35話
キャンプの焚き火を囲み、ゆっくりとした時間が流れていた。団員たちの笑い声、エマとフランツさんの楽しそうな話し声が、夜の静けさに心地よく響いていた。
だが、そののどかな空気が一変したのは、馬車の轍の音が聞こえた瞬間だった。
庭先に、1台の馬車が止まった。
「……誰だ?」
レオナード様が顔を上げ、エマが目をぱちくりさせる。すぐに騎士団員たちが立ち上がり、それぞれが剣の柄に手をかけた。
「おい、気を抜くな」
レオナード様も立ち上がり、団員たちに静かに命じる。そして、私の前にすっと立つ。その大きな背中が、自然と視界を遮った。
「セシリア様、少し下がってください」
静かに言われ、私は焚き火から距離を置く。心臓がどくどくと早鐘を打つ。
(誰……? こんな時間に……?)
馬車の扉がゆっくりと開かれた。
コトッ、コトッ
黒いブーツが地面に降り立つ。
「おいおい、せっかくの楽しい焚き火だってのに、そんな物騒な目をするなよ」
どこか飄々とした声が響き渡った。その声を聞いて、胸がざわつく。
(この声……)
すぐに顔を上げた。扉の向こうから姿を現したのは、公爵様だった。
「やあ、いい夜だな」
公爵様は馬車の扉を閉め、のんびりとこちらに向かって歩いてくる。見慣れた黒のマントが、ひらりと風に揺れた。
「……公爵様」
レオナード様が眉をひそめる。団員たちは驚きつつも、すぐに剣から手を離した。
「なんだよ、そんな顔をするな」
公爵様はニヤリと笑いながら、私たちが先ほどまで座っていた焚き火の前のベンチに腰を下ろした。
「ほら、お前らも座れよ」
まるで自分の家かのように、堂々と腰をかけ、足を組みながら焚き火を見つめている。その言葉に、私たちは思わず顔を見合わせたが、結局、誰も拒否することはできず、自然と腰を下ろしてしまった。
(まるで、彼が家主みたい……)
焚き火の炎が公爵様の横顔を照らし、彼の鋭い瞳が炎をじっと見据えていた。
(どうして……?)
その問いは、私だけではなく、周囲にいるエマやフランツさん、騎士団員たちも同じだっただろう。
公爵様は、焚き火の炎をしばし見つめ、手をかざして暖を取る仕草をしていた。何かを話すつもりはなさそうだったが、彼が沈黙しているだけで周囲の空気が張り詰めていくのがわかった。
(この場にいる全員が、公爵様の一挙手一投足を見逃すまいとしている……)
騎士団員たちは私たちを囲むようにして警戒を続けている。先ほどまで、団員同士で陽気に話していたはずなのに、今は全員が無言だった。
エマも静かだった。つい先ほどまで、「返してもらったお金で美味しいもの買います!」と嬉しそうにはしゃいでいたエマだったが、今は公爵様の姿を見つめ、普段は明るい彼女も、今は目を泳がせて、そわそわと落ち着かない様子だった。
「さあ、始めるとしようか」
不意に、公爵様が声を出した。その声に、全員の視線が彼に集中する。
「始める……とは?」
レオナード様が先に問いかけた。公爵様は笑みを浮かべ、マントの内側から一通の封筒を取り出した。
「これを君に渡しておこうと思ってな」
封筒は、しっかりと封がされており、上には王家の紋章のハンコが押されていた。見覚えのある印だ。私が手を伸ばすと、公爵様は素直に封筒を私の手に渡してくれた。
「開けてみろ」
その言葉に促され、私は封をゆっくりと開けた。中から出てきたのは、豪華な金の縁取りが施された1枚の紙だった。目を走らせた瞬間、胸の奥が凍りついた。
「……これは、……」
声が震えているのが自分でもわかった。レオナード様が眉をひそめ、私の手元を覗き込んだ。エマとフランツさんも同じように覗き込む。その招待状には、こう書かれていた。
『聖女セシリアは亡くなり、そして奇跡が起き、新たなる聖女が現れた。これからの国の繁栄を祝し、聖女を讃える祝宴を執り行います。
貴族の皆様、同盟国の王たる貴方様にも、ぜひこの素晴らしい機会にお立ち会いいただきたく、心よりお待ち申し上げます。』
文字を読むたびに、心がズキズキと痛んだ。視線を招待状から上げると、公爵様がこちらをじっと見つめていた。彼の表情には嘲笑にも似た笑みが浮かんでいた。
