10話
釣りの帰り道、家の前に佇む男性の姿を見つけたとき、私は思わず足を止めた。夕陽に照らされたそのシルエットはどこか見覚えがあり、近づくにつれてそれが確信に変わる。
「フランツさん……!」
思わず名前を呼ぶと、彼は驚いたように振り返り、そして安堵したように微笑んだ。
「やっと帰ってきた、セシリア様!」
フランツさんは、私が大聖堂を抜け出すときに手を貸してくれた商人だ。その顔を見た途端、私は胸がいっぱいになった。彼がいなければ、今の自由な生活はなかったのだから。
「どうしてここに……?」
「事情は後でお話しします。それより、この男性は……?」
フランツさんの視線が私の隣にいるレオナード様に向かう。その途端、レオナード様の表情が少し険しくなった。
「俺はレオナード・ヴァルハルトだ」
レオナード様が名乗ると、フランツさんの顔色がさっと青ざめた。騎士団長である彼の名は、この国の誰もが知るものだ。聖女捜索の任務を担う存在として広く知られているからだ。
「き、騎士団長……! なぜここに……」
フランツさんの声は震えていた。彼が視線を泳がせながら必死に状況を整理しようとしているのがわかる。レオナード様はその反応を冷静に見つめながら、一歩前に出た。
「俺からも聞きたいことがある。お前はセシリア様を元の場所に戻そうとする者か?」
その問いに、フランツさんの顔に一瞬だけ困惑の色が浮かぶ。しかし、次の瞬間にはそれを振り払うかのように強い声で答えた。
「僕は商人のフランツです!セシリア様を大聖堂に戻すだなんて!何のために私がここへ連れてきたと思ってるんですか!」
その言葉に、場の空気が一気に張り詰めた。フランツさんが自分の口から言った「連れてきた」という言葉が、そのまま彼の罪を示すことになったのだ。
「そうか。つまり、聖女誘拐の罪を自ら認めたということだな」
レオナードの声は低く静かだったが、その中には怒りの色が見え隠れしていた。彼の冷たい視線に、フランツさんは慌てて弁解しようとした。
「ち、違います! 助けたんです! あのままではセシリア様が壊れてしまうと分かっていたから……」
「聖女誘拐。罪の大きさは分かっているだろうな」
レオナードの一言に、フランツさんはぐっと言葉を飲み込んだ。その場を見守っていた私も、緊張のあまり声が出なかった。今の彼は、私に見せてくれていた柔らかい雰囲気は1ミリもなく、戦場で見た騎士団長の顔をしていた。
それでも、私はレオナード様に伝えなければならない。
「待ってください、レオナード様!フランツさんのおかげで、私はここに来られたんです」
レオナード様の厳しい態度に耐えかねた私は、フランツさんを庇うように言葉を続けた。
「彼のおかげで、大聖堂から抜け出せたんです。もしフランツさんがいなければ、私は今でもあの場所で……」
言葉に詰まりながらも訴える私に、レオナードは静かに息をついた。そしてフランツさんをじっと見つめると、少しだけ表情を緩めた。
「……俺も黙っておくから、お前も黙っていろ。それでいいな?」
その言葉に、フランツさんは何度も頷いた。
「は、はい。もちろんです」
緊張が少し緩んだところで、フランツさんはようやく本題に入ろうとした。レオナード様はため息を付き、腕を組みフランツさんの言葉を一緒に待っている様だ。
「実は、セシリア様の元婚約者である王子が情報ギルドと接触したという情報を手に入れました」
その言葉に、今度はレオナードが眉をひそめた。
「あのギルドは貴族や王族からの依頼を受ける事はほとんど無いらしいですが…。仕事は非常に手荒いと有名で、しかも、彼らは聖女の居場所を突き止めるだけでなく、場合によっては……」
フランツさんは言葉を濁したが、その意味は十分に伝わった。私の背筋に冷たいものが走る。
