16 女王の招待状13 メアリー・アン
この先どうなるのだろう。
あまりにも軽い自分の口を恨むが、舌を滑った言葉はもう外へ飛び出してしまっていて、取り返しがつかない。
そうかと言ったきり無言を通している女王から何を言われるのだろうと考えると、ちらりとも視線を向けられず、女は、ついうつむいてしまうのを誤魔化すように、もう半分ほどになってしまったカップの中身に目を落とした。
やっと三口ばかり口に運んだケーキは、おいしいと思うのに味がしないという実に複雑な味わいで、口当たりは良いのにのどに引っかかるように感じられて、ひどく飲み込み辛かった。
「湯浴みの世話をしたことは?」
沈黙の後問われた言葉に不意をつかれ、思わずパッと顔が上がる。
思っていたものとは全然違った問いかけに反応ができないでキョトンとし、「答えよ」と促されて少し考え、髪を洗うくらいならーーーしたことがあるかどうか覚えていないができるだろう、たぶんーーーと頷いたのは、後で思えばたぶん誤りだったかもしれない。
いったいなぜそんなことを聞かれたのかと胡乱気にひねった首が、喜色を浮かべた女王に「おいで。メアリー・アン」と微笑まれていっそう傾く。
(メアリー・アン?)
誰だっただろうと考え、ふとつやつやした黒スグリのような女王の目がひたと自分を向いているのに気付き、女は「えっ」まさか…とたじろいで小さく呟いた。
「わ、私?!」
違いますと言いかけて、すごい力で椅子を引かれ、ヒッと息を飲んで座面に爪を立ててしがみつく。
「支度を」
女王がのんびりとした仕草で毛疎くテーブルに頬杖をついて、口元を弓なりにさせてフフフと笑う。
他の誰がそうしてもだらしなく見えてしまいそうな仕草だったが、そうしているのが目の前の彼女であるだけで、不思議な艶が滲むようだ。
視界の端で白兎が呆れた風に息を吐いてやれやれとばかりに首をふるのが見えたが、それもいつの間にか周りを背の高いメイドたちに物々しく取り巻かれてしまってあっという間に見えなくなった。
支度とは何かと尋ねた気がしたが、どうだっただろう。
ただ、もみくちゃにされて目を白黒させている内に何をどうされたのかいつの間にかメイドのお仕着せに着替えさせられていて、ワッともみくちゃにされるのから解放されたと思ったら湿気が熱と薔薇の香気を孕んで精巧なーーーやっぱり薔薇のーーーステンドグラスに水滴が伝う美しい部屋に立っていた。
温室だろうか。
今まで感じていたのとは違う肌に張り付くようなむわり湿気た熱といつの間にかメイドたちの列の中心になっていることに困惑する。
すぐに金色の猫足が可愛らしいバスタブが目に入って、女は湿気がこもった熱だと思ったそれが湯気だったと気づき、ますます困惑を深めて立ち尽くした。
遠目にも湯船にはられた乳白色の湯と浮かべられた真っ赤な薔薇が浮かぶ様はいかにも女王のバスルームといった風情だが、どうして風呂場なんかに運ばれてメイド服を着込み列に加わっているのだろうと考えても理由は何も思い浮かばず、列を外れられる空気でもない。
「困ったわ…人違いなのに…」
わざとらしくも聞こえる独り言が思わず口をついてしまったのが思いのほか響いた気がしてコホンと咳をし口を押さえたが、結局女を中心にして横並びにずらりと並んだメイド達が呟きに一切反応しなかったために、ただの独白で終わった。
安堵か失望か。女はそっとため息をつき、これはメアリー・アンのお仕着せなのだろうかとスカートの裾を指先でつまんだ。
(もしかして、その人私とそっくりなのかしら…?)
メアリーが名前なのか、アンが名前なのかもわからない赤の他人だが、あつらえたようにぴったりとサイズが同じお仕着せに、たぶんそうなのだろうと遠い目になるのを耐えられない。
頭を冷やすべきだ。あまりに混乱しすぎているから。そう考えるそばから、すぐ別のどこかが反応して、混乱するのは当然だと地団駄を踏んで訴えてくる。だって、冷静になれるわけがないのだ。
すぐに合流できるのだろうと思っていた双子はちっとも追いついてきてくれないし、女王陛下の招待状はどうして送られてきたのかわからない。
間違いだと言おうとしたのに聞いてもらえないし、勝手に着替えさせられたあげく、今自分がどこにいるのかさえ見失ってしまった。
私語厳禁が徹底しているのか教育が行き届いていると言うべきか、トランプの兵たちと並んでも遜色ないくらいに背の高いメイドたちは無表情と無言を貫いているし、貫禄を感じこそすれ嫌味はないが、そもそもこの場に立っていることこそが自分の場違いさを意識させられてしまい混乱を助長させている。
居心地の悪さについため息をつかずにいられない。
救いはないことはない。
メイド服を着る機会があると考えたことはなかったが、いかにも家事に従事する女性の着衣らしい実用的かつ機能的なお仕着せは、フリルがふんだんにあしらわれた『向こう』で見たものより格段に地味だったのだ。
黒いスカートは足首まであるし、肌の露出も装飾もごく少ない。
唯一控えめなフリルがあしらわれた白いヘッドドレスは、どんなに深く被ろうとしても他のメイド達と同じようにはならなかったが、髪をきちんと押さえておけるそれが見た目以上に実用的な仕事着であるのは確かだった。
(絶対違うって言うのよ…!)
