プロローグ~六
プロローグ
1984年12月7日 金曜夜
「おい、ナミオ! なんとかしろ!」
真っ赤な顔で怒鳴られた瞬間、中身はからっきしだったが、おれは感じ取っていた。
そうだ。
本能なんてものを感じたのは、あのときが最初で最後だった。なんとかすることができたなら、おれはこの男の最大の信頼を勝ち得る。頭でなく全身でそれを理解し、どうしたらなんとかできるかなんて知りもしなったが、あとは何者かに操られるかのように自然と体が動いていた。
それから先、なにが起きたか、まるで夢のなかの出来事だった。目の前の女が引き起こした事態に始末をつける。その衝動だけに背中を押され、おれは、なんとかすることができた。
完璧に。
そう。
マジに完璧に。
一
シュウさんが生きていたら、いま八十四か。
羽田の国際線出口から到着客でごった返すロビーへと使い古しのスーツケースを転がしながら、黒瀬浪男は、社長の股間にできた血栓がカネのことしか考えたことのない脳みそに飛びこんだあの日からの十五年に思いをはせる。黒ずんだ塊がそのままじっとしてくれていたら、かつてキングと呼ばれたあの男は、いまにいたるまで他人の生き血を吸いあげ、じゃまな連中を蹴散らして火にくべつづけたのだろうか。
たちまち目が覚めたように吐き気に見舞われ、しっかりと首元までボタンをとめたミントブルーのシャツの背がさらに丸まる。
浪男はそのあとを引き継いでがむしゃらに走ってきた。が、幸か不幸か自分のところには気のいい天使も悪魔もやって来ない。七月も終わろうとする土曜のきょうだって、不快指数でいうなら、バンコクなんかよりずっとひどいこの狂った蒸し風呂のような昼下がりの街に、ぞっとするほど無事に舞いもどることができた。
だったらいいかげん決断のときだ。だってそうだろう。麻薬探知犬に念入りに舐め回されたあと、ひまをもてあました薬物捜査官に金目のものでも探られたのか、ファーストクラスなのに最後の最後になってターンテーブルに現れたスーツケースの把手をいつくしむように握りしめ、浪男は自分に言い聞かせる。シュウさんが息をしなくなった年まであと十年しかない。でもおれは十年どころか、もはや一日だって考えたくない。
人生、こんなはずじゃなかったんだから。
いまのキングにしては信じがたい弱気だが、きっかけはある。まだ五十九だから体にガタがきたわけじゃない。でもこのところ頭のなかがぱんぱんに膨れあがっていた。いままでならなんの痛痒も覚えずにこの業界の新参者たちの息の根をとめることができたのに、どういうわけかどこからともなく突きつけられる疑問符がいちいち気になり、はっきり言えば、びくつくようになっていた。
頭から振り払えない一番しつこいやつはこいつだ。
「ちょっとやりすぎじゃないですかね」
面と向かって言われたわけじゃないが、そういう話はすぐに耳に入ってくる。それでもこれまでなら、脳内の不快感自動除去装置、オートマチック・メランコリー・バスターみたいなやつがばっちり機能して記憶の片隅に引っかかるようなこともなかった。もっと言うならそんなことを口走った怖いもの知らずのやつをこの手で見つけだして、やりすぎというのが本当の意味でどういうものなのか、ぬかるんだ地面に顔をこすりつけてたっぷりと味合わせてやったはずだ。
ただ、これだけは言っておくが、浪男はヤクザ、つまり暴力団の関係者なんかじゃない。
背筋をのばし、上までボタンをとめたシャツの襟を直す。
スターを夢見て歌ったり踊ったり。そんなことをしてくれるぴちぴちの男の子や女の子を、彼らをだしにして法外なアガリを手に入れようなんて連中――ちょっと前ならテレビ局の寄生虫たち――に紹介しているだけ。かっこつければエージェント・オフィス、昭和風なら芸能事務所、ありていに言うなら口利き屋だ。だから手が後ろに回るような危ないまねは決してやらない。
たぶん。
それにしてもだ。段差なんてこれっぽっちもないのにリノリウムのすべすべの床でけっつまずき、ダンス教室初日のように足下がよたついてかぶっていた使い古しのストローハットがはらりと落ちそうになる。隣を進むTシャツの女――やけに胸がでかくて昔ならまちがいなくびくんとくるタイプ――をあやうく突き飛ばしそうになって、じろりとにらみつけられる。
やれやれだ
認めるも認めないも、結局決めるのは自分なんだ。潮時、退き際、なんでもいい。こんなこと誰にも相談しちゃいないが、おれの人生だ。シュウさんのころとは時代もちがう。あとはみんなでうまくやってくれ。責任なんてこれっぽっちもないんだし。正直なところ、もうこれ以上、生き馬の目をえぐるどころか脳ミソまで吸い取っちまうこともなかろう。ここから先は余生だ。誰とも交わらず――ゴルフなんてもってのほか――口もきかず、唯一の大切なものだけを守って日々を過ごしてなにが悪い。
午後零時五十二分。
あと一時間ちょっとか。里奈に全財産を譲り、おれは新たな人生に踏みだす。ちょっと遅くなったが、おれたち家族にとってそれが最善の選択だ。あいつだってそれをねがっていたはずだ。
電話が震えた。
ディスプレイに浮かびあがった名前にうんざりする。でも一週間前に頼んだのはこっちだ。
「おつかれさまです。到着されましたか」
ハセガワがいなくなってもう三か月になるのか。なぜかこの場でしみじみとする。あたりまえのように毎日耳にしていたあのざらついた声が妙に懐かしい。あとをまかせたこの若造は、局アナ崩れのように声に艶と張りがあるだけでなく、押しだしも強い。まだ三十代だったか。自分が若いころはあんなふうじゃなかったと信じたいが、シュウさんからすれば似たり寄ったりだったかもしれない。
「荷物をピックアップしたところだ。もう着いたのか」
「いま駐車場にとめたところなんです。すぐにまいりますので。出口を出たところでお待ちください」日本語の使い方にも難がある。待つべき場所を決めるのはこっちなのだから。
