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「待てって!」
腕を掴まれたままずんずんと強引に歩を進める檜山に、佐伯は次第に腹が立ってきた。強く声をあげると、返事の代わりに歩みが止まる。腕を解放してもらえたので、佐伯はそこを摩る。
「説明しろ」
檜山の硬質な声が鼓膜を震わせる。
「なんであいつと一緒にいる? しかもラブホ街で」
視線を合わせて佐伯が返した。
「それはこっちのセリフだよ。なんで君がここにいるんだ? 突然すぎるだろ。それにあの女性は……ああもう、どこから問いただすべきかわからない」
頭を抱えようとしたが、周囲の視線は否応なく彼らに突き刺さる。ここで話し続けるのは得策ではない。
動いたのはまたも檜山だ。迷うことなく手近なホテルに入った。佐伯は驚いて止めようと追いかけたが、ロビーに留まろうにも他の客の視線があっていかんともしがたく、結果として適当な部屋に入ることになってしまった。ここで言う「適当」は「投げやり、おざなり、無責任」の意味だ。
2人して黙したまま部屋に上がり、佐伯はベッド脇のテーブルの横に立ち、檜山なベッドの端に腰を下ろした。その距離2メートル。
口火を切ったのは檜山だった。
「まずは俺からな」
「駄目だ」
すぐさま佐伯から待ったがかかる。檜山は不服そうに佐伯を見上げた。
「なんで」
「俺も君に聞きたいことだらけだからだよ」
檜山はため息をついて、ならばと佐伯を促す。
「──じゃあ訊けよ」
顔を歪めた檜山の合図で、佐伯は口を開く。
「あの人、誰」
あの人、とは他でもない、ホテル街を檜山と一緒にいたあの女性だ。檜山は「あー」と思い返した。あのあと彼女はどうしたのか、心が少し痛む。
「会社の同僚だよ。旦那が浮気してるかもしれないから、尾行を手伝ってくれって頼まれた。専門の業者に頼めよって指摘はナシな。俺もそう言った。もう弁護士に相談済みなんだってさ。あとは証拠を揃えるだけでいいって言うんで、カップルの振りしてあそこに行っただけだ」
「じゃあその人の尾行してたところを放り出したってこと?」
「まぁ、そうなるな」
佐伯はなぜかこれについて詰め出した。
「それはそれで駄目じゃないか。最悪奥さんの尾行がバレて浮気が暴けなくなる。無責任だよ」
もっともなので檜山はぐうの音も出ないのだ。
「今さら戻れないだろ。ていうか、佐伯が来るなんて知ってたら引き受けなかった。しかもあの野郎と」
「五十嵐先生にそんな言い方……」
佐伯の呟く抵抗に檜山がギッと睨み付ける。
「じゃああの五十嵐先生とお前は、あそこで何をしようとやってきたんだ?」
「……君には関係ないでしょ」
佐伯が顔を背ける。檜山は面白くなさそうに嗤った。
「まぁな。お前がどこで誰にケツ貸そうが、俺には関係ない」
佐伯は心臓のあたりがチクリと痛むのを感じた。
「……だったら、俺のすることにいちいち口を挟まないでくれよ」
檜山がすっくと立ち上がり、佐伯に近付いていく。2メートルの隔たりはすぐに埋まった。佐伯よりも頭1つ分背が高い檜山。彼に見下ろされて、しかし佐伯は睨み返した。
「これっきりだって言ってたんじゃないのか? あの野郎に1度だけって。もう、しないんじゃなかったのかよ」
「決めつけて諦めるなって言ったのは檜山でしょ? 俺は君の勧めに従っただけだよ。何か文句がある?」
「……」
檜山は顔をこわばらせる。佐伯は構わず言った。
「俺は君にどんな感情もない。なくした。なのに君はずっと俺を縛り付けてる……俺を自由にさせてくれないのはなぜなんだ?」
彼の言葉が、最後は独り言のように垂れ流される。檜山は意外な問いに呆然と彼を見下ろした。
「縛るなんて、そんなことしてない」
佐伯は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「してるんだよ。君が気付いてないだけなんだ。……なぁ檜山。俺に可能性を求めるならさ、俺のすることに何も言うなよ。俺を縛るの、もうやめてくれない?」
「だから、縛ってなんか」
