ。今までがおかしかったんだ。――と自分に言い聞かせても、どこかで風が吹いているような喪失感がつきまとう。
食堂に向かう途中、気がつくと誰もいない倉庫のドアを見つめている自分がいた。
◇―◇―◆―◇―◇
病気にでもなったんだろうか、と抱かなくてもいいはずの心配を抱き始めた頃、仕事中に呼び出された。
「すまないねぇ、うちの人じゃないのに」
そう言って頭を下げたのは、庶務課の課長だった。
「物品を持ってくるのはずっと守岡くんに頼んでいたからねぇ、倉庫の中を把握している人が他にいなくって」
よく手伝わされていた俺ならわかるんじゃないかと思ったらしい。
「ちっちゃ……守岡先輩、どうされたんですか?」
俺の問いに課長は「聞いてないのかい?」と目を丸くした。
「お父さんが倒れられてね。命に別条はないんだけど、体に麻痺が残ってしまったらしくて、お店を守岡くんが手伝わないといけないんだそうだ」
すでに退職願は受理されていて、今は有休扱いだと課長は言った。
「そうか、君には伝えてなかったのか。心配かけさせたくなかったのかな」
課長はそう呟いていたが――違う。そんなことを話す仲じゃなかったからだ。
俺とちっちゃい先輩はただ荷物を一緒に運んでいただけで、それ以上の繋がりはない。
まともな会話だってしていない。いつも勝手にくっちゃべっているのを、適当に聞き流していただけだ。父親がそんな大変な状況だなんて、話すわけがない。
頭ではそうわかっているのに、なんだか裏切られたような気分だった。挨拶くらいしていけよ、と思った。人を好き勝手こき使っておいて、いきなりいなくなってんじゃねえ。
「仕方ないんだけどねぇ、突然のことで僕らも困ってるよ。物品のことは守岡くんに任せきりだったからなぁ」
倉庫内を探しながらぼやく課長の台詞に眉を寄せる。庶務課で物品を任せきりって――
「あの人、仕事できたんですか?」
俺のその疑問に、課長は「少し違うなぁ」と返した。
「“できた”わけじゃないな。でも、安心して任せられたんだよ」
違いがよくわからない。疑問を浮かべた俺に、課長はちっちゃい先輩を思い出すように笑った。
「なにやらせても、時間はかかったな。でも、丁寧でね。仕事量さえ間違わなければ確認する必要もなかった。守岡くんはなんでも引き受けてくれたから、頼みごともしやすかったしね」
「……パソコンが苦手だから雑用係をやってるみたいなこと言ってましたけど……」
「――あぁ。パソコンは苦手だったねぇ。今どきの二十代が、人差し指一本で将棋でも指すようにキーボードを打つとは思わなかった」
予想以上の苦手度合に言葉を失う。それは時間がかかりそうだ。
「あぁ……でも、そうか。だから、なに頼んでもやってくれたのかな」
課長が納得したように呟いた。
おそらく、その見解は正しい。あの先輩は、自分が役立たずだと思っている節があった。だから、あんなちっちゃい体では大変な仕事も一人で引き受けていた。
聞いた話によると、先輩を手伝っていたのは俺だけだったらしい。同期の何人かも声はかけられたらしいのだが、一度断ったらそれ以降は頼まれなくなったと言っていた。
「おまえも断りゃよかったのに」
そうすりゃよかったよ、と返したが、その実、その話を聞いてから余計に断れなくなった。
だって、そうだろう。俺が断ったら、その後ずっと、あのちっちゃい先輩はどんなに重い荷物でも一人で運ばなくちゃいけなくなるんだから。そして本人は、どんなに大変でも断ることができないんだから。
“ありがとねー”
庶務課の前で手を振る先輩の姿がよみがえる。
たぶん、本当に、心の底からそう思ってた。あの人が頼れるのは、俺だけだったのだ。
「守岡くんに会ったら言っといてくれ。“いなくなって困ってるから、できたら戻ってきて欲しい”って。――まぁ、難しいだろうけどね」