「あわてなくていい。こっちの便が早く着いたんだ。べつに急ぎの用もないからな。外のベンチにでも座ってるわ」
「ありがとうございます。とにかく急ぎます」
「すいません」
電話を切るなり声をかけられた。
さっきの胸のでかい女だった。
「京急って……」
「ああ、その先ですよ」ロビーに出たところで足をとめ、浪男は猿でもわかりそうな目の前の案内板を指さす。「一つ下のフロアに改札がありますから」
「モノレールより早く着くんですよね」切羽詰まったように女は訊ねてくる。
「行き先によるでしょうね」
「渋谷なんです。はじめてでして」
「だったら京急で品川に出て山手線に乗り換えるといいですよ。モノレールだと浜松町まで出ないと山手線乗れませんから」
「そのへんが全然わからないんです。田舎者なんで」
「料金もね、京急のほうが絶対的に安い」
「下の階ですね」
「そう、その先をエスカレーターで。ただ、蒲田で品川方面と横浜方面に分かれるから注意しないと。反対方向に乗ったら、三崎のほうまで行ってしまいますから」
「ミサキですか?」
「三浦半島ですよ。わたしはそっちなんです」
「ありがとうございます。たすかりました。田舎者なんですみません」
「いえいえ、わたしも似たようなものですから。お気をつけて」
「はい、そちらもお気をつけて――」
女は浪男のものより大きなスーツケースをごろごろと転がしながら、ずんずんと進んでいく。その後ろ姿を見やりながら浪男は心地よいかすかな疼きを覚える。袖すり合うもというやつかもしれないな。ほんの一瞬の交わりだったが、見知らぬ他人と言葉を交わしたことに浮き立つような気分を感じ取ったのだ。
浪男はそのあとを追うようにロビーに踏みだし、空いているベンチを探す。外のタクシー乗り場に降り注ぐ陽射しはきょうもきつそうだ。まだエアコンのきいたロビーなのに汗ばんでくる。まいったなと思ったとき、チョークで書いた黒板が目の前に現れた。
Café Airport Saturday Special
シェフの厚切りパテ・ド・カンパーニュ 600円
北海道ブルーチーズとマイタケのこんがりキッシュ 600円
千葉・勝浦産メカジキのガーリックバターソテー バジル・ミント風味 1200円
ウインナーと高菜飯 赤だし味噌汁付き 1000円
マウント・デザート 悪魔の誘惑 2000円
うまそうだな。
ざっと目に入ったメニューだけで疲れ果てているはずの脳みその奥が覚醒した。バンコクもマカオも飯のベースは中華で、それなりに満足できた。でもやはりどこかちがう。体の内側を通過し、しっかりと吸収されている感じがしなかった。和食がいいというわけじゃない。洋食でも中華でもいい。日本の食材で日本の料理人が作ったものが世界で一番うまいし、体に染みこんだ。
あいつが来るまでまだ何分かあるだろう。店構えでも見てみようと浪男はエスカレーターに足を乗せた。
二
≪スタンバイ。まもなくだ≫
≪了解≫
≪あとは神のみぞ知る≫
≪ですね。血液検査の疑問が解けることを祈ります≫
≪そこまでいくかな。あの男がなにを語るかしだいだ≫
三
店は二階のフロアの奥だった。
このあたりのゾーンはリニューアルしてからさほどたっていないはずだが、べっとりと塗ったパステルカラーの黄緑色の木枠をはめた窓とその周囲を覆うツタ――もちろん人造物――のせいで、その店だけまるでタイムスリップしたかのように昭和の薫りを漂わせていた。言うなれば下町の街角でひっそりとつづく喫茶店のような雰囲気だ。イミテーションの巻き上げ式の庇の上に掲げた、窓格子とおなじ黄緑色の看板に浮かぶ店名の青いアルファベットが、どことなく郷愁を駆りたてた。
Café Airport
きょうのおすすめメニューをしめすおなじ黒板が、開放された入り口のわきにちょこんと立っている。ロンドンのパブのような飴色の木張りの天井と壁に囲まれたこぢんまりとした店内には、おなじ色合いのカウンター席とテーブル席に客たちがまばらに分かれて腰かけていた。
「いらっしゃいませ」
この手のレストランは出発便の客が使うのがふつうだ。到着便から降りてきたらとっとと家路につくのが空港利用者のマナーだろう。だがどこからともなく声をかけられたときには、浪男は店に足を踏み入れていた。ファーストクラスの昼食をとったのは三時間ほど前だった。そろそろ小腹が空いてきたし、なにより喉が渇いていた。
「お好きな席にどうぞ」
声をかけてきたのは、たっぷりのコーヒーをいれたポットを握りしめて店内を楽しげに歩き回るショートカットのウェイトレスだった。三十代半ばだろうか。清潔そうな印象で、すらりとして黒のベストと臙脂色の短い腰巻きエプロンが似合う。アルバイトが明けたら劇団の舞台稽古に直行しそうな愛らしい目元をしていた。ことによると小劇団の看板女優かもしれない。右手のカウンターの奥では、シェフと思しき若々しい男がせっせと調理に励みながら、ちらりとこちらに誠実そうなまなざしを向け、おなじく「いらっしゃいませ」と柔らかな声をかけてくる。
それに引きこまれるように浪男はスーツケースを転がしながら、小粋なアーバン・スムーズ・ジャズの流れる店内を横断し、ノスタルジックなモノクロ写真を等間隔に飾った左手の壁に沿ったテーブル席に近づいた。幸運にも滑走路を見わたす窓際の席が空いている。ストローハットをスーツケースの把手に引っかけ、まるでベッドに倒れこむように中綿を詰めたオリーブグリーンのカウチに腰を落ち着けた。ここからだと轟音とともにひっきりなしに繰り返される飛行機の発着と真夏の日差しをのみこむ青々とした東京湾がよく見える。壁際にカウチが伸びているが、先客が腰かけているのはずっと離れたテーブルだった。
「ちょっとだけ休んでから行くから」駐車場から早足でやって来る部下に電話を入れる。「エスカレーターの下あたりで待っていてくれ。二階にいる。そうだな、小一時間ぐらいかな」