「騎士団が聖女を見つけ出せないことで、貴族たちの間では騎士団の評判が落ちているという話もあります……」
「気にする必要はない」
フランツさんが顔色をうかがいながらした発言もレオナード様はきっぱりと言い放った。その声には揺るぎない自信がある様だった。
「だが、情報ギルドが動いているとなれば警戒は必要だ。助言には感謝する」
「いえ、セシリア様が無事ならそれでいいんです。ただ……くれぐれもお気をつけて」
フランツさんがそう言って頭を下げると、レオナードは短く頷いた。緊迫した空気が少し和らぐと、私は場の雰囲気を無理矢理にでも変えようと、できる限りにこやかに言った。
「せっかくですし、釣った魚で夕食をいただけませんか?」
レオナード様も口元に微笑みを浮かべた。食卓を囲み、私は釣った魚を使った料理を振る舞った。食事の最中、レオナード様が不意に口を開いた。
「俺は今、セシリア様に求婚中なんだ」
その言葉に、フランツさんは驚きながらもどこか苦笑していた。そして、小さな声で呟いた。
「……なるほど。だから、こんなに必死なんですね」
フランツさんの言葉に、私は顔を赤らめながら視線をそらした。
フランツさんはレオナード様が私を捕らえないと分かると、今までの経緯や情報などを説明した。
レオナード様も先ほどの警戒していた様子から一変し、フランツさんの話を真剣に聞いている。
こうして、なんとか打ち解ける事に成功し、食卓の時間が過ぎていったが、情報ギルドという不穏な影が、心の隅に重くのしかかっていた。
◇
「ようやく動いてくれるところが見つかったか」
俺は従者からの報告を聞き、酒を片手に深いため息をついた。
「情報ギルドも案外、役立たずばかりだな。最初の三つなんて、理由が『過去に聖女に助けられた恩がある』だと? 笑わせるな」
怒りを込めてグラスを机に叩きつける。その衝撃で酒が少しだけこぼれたが、構いやしない。従者は静かに目を伏せながら続けた。
「四つ目のギルドがようやく依頼を引き受けました。かなり高額の報酬を提示することで、何とか納得させましたが……」
「ふん、金で動くのが情報屋の本分だろう。時間を無駄にしやがって」
俺は苛立ちを隠せなかった。ここまで聖女探索が難航するとは思ってもみなかった。全てはセシリアのせいだ。 まったく、どこまでも手間のかかる奴だ。
「それにしても……国民から聖女がこれほどまでに慕われているとはな」
ギルドが口を揃えて聖女探索を嫌がった理由のひとつがそれだった。聖女を助けるどころか、追い詰める手伝いをしたなどと噂が立てば、信用を失うと。どいつもこいつも腰抜けどもが。
俺は苦々しく笑いながら、新しい婚約者であるクラリスとの未来を思い描いた。早くセシリアの問題を片付けなければ、彼女との結婚話が進められない。彼女の父親からは既に、回りくどい言い方で催促が来ているのだ。
「本当に厄介な女だよ、セシリア・エラフィーナ」
酒を一気に飲み干し、乱暴にグラスを置いた。
「見つけ次第、国へ連れ戻せ。あいつの処遇なんてどうでもいいが……せっかくだ。俺の愛人にでもしてやるか」
微かに笑いを浮かべながら、俺は立ち上がった。聖女を失ったことで焦る貴族に苛立つ父、そして俺を取り巻く状況が悪化する一方だ。
だが、全てはすぐに解決する。情報ギルドが動き始めた以上、奴らの手腕で聖女の居場所は時間の問題だろう。
窓の外を見つめながら、夜の静寂に耳を傾けた。その静けさが、次に起こる嵐の前触れであるかのように思えたが、俺は気にもしなかった。
「さあ、セシリア。お前を見つけたとき、どんな顔を見せてくれるか、楽しみにしているぞ」
俺の目に浮かんだのは、彼女の戸惑いと絶望の表情だった。




