8章 再出発―――六百七十五年・十月四日(三)
下宿先、アパート・デ・ソラ。その二百一号室に戻った僕はまずキッチンの冷蔵庫を開け、残っていた牛乳パックをガブ飲みした。
―――悪いハイネ。冷蔵庫の牛乳、今日が賞味期限なのすっかり忘れてた。適当に飲んどいてくれ。
昨夜外出先から電話を掛けてきた、アラン先生の最後の頼みだ。叶えない訳には……そうだ、確かもう一つ、
―――俺にもしもの事があったら、部屋にある金庫の物を持って“黄の星”の政府館、エルシェンカって人の所へ―――いや、悪い……番号は『六六〇〇三〇七』だ。出来れば誰にも……親父達にも秘密で頼む。
この部屋の真上に住む、先生の実の両親にさえ内緒とは一体……?
(あ、もしかして中身はあれか?)
半月前、アラン先生宛に小さな小包が届いた。先に帰宅した僕が受け取り、リビングで手渡したのを覚えている。宛名を見て彼は酷く驚き、無言のまま急いで自室へ引き篭もった。一時間で出てはきたが、その夜は最近ただでさえ浮かなかった顔を一層深刻にしていた。
(まさか……あれのせいで、先生はあんな事に……?)
―――アラン先生。今何処にいるんですか?
ここ一ヶ月、彼はしばしば下校後何処かへ立ち寄り、深夜帯に帰宅していた。翌朝、何をしていたのかと訊いても答えは無し。寝不足気味でパンと牛乳を胃に詰め込む姿が、まだ瞼に残っている。
―――……フーッ……キューの所だよ。
普段吸わない煙草の煙を吐き出し、電話の向こうで彼は静かに答えた。
―――先生のアパートに、ですか?どうして、
―――心配すんな。いるのは部屋の外の階段の踊り場だ。―――悪かったな、そろそろ切るぞ。
今思えば、昨夜の先生は常より大分緊張した声だった。まるで、自らに迫る危機を察知していたかのように……。
半分程残っていたパックをようやく空にし、畳んでゴミ箱に捨てた。あんな陰惨な殺人現場を目撃した直後なのに、よく暢気に全部飲めたな僕。意外と図太い神経している。
小父さん達は恐らく今日一日事情聴取だろう。学校も現役教師が一人殺され、一人が行方不明なのだ。臨時休校に違いない。アラン先生の遺言を果たすなら、支障は特に……待てよ。
「ミーコ!?そうだ。もしかしたら、キュー先生は彼女の所かもしれない!!」どうして今まで気付かなかったんだ!?
僕は慌てて自室へ向かう。外出用鞄に買い置きの猫缶一つと財布を放り込み、アパートを飛び出す。目的地は僕等の通う学校、ラブレ中央学園だ。
徒歩で目的地を目指す間、何台ものパトカーとすれ違う。反対側から来た散歩中の男性に何があったか訊かれたが、さあ?と白を切った。
ほぼ毎日潜る学園の巨大な正門は、予想通り固く閉ざされていた。薔薇の蔦をイメージした鉄扉は、上部が鋭い針になっていてとても登れそうにない。塀も高さ四メートル近くあり、一人で乗り越えるのはほぼ不可能。この分だと裏口も閉まっていそうだが、一応調べに回るか。その考えた時だった。