第一話
第一話は短編と同じ内容です。
忍び込んでくる足音すらなく、御簾の奥へすっと紛れ込んできた気配。拒もうとしても、その高貴で香しい薫物に心がすくんでしまう。
「お戯れを……」
葵はすかさず扇をばさりと開き、そっぽを向いて顔を背けた。拒もうとするその指先が、わずかに震えている。
「戯れているのはあの方のほうだ。ろくにあなたのもとへも寄らず、自分は好き勝手に未亡人へとご執心。あなたの……そのつれない様子は、私の目にはただお可愛らしく映る」
葵は頬を真っ赤にして、顔を扇の下に隠した。
「お願いですから……もういらっしゃらないで。御身が心配でなりません……春の宮様」
切なげに紡がれたその名に、一瞬の静寂が落ちる。
衣擦れの音がして、去られたのかと葵がそっと胸を撫で下ろした瞬間。
「……っ!?」
御簾の脇から伸びた手が、葵の長い髪を一束掬い上げ……大切な宝物を扱うように口を寄せる。
「また、参る。あの蕾が花開く頃に」
◇
あちらこちらを渡り歩くあの人が、気まぐれに邸に現れた。どうしても素直になれない私と、相容れないあの人。
何かが噛み合わないまま、肌だけ交わされる時間。その僅かな時間さえ、他の女の薫物の残り香がする忌々しさ。どれもこれもが、私を苛む。
いっそ儚くなってしまえばいい。そんな風に思いながら、いつしか眠っていた。
御簾の隙間から柔らかな日差しが差し込む中、書をめくる静かな音が聞こえる。
ゆっくりと目が覚めると、そこに佇むあなたがいた。
「起こしてしまったか。すまぬ」
どこまでも優しく……穏やかな表情に、ほっと気が緩む。
夢。素敵な夢を見ているのだろうか。
ふと下を見ると、自分の乱れた寝起き姿に気付き、解けた衣を慌てて手繰り寄せた。その様子を微笑ましく見守っていた彼が、上から衣を優しくかけてくれて包み込んでくれる。
「己が身をご自愛せよ」
そう言って頭を撫でてくれる心地よさに、ぽろぽろと涙が溢れてくる。触れた衣の裾を思わずきゅっと掴むと、その上から大きくて温かい手がそっと重なった。
「……参ると言ったであろう?」
耳元で優しく囁かれた声に、心が溶けていく。私は彼の手の温かさを確かめるように、静かに握り返した。
◇
あの温かな昼下がりから数日。再び訪れたあの人は、口先だけの愛を囁いて、また別の女のもとへ去っていった。
冷え切った寝所でひとり、己の浅ましさを恥じて身を縮めていたその時。忍び足もなく、静かに御簾が上がった。
「……は、春の宮様……?」
驚く私に、彼は昼間のあの優しい表情ではなく、胸を焦がすような切ない眼差しで歩み寄ってくる──。
ふわりと、あの心地よい薫物の香りに包まれた瞬間に引き寄せられ、力強く抱きしめられた。
嫌な残り香など、すべてを拭い去るように。
「あなたは何も恥じることはない。昨晩妻としての役目を果たし……静かに御簾の内に休むあなたを、呼びに来るものなどおるまい。……あなたは愛らしい。悲しい言葉に耳を傾けずともよい。己が葉陰の蕾を咲かせよう」
重なる唇。そっと重ねられた体温。あの人の去った冷たい部屋に、あなたの温かな薫物の香りと、密やかな愛の熱が満ちていく。
光り輝くあの人の陰で、誰にも知られることなく、静かに、けれど確かに開かれていく心と花──。
その後も二人の秘密の逢瀬は、夜の闇に守られながら幾度となく繰り返されたという。二人のあいだに、ひそやかに芽吹く『新たな命』の奇跡を、まだ誰も知らない。
続きを書いてみることにしました。