△
意気込んだ分だけ(どうしてこんなことに…)と沈み込まないではいられない。
メアリー・アンとは、どうやらこの世界のーーーあるいはこの城の中だけかもしれないがーーーメイドの総称であるらしい。
絶対言うのだという意気込みは、一糸まとわぬ女王が湯気の向こうから現れた瞬間に霞と消えた。
バスローブすら羽織っていない。
まさか堂々と裸で現れるとは思わずに、全部吹き飛ばし、ポカンと固まってしまったからだ。
しっとりと吸いついてきそうなミルク色の肌と、それと裏腹に漆で塗ったような濡れ羽色の肘から先。慎ましやかな胸とストンとした細い腰は、しかし咲きかけの蕾を見た時のような、あるいは丁度花開いたばかりのような、幼気だけれど女性性を感じずにはいられない妖しい艶めかしさがあった。
慌ててバスタオルを渡そうとしたが、むしろまったく恥じらいなど感じていない無垢な顔でキョトンとされてしまった。
その背徳的蠱惑的な様にどうしていいのか何を言うべきだったかとオロオロしているうち、またしてもあれよあれよと流されて、ハッと気付いたときには髪を洗う係然としてこの席に座らされていた。
粛々と己の仕事に殉じる彼女たちの一員に組み込まれ、もはや完全に逃げるタイミングを逃したのを悟る。
テキパキと女王の体を清め、静かだが隙のない動作で立ち働く彼女たちを前に気が引けていたが、見透かしたように黄金色の手桶にたっぷり湯を張って差し出されてその眩さにギョッとする。
まさか本物の金だろうかと考えて一寸間気が遠くなりかけたが、すぐにいや考えるまいと意識をそらしてやり過ごし、ふとバカに静かじゃないかと辺りを見回した時には自分と女王と二人きりしかいなかった。
ぎこちない手つきでそこから湯を汲んだ。
ゆったりとした大理石の湯船が誂えられた猫足のバスタブに浸った女王の白いうなじに落ちかかる長い黒髪は、さっとほどかれると黒々としながらも緋色の艶を帯びているのがわかる。
おっかなびっくり指を差し入れ、美容院で受けたのを思い出しながらマッサージするように頭皮を揉みこんで、女はキョロキョロと視線を走らせた。
柔らかな黒髪が水を含んでしっとりと女の肌に張り付く。
なんて非日常的なのだろう。
心地よさ気に伏せられた瞼の先で長い睫毛が陶器のように滑らかな白磁の頬に淡く影を落とす。
沢山のメアリー・アンたちによってたかって化粧が落とされた女王の素顔はややもすればあどけなく、湯に浸っているせいだろう、頬はほんのりと色付き唇の赤みが強くなって可憐でさえあった。
せめて目元だけでもタオルをかけたかったが、「断る」と一言で拒否されてしまったので、顔に雫が跳ねてしまわないか気が気でない。
薔薇の香りのサボンを泡立てて、絹糸のような髪を千切ってしまわないようゆっくりと、この心地よさそうな顔を失望させてしまわないかと気が気でなくてなるだけ丁寧に指を通す。
(ーーーまあ、そうよね)
裸ごときで一々恥ずかしがっているようでは、他人に自分の世話などとても任せられない。
そういえば、なんの時だったか、幼い頃から他人の手で着替えさせられ、おはようからおやすみまで世話を焼かれるのを当たり前として育てられる高貴な方々は照れやら恥じらいなどを感じないとか聞いたことがある。
まゆつばだと苦笑して、たしかまともに取り合わなかった覚えがあるが、もしかしたらあながち間違いというわけでもなかったのだろう。
慣れた手つきと涼しい様子で女王の体を静々と磨いていた数多のメアリー・アンたちは、いつの間にか仕事を終えたらしい。