電話を切ったときには、さっきの娘がメニューをそっと差しだし、注文を書きこむ伝票を胸の小さなふくらみの前に構えて微笑んでいた。
「いらっしゃいませ」
いまの浪男にとっては夢の世界にいざなう魔法の呪文だった。メニューを開き、顎の下をコルセットのように覆う襟に触れながら、最初に目にとまったものを注文する。「生ビール、中ジョッキで」
「プレモルとゴールデン・グース・エールがございますが」
「ゴールデンなんとかってのは?」
「シカゴのエールビールなんです。すこしアルコールが高め、七パーセントほどの濃いめの味で、わりと人気です」
「さっき日本に帰って来たところなんです。だからやっぱり国産がいいかな。プレモルをおねがいできますか」
「かしこまりました」
「あと、そうだな。なにか腹に入れようかと思って。とりあえず……」前菜のページをざっと眺める。「枝豆……いや、こっちにしよう、小エビのフリット」そいつにしたのは、写真では意外とボリュームがあるように見えたし、トリュフ塩がまぶしてあると書いてあるのに五百八十円と手ごろな値段だったからだ。ケチケチする必要なんてないが、モノの値段に浪男は人一倍うるさい。これまでの人生で、そういうのをごまかすやつらが多すぎたからだ。表向きは言うことをきいているようでも、腹のなかではすきあらば一円でも多くかすめ取ろうと狙っている。油断なんてあったもんじゃない。「あとはまた注文しますよ。時間はたっぷりありますから」
「ご出張だったんですか」
「そう見えますか」
「ビジネスマンの方かと」軽やかな声が耳に心地いい。
思わずつぶやいていた。「それもいいかもしれないな。ビジネスといってもいろいろですし」
自分でそう口にしながらふしぎな感覚にとらわれた。イスタンブールあたりで商売をするどこぞの商社マンとか、まるで別人になったような気分だったのだ。それもそうかもしれない。一人でレストランに入って酒を飲むなんて、記憶にあるかぎり一度もなかったからだ。若いころから出張をふくめ、周りには誰かいて、つるんでメシを食い、酒を飲んでは騒いでいた。それがいまの立場になってもずっとつづいていた。それにいまは、テレビ局からプロダクションまで、いやでもこの業界の連中に取り囲まれている。出演者にまつわる“行政”と“調整”の中心に恭しくまつりあげられて満足げに微笑みながら、こっちも強烈に睨みをきかせているのが黒瀬浪男だった。
ほとんどはやつらが接待してくれるから、むげに断るわけにもいかない。そういうのに疲弊して一人になりたいなんて、これまでついぞ感じたことがなかった。よくいるだろ。バーでカッコつけて一人で飲んでるオヤジ。浪男からすれば、あんなの仲間にハブられたみじめな野郎にしか見えなかった。
そんな暮らしがつづいたものだから、いつだって言葉をかわし、メシを食う連中はほぼ顔見知りにかぎられた。逆に言えば、見知らぬ誰かと口をきくのには、抵抗があって億劫だった。初対面の相手に会わねばならないときには、かならず紹介者がいたし、ハセガワたちがそばにいた。自分がそう望んだわけじゃない。べつに取って食おうってわけではないのに、いつのころからかそういうしきたりにされていたのだ。
だからゆったりとした気分で、かわいらしいウェイトレス相手に話をするのがすがすがしかった。あらためて時計を見る。
あと一時間。
そりゃ、軽口も聞けるってもんだ。
「そうだ。山形野菜のスティックももらおうかな。ニンニク味噌ってのが気になるね」
「なんにでも合う万能味噌です」
「よし、じゃあトライしてみよう」
「かしこまりました」お年玉でももらった子どものようにうれしそうにもう一度微笑むと、彼女はカウンターに踵を返す。
その後ろ姿を見ながら浪男は電話をかける。バンコクで会ってきた里奈に。父親が無事に到着したことぐらい伝えておかないと。というか、昨夜かけたというのに、もう声が聞きたくなっている。年を取った証拠だな。
十回ぐらいコールしても出ない。けさ、マカオの空港から搭乗前にかけたときもそうだった。まさか彼氏ができたとか言うんじゃないだろうな。ふいに不安がよぎり、頭に血がのぼりそうになるが、やれやれとかぶりを振る。朝早くから仕事でいまなお忙しい。ただそれだけだろう。
二十五歳になる一人娘の里奈は、バンコクのダウンタウンにあるカフェに勤めている。たしかに目が回るほど忙しい日があるとは聞いていた。でもじっさいは大学院で経営学を学び、新しいフランチャイズのあり方を研究している。ひさしぶりに会いに行ったら、欧米にどう出店するかという夢をさんざん聞かされた。そのための支援なら浪男はいくらでも惜しまないつもりだが、里奈のほうがその手の話は敬遠していた。まるで父親がマフィアの親玉かなにかだと勘ちがいしているようでさびしいかぎりだが、自立心を持つのはいいことだ。自分の若いころを思い起こせば、たしかにいまの娘のように大望野心を抱き、なんとしてもビッグになろうともがいていた。その形がちょっとちがうだけの話である。それに今回の決断は、半分は娘の幸せをねがってのことだが、残り半分は自分自身のためでもある。かぎりある人生をたいせつにゆるやかに生きるには、まずはすべての煩悩の源であるカネを始末することが先決だ。浪男自身がそれを達観しての行動だった。
羽田到着をLINEで知らせ、サングラスの絵文字を打って送信する。待ち受け画面にもどし、しばし幸せそうな里奈の画像に見入る。どこで撮影したかは忘れてしまったが、父親譲りの丸顔はじつに屈託がない。幸か不幸か、容姿に関しては母親からはなに一つ受け継がなかった。それを本人がどう思っているか聞いたことはなかったが、父親としてはこれほど絆を感じさせてくれるものはない。好物のピザをまた食べ過ぎたのか今回、顔の丸みが以前よりちょっとだけ増した気もしたが、旺盛な食欲は健康な証拠だ。へんなダイエットに走るよりずっといい。