「だったらどうして離してくれないんだ? あの日から今までずっとだ。俺はたしかに答えを求めなかった。だけど嫌ならハッキリと拒絶すべきだった。それなのにどうしてノーとすら言わなかったんだ? 冗談言うなよ、とか、罰ゲームかよ、とかさ。言い様は他にもあっただろ? 俺に遠慮することなんてかけらもないはずなのに、どうして?」
佐伯は顔を歪ませながら、黙ったままの檜山の脇をすり抜けて背を向けた。
「……なるほど。また『言わなきゃよかった』って後悔させたいからってのもあるか。ずっと俺に後悔させ続けたいんだな」
「佐伯」
違うのだと続けたいのに言葉が続かない。そんな檜山自身が恨めしい。
「何が君の気に障る? そもそも俺があんなことを言ったからか? 盗聴されてそれをバラされたから? ……俺にはもうわからないんだ、教えてくれよ、なぁ……!」
「佐伯」
最後は縋るように、佐伯は自分の体を抱いた。
「もう10年だよ? 10年ずっと、君は俺から離れてくれない。俺が必死に火消しに回っても、君から振ってもくれないから全然意味がない!」
佐伯は諦めたように頭を振った。
「俺のことは今さらどうだっていいよ。なんでだ? 今になって現れて、君は俺に何がしたいの?」
「……」
佐伯は笑った。諦めを滲ませた声で言う。
「──やっぱり、変わってないんだな。俺も、君も」
「佐伯」
「やらなきゃよかった。あのサイン会だけで終わっておけばよかった。懐かしがって話をしなきゃよかった。こんな感情、未練がましく持たなきゃよかった!」
慟哭する佐伯の背中に、檜山がぶつかった。
「……っ」
檜山は何も考えられなかった。いや、少し違う。檜山には佐伯のことしか考えられなかった。体を硬直させる佐伯を、檜山はグッと抱き締める。
何せ、未練がましいのは檜山も同じだったからだ。そう明確に認めたのが、ホテルのネオンに照らされた佐伯の顔を見た途端だった。
悔しいが、むしろ檜山こそ、未練たらたらの女々しい奴だった。あの日をずっと引きずって、碌な付き合いもできずにいた。数えるほどしかいないものの歴代の女性のすることを、すべてありし日の佐伯の動きになぞらえた。あいつならこの時どうするか。どう言うのか──と。
「10年振りだなんて、本当は思ってない。あれから10年ずっと、お前を忘れたことなんてない。ずっと後悔してた。実際、俺がどう思われようと気にしないんだよ。でもお前は自分がすべてに厭われても、俺の立場を案じてくれた。俺にはその時それが途轍もなく情けなくて、自分はお前の気持ちに応える器じゃないって思った」
「檜山……」
佐伯の肩に檜山の顔が埋まる。
「わかってる。黙ってるんじゃなかった。あの時ちゃんと答えるべきだった。イエスでもノーでも、お前はちゃんとわかってくれる。後悔はしないって。……でも、俺には度胸がなかった。悔やんでも悔やみきれないまま、今になった。……馬鹿な野郎だよ。図体だけデカくなって、心臓はガキん時のまま、ケツの穴みたいに小さい野郎だ」
佐伯がプッと吹き出した。今ここでその例えを出してきたのがツボに入ったらしい。
「笑うなよ」
「ふふ、ごめん」
佐伯がポツリと訊ねる。
「後悔、してたんだ?」
「そうだよ。諦めるなって言ったのは、あの時答えなかった代わりにと思ってた」
「全然伝わってなかったし」
「それは……本当に悪かった」
バツの悪そうな声が佐伯の耳元をくすぐる。
檜山は不意に佐伯から離れ、佐伯の体を半回転──檜山の正面に向けた。
「なぁ。キス、していいか?」
檜山の真剣な声に、キョトンとして佐伯は聞き返す。
「……いいの? 後悔しない?」
「して後悔は、絶対にない」
真剣な檜山の眼差しに、佐伯はしばし目を閉じ、そして答えた。
「……信じる」
※
檜山が佐伯から告白された時、檜山は内心恥入り、両思いであることを喜んだ。
しかし檜山の理性は頑なで、「男なのに男が好き? 変態かよ」と嘲笑うのだ。
檜山は結局理性──いや社会の鎖に負けたのだった。
佐伯から「詫びに」ともらったひと口チョコレート。
賞味期限が切れ、1年が過ぎ、今も1人暮らしの自宅冷蔵庫の中でひっそりと冷やされている。
それが、10年越しの答えのように。
いや、やっぱり言葉で伝えないとな。
──俺も佐伯が好きだよ。
終わり




