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「うちの高校って昔っから自由だったんだな」


息子が感心したように言った。校風もあまり厳しくなくて、かなりなことに寛容だったとおもう。髪を染めるのは駄目だったけど、髪型のことにはそんなにうるさくはなかった。というよりも、何においても自己責任を求められる校風だったと思う。


「今となってはいい思い出ですね」


夫が写真を目を細めて見ていた。そして手を伸ばすとページをめくった。


次のページは卒業式の写真。友人達と泣き笑いの顔で写っていた。前の日のこともあり私は友達と抱き合って泣いてしまった。


それから夫の本命大学の受験。この時は夫を見送りに駅まで行った。私の短大受験は2月の内に終わっていた。もちろん合格して入学手続きは終わっていたの。夫も私学のほうは2校とも合格していて、私が通う短大に近い方の大学に仮の手続きは済んでいた。


受験から約1週間後、合格発表を見に夫と一緒に行った。もちろん夫は合格していた。そのあと大学に近い不動産屋で待っていた母たちと合流して、私達が済む部屋を見に行った。不動産屋の人は私達が一緒に住むと聞いて笑顔が引きつっていた。同棲を推奨する家族なんだと思われたようだ。それが入居の手続きの名前で夫婦(卒業式の次の日に入籍しました)だとわかり、そこから満面の笑みへと変わっていった。


ページをめくると花嫁衣装に身を包んだ私の写真が出てきた。


「うわ~」


陽菜がキラキラした目で見入っていた。


部屋も決まり引っ越しの準備をしているうちに、あっという間に日は過ぎて結婚式の当日になった。私と夫は朝早くから結婚式場に行って着物を着付けてもらった。そして一度家へと戻り近所に挨拶周りをした。


写真には友人達もいっぱい写っていた。小中学校の友達はもちろん、高校の友人達もわざわざ来てくれたのだ。


うちの辺りの風習で結婚式の当日に新婚夫婦は衣裳に身を包んで挨拶周りをするの。息子達の時にはもうやらなかったから、その風習も廃れてしまったわね。それを同じ中学から高校に行った子が、皆に連絡網で流したそうだ。


歩いていて皆の姿を見て泣き出した私に、介添えの叔母が泣くと綺麗な姿を見てもらえなくなると叱咤してくれた。それがなかったら、お化粧が崩れた酷い状態を皆に見せていたことだろう。


結婚式と披露宴が無事に終わり、その日私達はホテルに泊まることになった。これは両家の親からのプレゼントだった。すぐに大学に行くために家を離れるので、夫と話しあって新婚旅行には行かないことにした。だからその代わりだと言われたのだ。


翌日家に戻りその3日後、私達は家を離れたのでした。


大学生活は二人ということで心強かった。家事なども二人で分担して、無理をしないを合言葉にお互い支え合って生活をしていった。


夫は大学では野球をやらなかった。高校の3年間で悔いは残らなかったと言っていた。


この年(昭和61年)の夏、体調を崩していた祖母が夏休みで戻る私達を、待っていたかのように亡くなった。

帰ってきた私達とにこやかに会話した祖母は入院をしていなかった。

病院のベッドみたいに頭の方を半分持ち上げることが出来るベッドに横になっていた。最近はベッドの所に食事を運ぶことが多かったのに、この日は皆と一緒に食卓を囲んだのだった。

それが翌朝、起こしに行った時にはもう冷たくなっていた。でも、その顔はとても満足そうに微笑んでいたのでした。


それから私の短大生活はあっという間に過ぎ、卒業を迎えた。


私は就職をするつもりだったのだけど、夫にも親にも反対をされて、短大に入学した時から始めたバイトを続けることになった。バイト先は夫も一緒だった。喫茶店のウエイトレスだ。私が入るのは土日が多かったけど、短大を出てからは平日の午前10時から午後4時までになった。だけど、それほど経たないうちにバイトを辞めることになってしまったのだ。


理由は妊娠が判ったから。つわりのせいで食べ物の匂いが鼻について、気持ち悪くなってしまって仕事にならなくなったのだ。


それにしても、もしかして母同様、私も妊娠しやすい体質なのかと思ったのは内緒だ。短大の2年間、夫とそういう行為がなかったわけではなかった。だけど、私が短大を卒業したいと判っていた夫は避妊に協力してくれたのだ。


つわりは秋になる頃には落ち着いた。家族や夫は家に戻れと言ったけど、私は夫のそばにいたくていうことを聞かなかった。結局9カ月まで夫のそばで過ごした。私の予定日は1月の15日だった。早めの冬休みにした夫と家に戻ったのは12月20日のことだった。


この頃、昭和天皇が病に伏し危ない状態が続いていると連日のニュースで言っていた。


私に陣痛の兆候が来たのは年が明けて数日たった1月6日の早朝だった。お腹が痛くなり、しばらくすると収まった。それが最初は1時間に1回くらい。そのうちにだんだん間隔が短くなってきた。


こちらに戻ってからかかった産婦人科医院に連絡をした。初産ということもあり、15分間隔になったら来てくださいと言われて、時計と睨めっこしながら陣痛をやり過ごしていた。


間隔が15分になり医院へと向かった。診察でまだかかると言われて、夫はオロオロとしていた。流石に私の母も夫の母も落ち着いたものだった。二人は交代で付き添うと言って、まずは私の母が一度家に戻った。


私の母が戻ってくると夫の母が家へと帰って行った。母はおにぎりとお茶を持ってきてくれた。陣痛の合間に少しおにぎりを食べた。


結局出産をしたのは日が変わった1月7日の4時48分だった。夫も母も一睡もしないで付き添ってくれたけど、出産の時には分娩室の外で待っていたのでした。


産まれたのは男の子だった。部屋に移り疲れからひと眠りして目が覚めたら、丁度夫も目を覚ましたところだった。私が入った部屋は個室だった。隅には応接セットがあり、そこのソファーで眠っていたのだ。私の母は家へと戻っていた。代わりに夫の母が来ていた。


私が目を覚ましたことで、息子を看護師さんが連れてきてくれた。出産直後にも見たけど、小っちゃくてシワシワだ。息子を抱いたら喜びがジワジワと湧いてきた。


「久美子、ありがとう」


夫が私の肩を抱くようにして息子を見ながらそう言ってくれた。


父が母と妹達と共に現れて写真を撮ってくれた。


それが私の2冊目のアルバムの最後の写真だ。

このあと、夕方のニュース(この時までテレビはつけなかった)で、昭和天皇が崩御されたと知った。それと共に新しい年号の『平成』を知った。


この時息子を抱きながら、昭和最後の日に生まれた息子はこれから平成の世をどんなふうに過ごすのだろうと思ったことを思い出した。


「あーあ、終わっちゃった」


アルバムを閉じた陽菜がつまらなそうにいった。


「陽菜、この後は浩介のアルバムに続いているんだよ」


夫にそう言われて、陽菜は満面の笑みを浮かべた。


「じゃあ、私持ってくる~」

「待ちなさい、陽菜」


陽菜が席を立って居間を出て行った。それを息子が追いかけていった。


「あら~、まだ見る気なのね、陽菜は」

「何と言っても『我が家誌』ですからね」


朱美さんの言葉に夫がそう言って笑った。


そう、これからも『我が家誌』は増えていくことだろう。息子から孫へと受け継がれながら。


― 完 ―


ここまでお読みいただきありがとうございました。

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