スマホを胸ポケットにしまったとき、目の前に黄金に輝く中ジョッキが静かに置かれた。
神の存在を間近に感じるのはこの瞬間だった。誰もがそうだろう。この一杯がたまらない。一気に四分の三ほどまであおり、生きていることをいま一度実感する。
右の視界に伸びるカウチが遮られたのはそのときだった。
「プレモルを中ジョッキで」
席に腰を落ち着けるより先に声がする。
年格好は浪男に似ているが、向こうはふさふさとした銀髪の襟足が散髪してきたばかりのようにきれいに切りそろえられ、ダークスーツに落ち着いた紺のネクタイをしている。これから出張に行くビジネスマンそのもので、すばやく注文を取りに近づいたさっきのウェイトレスも見間違えようがなかった。
見るとはなしに目をやると、黒縁のめがねの奥でちらりとこちらに会釈してきたような気がした。なにげなく視線を滑走路のほうへそらし、浪男はもうひと口、ジョッキをあおる。めがねの男はすぐ隣のテーブルを選んだわけではない。一つ隔てた先のカウチに腰を下ろし、ジャケットを脱いで軽くたたんでわきに置くと、ネクタイを手早く緩める。一連の動きが光の加減で天井までのびる窓にすべて映っていた。スーツケースはない。荷物はパソコンがちょうど入るぐらいのアタッシェケース一つだった。あの年代なら社長とか役員かもしれない。まさか芸能事務所の悪徳代表なんてことはあるまい。アメリカやヨーロッパへ飛んで何億もの商談を手早くまとめて帰ってくる。本物の実業界からは縁遠い浪男からすれば、歯ぎしりするくらいうらやましいホワイト仕事だった。
いや、待て。
そんなステレオタイプな予想なんて当たるわけがない。ここは空港だ。通勤電車の最寄り駅のホームなら、毎日のように顔を合わせる相手だっているからある程度の想像はつく。だが空港は非日常の交差点だ。利用客はふだんとちがう装いで現れ、表情も雰囲気も別人だ。当の自分自身がそれを自覚し、日常に閉ざされた心を開放している。ビジネスマンだってそうにちがいない。たとえ仕事でもこの場所では、ちがう夢を見るはずだ。
そう思いながら浪男は、ゆっくりと視線を店内に向け、サーチライトのように見回してみる。客たちはおおむねいまから搭乗するのだろう。二つの大画面テレビが頭上の壁にはめこまれたカウンター席には「地球の歩き方」をいっしょに眺める中年カップルがひと組。まさにこれから旅立つようだ。一つ置いた隣には水色のソフトジャケットを羽織った禿頭の男が腰かけ、イヤホンをしたまま背を丸めてなにかにがっついている。エコノミークラスの機内食なんてまずくて食っていられないから、いまのうちに腹ごしらえしておこうという勢いだ。
その手前のテーブル席には、まるでアスリートのようながっしりとした肩幅のTシャツの男が片方のテレビに映しだされる大リーグ中継に見入りながらサラダをつついている。まだ二十代だろう。一人旅に不安を抱いているのかもしれない。うしろの席には、やせたインド系の顔だちの男が一人、こちらは到着客かもしれない。バスの時間でも待っているのか、スマホをいじりながらオレンジジュースをすすっている。入り口近くのカウチ席は、隣のビジネスマンの陰になってよく見えないが、白人女性の二人組が食事をしているようだ。これから帰国か。初めて訪れる日本は彼女たちの目にどう映っただろう。
すべて勝手な想像だ。
彼らの日常がいかなるものか推し量りようもない。あの禿げ頭のジャケット男は一時間前に長年連れ添った妻の首を絞めてきたのかもしれないし、Tシャツの男はいまからトイレで自殺を考えている空港警察官だってこともある。カウンターのカップルだって夫婦とはかぎらない。不倫がたがいの家族にバレて行く当てのない逃避行の真っ最中。そうでないと誰が言える?
浪男だっておなじだ。
ウェイトレスにはお世辞でビジネスマンと言ってもらえたが、襟の高い派手なシャツをまとい、ストローハットなんてかぶっているから優雅なオヤジの一人旅と思われるほうがふつうだろう。ボーイズグループの露出量を日夜コントロールし、ポップス界の大御所アーティストたちが稼ぎだす印税を厳しく管理し、調子に乗った新興事務所とキー局の若造プロデューサーにヤキを入れ、さらにそれら一切を年末の協会報告に堂々と載せて同業者たちを威嚇するのを生業とする、戦後芸能界の拭い去りがたい闇の使い魔だとは、よもや思われまい。
そうか。
おれはいま完全に別人になりきっているんだ。だからあんなにも平然とウェイトレス相手に軽口を叩けたのだ。それに気付くと、さらに気持ちが軽くなった。
「ちょっとやりすぎじゃないですかね」
あのとき吐きかけられた言葉なんてもうどうでもいい。いまこのときは本気でそう思うことができた。これはビールの最初の一杯とおなじく、神がほどこした最後の奇跡の一つかもしれない。これまでやってきたこととは異質の万能感が頭に満ちていく。ふーむ。鼻から息を深々と吸い、丸めていた背筋を天井から引っ張られるようにぴんと伸ばして、改めて店内を見回してみる。
なんだか次元が遷移し、おなじだけどべつの場所、パラレルワールドに移行したように感じた。
「やっぱりジョッキが一番ですよね」
あろうことか麻のパンツのポケットに両手を突っこんだまま、浪男自身の口から自然ともれていた。一つ離れたテーブルでプレモルのジョッキをあおったばかりのめがねの男に向かって。さっきウェイトレスと軽やかに話ができたのは、向こうから話しかけられたからだし、そもそも相手は店員だ。口をきかないことにははじまらないし、こっちも抵抗感がない。だからこれは静かな驚愕だった。マンションの隣近所の住人もふくめ、見知らぬ者とは決して口をきいてはならず、無表情、無感情、無愛想を貫くべしという不文律に支配された、この東京文化にどっぷり浸かっていたはずなのに、ただの通りすがりの見ず知らずの男に向かって自分のほうから声をかけるとは!