父親の麻痺が治らない限り、先輩は戻れない。それがわかっててもそう伝えたいのは、役立たずじゃないと知って欲しいからだろう。
しかし――
「……なんで俺に頼むんですか」
俺はただ、荷物運びを頼まれていただけだ。実家の場所どころか、携帯のアドレスも知らない。名前だって、呼んだことも呼ばれたこともない。いつだって、“イケメンくん”と“ちっちゃい先輩”で、それ以上の関係なんてなかったのだ。
ふて腐れた俺の顔を見て、課長はにっと笑った。
「うん。だから、“会ったら”でいい。べつに会いに行けとか言わないよ。――そういえば、守岡くんの実家は南区で“とりのもり”っていう焼き鳥屋をしているんだったかなぁ」
わざとらしさを隠す気もない情報提供をしてから、課長は段ボール箱を抱えて庶務課に戻っていった。
――知ってるよ。興味もないのに散々聞かされたんだから。
倉庫の前で舌打ちまじりに思う。
あの人がどれだけ実家の店が好きで大切に思っていたかも知ってる。店主である父親が倒れたら、そりゃあ迷うことなく実家に戻るだろう。
わかってる。そんなときに俺の顔なんて思い出しもしなかったはずだ。あの人はそういう人だ。
荷物運びの“イケメンくん”より、実家の店の方が何万倍も大切なんだ。
――くそっ。
いまさらながらに悔やまれる。俺しか頼る人がいないとわかっていたのに、どうしてもっと優しくしてやれなかったんだろう。
そしたら、そうしていたら――
あの人との関係は、もう少し違っていたのだろうか。
◇―◇―◆―◇―◇
“南区”の“焼き鳥屋”で、名前は“とりのもり”。
それだけの情報があれば、住所くらい調べられる。
庶務課の課長にそれを気づかされてから、なんとなくネットで検索をかけ、それでも動くことはせずに、それから二週間が過ぎた。
「イケメンくん」
聞こえるはずのない声にがばっと顔を上げ、そこにいた同じ課の先輩社員の顔を見て、気分が一気に落ち込むのを感じた。
「……瀬田です」
短く訂正をし、仕事に戻る。
「えー、だって守岡にはそう呼ばせてたんでしょ」
「……呼ばせていたわけではありません。訂正したけど聞いてもらえなかったんです」
そしてそこまで嫌なわけでもなかった。再度訂正する方が面倒だったくらいだ。
それなのに――他の女に呼ばれるのは腹が立つ。
「え、そうなの? うわー、瀬田くんかわいそー。嫌がってたのにずっと続けられたんだ」
確かにそうではあるのだが、他の人間に言われるのはやはり腹立たしい。
「守岡ってチビでどんくさいくせに態度でかくてさぁ。やめてくれてさっぱりしたよ。瀬田くんもそう思うでしょ? よく手伝わされてたもんね?」
「――やめてくれませんか?」
続けられる言葉にイライラがピークに達し、思わず低い声を出した。
爽やかイケメンの瀬田くんはこんなことしない。なにがあっても、いつもにこにこ優しい笑顔……――なんて、やってられるか!
「あの人はもうこの会社を辞めたんです。もう関係のない人なんです。わざわざ蒸し返して悪口を言う必要はないでしょう!」
黙らせるために放った台詞に、自分で悲しくなった。
“もう関係ない”――
それは俺自身にも当てはまることだ。荷物を運んでいただけの関係は消え、あとにはなにも残っていない――
――くそっ。
あんな女、と思う。いい記憶なんてない。重い荷物を持たされて、昼休みを削られて、つかまった日はいつもカレーだ。
妙な呼び方するし、人の話は聞かないし、訊きもしないことを勝手に喋るし、厄介だ、面倒だとずっと思ってた。
それなのに――
なんで頭から離れねえんだ、あんたは! 会社からいなくなったんなら俺の頭からもいなくなれよ、畜生!
最後に会ってから一ヶ月が経とうとしているのに、記憶は薄れるどころかよみがえる頻度を増していて、やはり倉庫の前を通るときは視線をそちらに向けてしまう。
何度も会ったあの場所に、今も先輩がいるような気がして――