「これが、貴族や同盟国の王たちに送られているものだ」
彼は焚き火の光を見つめながら、まるで他人事のように言った。
「王家の見栄ってやつだな。『奇跡の聖女』とやらを新たに立て、国の権威を示すためのパーティだ。パーティが開催されたことは国民にすぐ伝わるだろう」
「そんなこと……!」
私は強く叫んでいた。
「そんなの、許されてはいけません!この国の人々は、何も知らないまま『新しい聖女』を信じることになるんですよ?」
拳を強く握りしめた。招待状の紙がぐしゃりと音を立てる。
「それに、また『聖女』が道具として扱われる。それを、どうして放っておけるんですか!」
私の言葉に、公爵様は静かに笑った。
「そのために、これを君に渡したのだろう?」
「……!」
「この招待状を渡した理由、わかっているな?」
彼の言葉に、私は一瞬、はっとなった。
「……わかりました」
私は、招待状を握りしめたまま、公爵様を見つめ返した。彼はその顔を見て、満足そうに頷いた。
「良い顔をするようになったな、聖女様」
「……覚悟はできています」
彼の目が、かすかに細まった。その顔はどこか楽しそうにも見えた。
(……彼は、この時を待っていたんだ)
ずっと、ずっと、機会を待っていたのだろう。この国を揺るがすための機会を。
「ついに終わらせる」
公爵様が、星空を見上げながら呟いた。その言葉は、静かだったが、はっきりとした意志が感じられた。
胸がざわつく。彼の意図を完全に掴めない自分が悔しかった。でも、わかる。公爵様のその横顔には、信念があった。
(この人は、恐ろしい人だ)
私は改めてそう感じた。だけど、彼の言葉に嘘はなかった。私と同じ志を持っているのだと、分かったから。
(彼が味方であるのなら……)
心に小さな自信が生まれた。
(私たちには、まだやれることがある)
「レオナード様」
私は彼の方を見つめた。彼は、焚き火を見つめたままだったが、私の声に気づき、ゆっくりとこちらを向き直った。
「……私、やります」
レオナード様は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに小さく笑った。
「はい。お供いたします、セシリア様」
静かな、けれど力強い声だった。
(あの場所に行く――“偽りの聖女”を否定するために)
心の奥に、小さな炎が灯った気がした。それは、ここにいる皆の想いが一つの炎に集まった証のように感じた。
その夜の星空は、まるで祝福するかのように、ひときわ輝いて見えた。
◇
夜の静寂が、部屋の中を優しく包んでいた。
寝室の扉を静かに開けたレオナードは、そっと足音を忍ばせて中に入った。
(よく眠っている……)
ベッドの上には、すやすやと眠るセシリアの姿があった。
毛布に包まれた彼女は、胸の前で小さく手を握りしめていて、ほんの少しだけ眉間にしわを寄せていた。
(……夢を見ているのだろうか? 何かに怯えていなければいいが)
静かに彼女の寝顔を見つめる。
その穏やかな表情に、思わず微笑みがこぼれた。
(戦い続けてきた彼女の顔には、とても見えないな)
昼間はしっかり者で、自分の意見をはっきりと伝える彼女が、今はこんなにも無防備で、無垢な寝顔を見せている。
(無理をしているのだろう)
ここに来てからも、彼女は一度も弱音を吐かなかった。王の支配から逃げ出し、たった一人で自由を掴み取ったというのに、その自由の中でも彼女は周りの人々を気遣い、守ろうとしている。
あの焚き火の前で、彼女が見せた決意の表情が思い出される。
『私と同じように苦しい思いをする人を、生み出してはいけないと思います』
その言葉が、ずっと胸の中に残っていた。
自分のことよりも他人を優先してしまう危なっかしい部分は、昔から変わらない。だが、それが彼女の強さでもある。
彼女は、いつだって他者の痛みに気づき、それを自分の痛みのように受け止めてきた。
(自分の信念を曲げない彼女に、俺は惹かれたのだろうな……)
彼はセシリアの手をそっと取った。彼女の手は小さくて、冷たくなっていた。その手を優しく包むように握り返す。
彼の中で、強い覚悟が生まれていた。