めがねの男は一瞬、肩をこわばらせたようで、浪男の体内に恐怖の電撃が生じかけた。だがつぎの瞬間には男はこちらに顔を向け、めがねの奥から牧場の子牛のようなやさしげなまなざしを向けてきた。
「この一杯のために生きてるようなものですよ。神の存在を実感できる瞬間です。でも飛行機はプラスチックのコップでしょう。ビジネスクラスだってせいぜいグラスですからね。あれはちょっと――」
言葉より先に浪男はうなずいた。相手の目をしっかりと見て。「わかります。あれはまったく飲んだ気がしない」
「病院でもらったクスリを飲むときの水みたいなものですよ。でもこれはちがう」うれしそうにそう言って男はふたたびぐびぐびとやる。
それにつられて浪男もポケットから手を出し、残りのビールをあおる。「ほんとにうまい、こういうので飲むと」
二つのジョッキは空になった。
「バンコクから乗って来たんですけどね」男は浪男との間のカウチに立てかけたアタッシェケースをぽんと叩く。「ペットボトルの水で口を湿らせる程度でがまんしていたんですよ。バカみたいな話ですけど」
すぐ隣の席だったら、近すぎて抵抗があっただろう。テーブル一つ離れているぶん、適度な間、距離感となって浪男は通い慣れたテニススクールにいるかのように球を自然と打ち返すことができた。
「なるほど。この一杯のためにですか」
ちょうどそこへウェイトレスの彼女がやって来て、ニンニク味噌が皿の端にのる野菜スティックを浪男のテーブルに置く。「お飲み物はどうされますか」
浪男は顔をあげ、条件反射のように口にする。「おなじものをもう一杯」
「じゃあ、わたしも」隣の男が彼女に声をかけ、きれいに爪を切った人差し指を立てる。
「なにか召しあがりますか」隣へと移動しながら彼女が訊ねる。
男はちらりと浪男のほうを見る。「野菜スティックをもらおうかな。それと……」メニューに目を落とし、五秒後に注文する。「小エビのフリットかな」
今度は彼女のほうが浪男に目をやり、片方の口の端を引きあげてから厨房にもどって行く。それをたしかめ、待ちかまえていたかのように浪男は話しだす。
「コップでビールというのは、飛行機でなくてもあまりうまいものじゃないですよ」
「まったくです。注いだらほとんどふた口ぐらいでなくなってしまう。それでまたつがないといけない。やっぱり三口、四口と一気に飲んではじめて喉ごしってものが味わえると思うんです」
「コップだとちょっとさみしい感じがしますね。赤ちょうちんでうらぶれたサラリーマンどうしが瓶ビールをつぎあう光景って、辛気臭くていやなんです。どうせつぐなら瓶ビール一本丸ごと、ジョッキに空けてほしいくらいです」
「そうそう。コップでビールは興ざめだ。昭和そのもので辛気臭い。なんだか背中が丸まってしまいますよ。それにビール瓶なんて、そもそも凶器でしょう。危なくてしょうがない」
たしかにそうだ。古傷の痛みのようにかつての記憶がよみがえる。
四
1984年12月7日
マドンナの「ライク・ア・ヴァージン」にプリンスの「パープル・レイン」、フィル・コリンズが「見つめて欲しい」。どれもみんな、洋楽の懐メロ中の懐メロだが、生みだされたのはどれもあの年、一九八四年だ。たぶん欧米の音楽業界の天才たちがしめし合わせて世界をこの手で変えようと――要するにカネの流れを変えるべく――一気に動きだしたのだろう。そんなこととは露ほども知らぬ東京では、小林克也が軽快に伝えるヒットチャートが街を席巻するまま異様に暑い夏を迎え、同時にのちにバブルと呼ばれた浮かれ狂った世相に彩られながら秋を迎えたが、築二十年の六本木のマンションに日参していたおれにとっては、その年の暮れほど居心地の悪い時期はなかった。
あとでいろんな学者先生たちが分析して、いま起きている事象のたいていの根っこはこの年にはじまっているなんて、こぞって言い立てているし、真夏の天の川みたいにきらきらと輝いて誰の心もうっとりとさせていたのは、たしかにあの年だったかもしれない。でも真冬でも生ゴミ臭い路地裏をネズミみたいに日夜這いずり回る人間が現実にいたことも一方で真実だ。自分がいったいなにをしているのか、なにがしたいのかもわからぬまま、ただ目の前で起きていることに対処し、せめて一日か二日、へまをしでかさずに終えられるなら、それで満足できる暮らしだった。
そのころ、シュウさんはまだ四十代そこそこ。悔しいくらいハンサムなのはもちろん、引き締まってすきのない体は自衛隊上がりみたいだったし、黒いジャガーを駆ってテレビ局の正面玄関につけるさまには、女でなくとも目を見張った。でもいまにして思えば、あれがシュウさんのバブルのピークだったのかもしれないな。割れた爪の先でちょっと押してみただけでパンと弾けちまう。そんな感じだった。おれはそんなまぶしい男に影のように付き従い、見えざる手足となって決して表ざたにできない仕事を黙々とこなしていた。
「ナギサちゃん、ダメだよ!」
毎月第一金曜に行われる定期点検のせいで、その日の午後はエレベーターが動かなかった。おれは外の冷気がそのまま侵入してくるひんやりとした非常階段をすっ転びそうになりながら、シュウさんが買ってやった真っ白い毛皮のコートからロングブーツをのぞかせる彼女のあとを追った。
国有地の払い下げで広大な土地をまんまとものにした大手町の正真正銘の悪徳不動産屋がつい先日、再開発の話をシュウさんに説明しに来た。莫大なうまみを生みだすその土地が、ブリッジランド・エンターテインメントの入るこのマンション――土地もふくめオーナーは土橋修司、つまりシュウさんその人――に隣接しており、こちらと合わせて新たな街づくりの足がかりにしたいようだったのだ。
「この先、二十年のことを考えれば、資産価値はもっとも低く見積もっても倍にはなる計算です」生まれてこの方、これっぽっちもうそをついたことがないと顔に書いてきたかのような、シュウさんと同年代とおぼしき脂ぎった感じの担当者がうやうやしい態度で説明をつづけた。
シュウさんはその手の話が大好きだ。なんでもいいからカネにつながることなら首を突っこみたがる。危ない橋は決して渡らないが、進むべき道はハイエナの嗅覚で見極め、つねに正解を得ていた。だからこのときも、いつものように「すこし考えさせていただけますでしょうか」って仏さまのように不気味に微笑んだだけだったが、頭のなかでは、このうそつき野郎をふくめ、不動産屋のほうを逆に自分の手のなかで転がすにはどうしたらいいか、周到な計算を開始していたはずだ。でもおれからしたら、どんなビルに生まれ変わってくれてもかまわなかった。定期点検なんて無用なしっかりしたエレベーターだけ、ちゃんとつけてくれるのなら。
渚はまるでカモシカだった。
事務所が入る七階まで息を切らせておれが上がったときには、すでにインターホンを廊下に響きわたらせていた。
なかでなにが行われているかおれには手に取るようにわかった。いや、妄想かもしれない。でもすくなくとも、芸能界のキングを引っかけようなんて愚かな段取りをまとめた分厚い計画書を携えた例のてらてらした顔の不動産屋が、広々した応接室で熱弁を振るっている最中でないのはあきらかだ。エレベーターの点検がはじまる直前に圭子さんが上がっていったのは、この目でたしかめている。
岩井圭子はシュウさんより五つ年下だが、ブリッジ系列の事務所の社長を務めている。元は時代劇と二時間ドラマをはしごする女優で、何本か映画に出たこともある。その前は、当時のおれなんかには一生縁がなさそうな赤坂の料亭で、永田町の連中の接待に明け暮れ、シュウさんとの出会いもそれがきっかけだった。
なかで仕事の打ち合わせをしていてもおかしくない。でもそうじゃないことのほうが多い。事務所といっても従業員なんていない。しいて言えばおれがうろちょろしてるぐらいだ。だからそのへんに気を配るのも、おれの大きな仕事だった。
「ダメだよ! ナギサちゃん!」
細っこい腕をむんずとつかもうと手を伸ばしたとき、ドアの錠が開き、同時に尾形渚はなかに飛びこんだ。
血の気がひいた。
もはやおれに選択肢はない。あとにつづいてドアの向こうに滑りこむ。
一つだけほっとしたのは、応接室から玄関に現れた圭子さんが服を着ていたことだ。だがその顔は阿修羅そのものだった。
「よお、ナギサちゃん」
圭子さんの背後からシュウさんがぬっと姿を現す。
この手の不作法をシュウさんはもっとも嫌う。それでも表だっては、満面の笑みをまずは浮かべられるのがこの男の人並み外れたところ、はっきり言えば空恐ろしい一面だった。
「どうした? またなにか困りごとかな……ナミオもいっしょか。まあ、入れよ。気にすることはない」
そう言われるよりも先に渚のほうが、シュウさんたちを押しのけるようにして応接室に入りこみ、口を開く。
「病院なんか行かないから」
純白の毛皮のコートがはらりと肩から抜け落ち、おれはあんぐりと口を開けた。渚は生まれたまんまのきめの細かな背中を冷たい蛍光灯の明かりに輝かせていた。身に着けているのは、これまたシュウさんがくれてやった膝までのメイド・イン・スイスのロングブーツだけだった。彼女の向こう側では、シュウさんと圭子さんが、まるでおれのものまねでもしているかのように呆けた顔をしている。
「行くわけないじゃん。どうしてよ? どうしてそんなところ行かなきゃならないの? わたし、どこもおかしくなんかないから」
シュウさんと圭子さんがさっきまで腰かけていたソファの前には、ガラスの天板を張ったローテーブルがあった。ビール瓶とグラスがのっている。つま先とか膝をぶつけずにこのすき間を歩けなくなったらおしまいだな。日ごろ、自分でそう言いながらひょいひょいと軽やかなステップでテーブルをよけて、奥のキャビネットから酒瓶を取りだしていたシュウさんだったが、このときばかりはゴツンといかにも痛そうな音をあげて一歩、渚のほうへ近づく。
「まあ、落ち着こうか」ひどい痛みのせいもあって、シュウさんの口もとはゆがんでいた。「コートも着たほうがいいね。風邪ひくよ」
それが気に食わないのか、渚はすばやくテーブルのビール瓶をつかみ、シュウさんが膝をしたたか打ちつけたばかりの角のステンレスフレームにまるで悪役レスラーのようにそいつを叩きつけた。
ギザギザの割れ口は凶器以外の何物でもなかった。おれはとっさに背後から飛びかかったが、彼女のほうは、本物のカモシカさながらにたちまちテーブルばかりか、向こう側のソファも乗り越えていた。おれはすねに激痛を覚え、ソファとテーブルの間のすき間につんのめって倒れた。
もうそのときには遅かった。
渚はシュウさんにも圭子さんにも襲いかかりはしなかった。割れたビール瓶を突き立てただけだった。
誰もが愛した黄金に輝くその顔に。
五
二杯目のジョッキは二人同時に運ばれてきた。
意図するでもなく、自然とたがいにジョッキを小さく掲げる。このビジネスマンの仕事はなんだろう。浪男は考え、またしても自分から訊ねてみた。
「バンコクは乗り継ぎですか」
「いえ、向こうで仕事がありましてね。夜中仕事して、あわててスワンナプームまでタクシーを飛ばしました。ぎりぎりで間に合ったんです」
浪男は男のアタッシェケースを指さす。「荷物はそれだけ?」
「スーツケースはさっき宅配で送りました。これからまた仕事なんですよ。けど、ひと息つかせてもらっても罰はあたらないと思いましてね。まあ、たいした仕事でもないし」そこで男は身体検査でもするように浪男の姿を上から下までしげしげと眺める。「すてきなシャツですね」
そんなことを男から褒められたことなどない。頬が赤らむような感じを覚え、浪男は思わず襟元に手をやる。その下に潜んでいた鞭のようなヘビがのそりと寝床を移動する感覚を覚える。暗黒大陸生まれの猛毒蛇。ぞっとして浪男は頭を振る。
「どこに行くにもおなじシャツでしてね。じつはわたしもおとといまでバンコクにいたんですよ」
浪男の口からするすると言葉が滑りだす。本当に別人になったみたいだった。これまでの人生でずっと腹にためていたものが、帳尻合わせみたいにいまになって転がり出てきたのかもしれない。ほんとならここらで自己紹介、というか氏素性を名乗りあうものだろうが、ふと浪男は思った。そんなのは浮世の根拠不明のならわし、というか、互いの警戒心を取っ払うための儀式、いわば犬どうしが尻の臭いを嗅ぎ合ったり、猿どうしが肛門に指を突っこみ合うのとおなじだ。だけど相手がどこの馬の骨か、いちいち気にしてなにになる? それをいちいち気にすることを職業のどまんかなに位置付けて生きてきた男からすれば、百八十度方向転換しての新鮮な感慨だった。
「そのあと、マカオ経由で帰って来ましてね」
「マカオですか。行ったことないなあ。カジノぐらいしかイメージないですね」
浪男だってそうだ。じっさい定宿の五つ星ホテルでひと晩、ポーカーとルーレットに励んできただけなんだし。でもそれなりに儲けてきたなんて話す必要はない。別世界の自分を演出し、それに浸ればいい。ドラマ作りみたいなもんだ。「ちょっとした野暮用がありましてね。それでわたしも深夜便に飛び乗った口です」
「バンコクからなんて中途半端な時間じゃないですか」男はぐいとジョッキをあおり、ちょうど目の前の滑走路から離陸を開始したエアバス機のエンジン音にかき消されぬよう強めの声でつづける。「一杯引っかけて寝ようにもなかなか寝つけないうちにこっちに着いてしまう。だからはなからあきらめて映画を見ていました」
「一睡もせずに?」
「寝られなかったですね。きっと飲んだとしてもおなじだったと思います。頭がさえてしまって……それにそこそこおもしろい映画がありましたから」
「いまは機内映画のラインアップがすごいですからね。昔の作品とかインドとかタイとかの映画までそろってる」
「どこの映画だったかな。ヨーロッパ……スペインとかイタリアとかだったと思います。タイトルも忘れてしまいましたが、なかなか上等なサスペンスだったんですよ」
そこへ小エビのフリットがやって来る。一つ挟んだテーブルにはおなじものと野菜スティックが到着する。
浪男は先に運ばれていた野菜スティックも口にせずに話に熱中していた。もうおなかがペコペコだった。まずはフリットから口に放りこむ。サクサクでトリュフ塩がいい仕事をしている。手が止まらなくなり、しばし沈黙してしまう。
「やっぱりここのはうまいな」男が独り言のように言う。フリットを平らげ、ニンニク味噌をたっぷりつけたニンジンスティックを手にしている。「ときどき来るんですよ。機内食なんて食べた気がしなくてね。それに飛行機の揺れがどうにもダメなんです。あれだけは慣れないですね」
「わたしもです」メニューにさっと目を通しながら浪男も相づちを打つ。「慣れようがないですね」
「トリュフってふしぎですよね」名残惜しそうに皿に残った塩を指先につけ、ひと舐めしてから男が唐突に言う。「ニンニクともちがう強烈な香り。人間の本能に働きかけてくるパンチがある」
「たしかに。独特ですね。なんかこう、体のなかが熱くなる感じだ」
「熱くなって変容していく」
「変容……ですか」
「そう。頭のなか、奥のほうがね。恋人たちにとっては着火剤だし」
「なるほど。そんな感じもしますね」
「もっと言えば、自分でも気付かなかった本性のようなものが表にめくれあがってくる」
「そりゃ、怖いな」かなりおもしろい男かもしれない。仕事柄、男も女もさまざまな人間の才能タレントを見極めてきたから、浪男のこの手の直感はまず外れない。「ぺろりと食べてしまいましたよ」
「本性なんて自分で封じこめているだけなんですね。だから忘れていた感覚がよみがえると言ったほうがいいかもしれない。ここに来るときはいつも頼んでいるんです。なんて言うかな、広い意味で元気を取りもどすためにね」
「そう言われると元気が出てきたような気がしますね。食欲がわいてきましたよ」改めて浪男はメニューに目を落とす。
二人の間に立てかけたアタッシェケースに寄りかかり、男がわずかに身を乗りだして声を潜める。
「殺し屋なんですよ」
耳を疑った。メニューから目をあげ、男の顔をまじまじと見つめる。日本人にしては尖った鷲鼻がいまや目の前にある。
「殺し屋……年老いた、でも伝説の殺し屋」噛んでふくめるように男は繰り返した。
音もなく、でもついにやって来たか。そりゃ、これまで他人から後ろ指を指されることばかりやって来た。それもあって溜めこんだカネを娘に譲って店じまいを決意したのだ。ところが予想よりも早く終わりを迎えるなんて――。
男はアタッシェケース上部の二つの錠前をスライドさせ、自分のほうに向けてケースを開いた。取って返してなかから消音機付きの自動拳銃が出てくるかと、浪男は身構える。ぶざまに転げながらでもいい。なんとしても火線上から逃れないと。だが腰から下にまるで力が入らない。空港の国際線ターミナルに巣食うパステルカラーのオオムカデに足首をさっと咬まれて最悪の神経毒で麻痺してしまったかのようだ。
紺色の皮張りのスケジュール帳だった。男はそれを広げ、高級そうなボールペンを走らせる。
「出先で食べたものとか、テレビで気になった料理とかをこうして記録しているんです。健康管理のためっていうより、いちいち書き残しておかないと、あとでブログとか書くときに困りますからね。だからこの店でいただいたものもちゃんと残しておくわけですよ。それでね……そうだ、これだ」ページを一枚めくり、そこに記されたものを読みあげる。「カオカームーですね。ヨーロッパの男なんですが、無類のタイ料理好きでして。なかでも豚足のトロトロ煮をご飯にかけたやつ、カオカームーに目がない。それが伝説の殺し屋だっていう、なかなかおもしろい設定の映画でしてね。気が付いたら、食い入るように見ていました」
いっぺんに緊張が解けたせいでどんよりとした疲労が背中に広がった。「驚いたな。ほんとに殺し屋なのかと思ったじゃないですか。なりきってる感じだったし」
「わたしがですか? いやいや、わたしはただの商売人ですから。せいぜい映画を見てマネる程度ですよ」
「人に言えないようなことをただの一度もしたことがないとは言いませんけど、殺し屋に狙われるようなことはさすがにありませんから」
浪男の言葉に男はからりとした声で笑った。浪男もおかしかった。というか、なんだか中学の同級生とひさしぶりに会って話しているような、ふしぎな懐かしさと気軽さを覚えた。
「けどね」男はこんどはセロリにニンニク味噌をつけてボリボリとやった。その音がさわやかに店内に響く。「人に言えないようなことをしたことがない人間なんて、この世のなかにいるでしょうか。清廉潔白でいたいものですが、現実にはなかなかそうはいかない。逆にこの年になると、自分のなかのきれいな部分を見つけだすのに苦労しますよ。墓場まで持っていく秘密ばかり増えてしまって」
「わかります。墓のサイズが大きくなるばかりだ。そのうち仁徳天皇陵並みになるんじゃないかな」
「おもしろいですね。まったくその通りです。自分のなかでいろんな過去が抱えきれなくなっている」
「たぶん同年代なんじゃないかな」
「今年、五十九になります」
浪男はぽんとひざを叩きたい気分だった。「昭和四十年生まれですか?」
「そうです。じゃあ、もしかして」
「はい、わたしも。汚れきった五十九歳。四十年生まれです」
「あっという間ですよ」男はちらりとメニューをたしかめてからカウンターにいたウェイトレスに手をあげる。「確たるものをなんにも手にしないうちにこの年になってしまった。なんて言うかな、まさに光陰矢の如し。空虚さだけが頭のなかにもやっと広がっています。こんな愚痴を言ってもはじまらないですけど」
「まったくですよ」浪男は適当に相づちを打った。どう考えても浪男は成功した部類だ。すくなくともカネはたんまりと儲けさせてもらった。だからこの男の頭にあるような空虚さとは縁がない。「最近は一年が本当に早い。地球の公転速度が速くなっているんじゃないかって勘ぐりたくなりますよ。墓場がぐんぐん近づいてくる」
浪男の言葉にうなずきながら、男は近づいてきた彼女に小さく告げる。「パテ・ド・カンパーニュをもらえますかね」
黒板に書いてあったやつだ。浪男もそれを頼んだ。ナルシストになればなるほど、こういうときの注文に逡巡してまわりをいらつかせる。だが浪男はそんなクソみたいな野郎じゃない。自分が墓場に持ちこむものだって、もうとっくに決まっている。
六
1984年12月9日
あのあと、日曜の夜明け前になっておれはジャガーでのろのろと帰宅した。どこをどう通って東京にもどって来たか覚えていない。
灰色の雲が低く垂れこめた凍てつく師走の朝だった。歌舞伎町のキャバレーを辞めてブリッジに勤めるとき、シュウさん名義で借りてもらった中野の安アパート界隈はきりりと冷えこみ、車から降りたときにはぶるっと震えた。遠くで新聞配達のバイクが走り回る音がしている。それ以外に人気はない。濡れて泥だらけになった体をアメ横で買ったロングコートで隠し、急いで一階の奥の部屋に逃げこむようにして入った。誰にも見られちゃいない。
それから取って返して六本木の事務所にもどり、車を地下駐車場に返した。ボディは屋根の上まで泥が跳ね散っていた。ほっとくわけにいかないからざっと水洗いして汚れだけは落とした。
おっかなびっくり事務所に上がっていき、合鍵でドアを開ける。あたりまえだがもぬけの殻だ。いくらシュウさんだってじりじりと朝まで待っているわけがない。急いでジャガーのキーをいつもの壁のフックに引っかけ、踵を返した。事務所の真上が社長の自宅だったが、そこまで上がっていく気はしなかった。ひどいめまいを覚え、立っているのもつらいほどだった。いまはとにかくやるべきことをやって、ぐっすり眠りたかった。
そのまま始発に乗りこみ、朦朧とした頭を抱えてアパートにもどったときには、六時を回っていた。シャワーを浴びる気にもならず、服だけぜんぶ脱いでベッドに倒れこんだ。それでも二時間ぐらいで目が覚めた。
呼び鈴が鳴ったのだ。
のぞき穴の向こうにシュウさんがいた。日光駅の公衆電話から電話を入れてあった。でもそのときは「だいじょうぶです。なんとかなりました」としか伝えていなかった。いったいそれがどういう意味なのか詳しく聞きだそうと、シュウさんはひと晩中、まんじりともせずにいたようだ。でも家にまで来るとは予想もしていなかった。おれははたと頭を巡らせてから、新しいTシャツとトランクスを身に着けて玄関を開けた。
「たいへんだったな」
ハンバーガーとポテトとコーラを詰めた紙袋が差しだされた。社長がここに来るのは、越してきたとき以来だった。漫画本と洗濯物、それに弁当がらとビールの空き缶で足の踏み場もないフローリングの六畳間をすこしだけ片付けて、事務所のお古である二人掛けのソファに座ってもらった。
「おれが若いときとおんなじだ」ぐるりと部屋を見回して口にする。「それにしたってな」
「寝て、洗濯して、風呂入るだけッスから」くたびれた押し入れのふすまを背におれは床にべったりと座りこんだ。
「でもきょうはまだシャワーも浴びてないんだな」足首にこびりついたままセメントのように乾いて黄土色になった泥にシュウさんは気付いた。
「くたくただったもので……連絡しないですみません」
「キーがもどっていたんで帰って来たのかと思ってな」
「キーだけ返しといたんです」
「気をつかわせてしまったな。こっちこそ申し訳ないことをした。なんとかなったみたいだが、やっぱり心配になってな。だいじょうぶか」
「はい、ぐっすり眠りましたから、かなりマシになりました。ええと――」あぐらをかいたまま、めいっぱい背筋を伸ばした。「ちゃんとやりましたから。ご心配なく」
たちまち、ぐうと腹が鳴った。
体は正直だった。死んだように眠ったあとは、すぐにこれだ。おれはビッグマックを二つ、一気にたいらげ、コーラをがぶ飲みした。もちろんその間、ずっとしゃべりつづけた。
「キャンプ場か」ホットコーヒーをすすりながらシュウさんは噛みしめるように言った。「閑散期だろうな」
「誰もいませんでした。小さい湖のほとりです。奥魔夜湖とかいう。けど、もっと奥ですから。ずっと離れています」食えば食うほど、炎が燃え盛るように食欲がわいてくる。フライドポテトをつまみあげる指を抑えることができなかった。
「もう一度行けと言えば、行けるか」
それにはすこし記憶をたどる必要があった。「たぶん……無理だと思います。車で入れる場所じゃなかったんで。だって車で入れたら人が来るってことですから。だからかなり歩きました。キノコ採りのやつらだって来られないような場所。そういうところを探し回りました。それで体力を使いきっちまいました。ただ――」はたと思いだしたものがあった。「お地蔵さん……いや、小さい石の仏壇みたいなやつが……」
「祠か」
「……って言うのかな」おれは押し入れに背中を預けた。ふすまががたりと危うい音を立てる。現金なものだ。腹が満たされたことで、ふたたび強烈な眠気に襲われたのだ。「湖のまわりの道で、車をとめたところの近くにそれがあって、そこから草むらをずっと、ずっと分け入って進んだような気がします。川のほうに向かって。それで……とにかく誰も来られない場所を見つけたんです。そこで……でもやっぱり無理っす、また行けなんて言われても」極度の疲労感とはべつのものが背中にのしかかってくる感じがして、言い訳をするようにそうつぶやくと、薄汚れたふすまを手のひらでそっとなでた。
「わかった。ナミオ、おまえがそう言うんだからそうなんだろう。おれにはわかりようがない。それと、わかってるだろうが、このことは誰にも言うな。いまが一番大事なときだというのは、おまえにも理解できるだろう。あとは時間が解決してくれる」
顔をあげられなかった。その瞬間、なんだかシュウさんがちがう世界の人間、とてつもなく遠い存在に感じられ、空恐ろしくなったからだ。都会のどまんなかに裸で放りだされたみたいだった。
「だいじょうぶっす」いまにも消え入りそうな自分を奮い立たせるようにおれはくりかえし、思いきって顔をあげた。
シュウさんは神さまを信じて疑わない牧師のように微笑んでいた。おれの頬にそっと手を伸ばし、そのまま頭のうしろに回してぐっと自分のほうに抱きかかえた。こんなことをされるのは子どものころ、親にされて以来だった。
「よし、ナミオ、それでいい。いまは自分で思ってる以上に疲れてるはずだ。きょうはどこにも行かずにゆっくり休め。メシもちゃんと食うんだぞ。それであした、ぜんぶ忘れて会社に来てくれ」
「わかりました」
シュウさんは小さくうなずき、コーヒーを飲み干して帰って行った。
もう限界だった。
おれは押し入れのふすまを背にしたまま、滑り落ちるように倒れこんだ。とめどなく涙があふれ、ハンバーガーの包み紙とコーラのカップとポテトの赤い入れ物が新たに追加されたゴミ屋敷のフローリングをみるみる濡らしていく。この先への不安は恐怖に取って代わっていた。ごろりと押し入れのほうを向き、東京に来てはじめて声をあげて泣いた。
十代最後の冬、人並みに都会での成功を夢見ただけなのに、いまは自らの手に押しつけられた理不尽の炎に焼かれる寸前だった。これから先どうすりゃいい。頭のなかに広がる灰色の影は濃くなる一方だ。それでも必死に踏ん張らねばならなかった。心を決めるのは、いまこのときしかない。
アパートを出てすぐのところに公衆電話があった。




