聖女と守護獣
まさか、自分の間抜けでおっちょこちょいな頼りないトカゲのトッキーが、ドラゴンだったなんて。
私は衝撃の事実に、眩暈がしそうだった。
冬眠の間に生えたらしき稲妻型の小さな二本のツノを近づけられ、頬擦りをしてくるドラゴンに、私は完全に固まってしまった。王太子はトッキーに手を伸ばして首筋を撫でながら、苦笑している。
「ここのところ、呼んでも全然姿を現わさないと思っていたら。成獣になったのか。まさかお前がドラゴンだったとはな」
「ありえん! 持たざる者が、伝説級の守護獣など持つはずがない」
聖王がそう言うのと同時に、彼の守護獣が怒りに目を血走らせて長い身を素早くくねらせ、トッキーに向かっていった。銀の大蛇がトッキーをしめ殺そうとするかのように、首元に巻きつき始める。
だがトッキーはすぐさま長い爪で大蛇を引き剥がし、大口を開けて大蛇の首に噛み付いた。そのままガラスが割れて大きな穴と化した窓に向かうと、首をひねって勢いよく大蛇の体を外に放り出す。
「や、やめろ!」と聖王が絶叫するものの、トッキーは耳を貸さなかった。代わりに聖王の方をサッと振り返り、再び大口を開ける。鋭利な牙の並んだその口に皆がギョッとしたのも束の間。トッキーは口からまるで噴水のように大量の炎を噴いた。
想像をはるかに超える展開に、誰も止める間がない。
「きゃあああっ、陛下!」
聖王が丸焼きにされてしまう、と王妃が悲鳴をあげるが、実際にトッキーの噴いた火が燃やしたのは、聖王の髪の毛だけだった。聖王ご自慢の艶のある黒髪は、根元だけとなってチリチリの黒焦げ状態で頭皮にこびりついていた。顔は煤で真っ黒だ。
ひどい有様に、聖王に近づくのを躊躇っている王妃とミーユだったが、ミーユはキッと私を睨み据え、両手を前にかざした。
「お父様になんてことを! 不良品王女のくせに、生意気よ。わたくしはリーナが聖女だなんて、認めないから!」
風の魔法で私を吹き飛ばしてしまおうとでも目論んだのか、ミーユが詠唱を始めた刹那。
トッキーがくるりと振り向き、ミーユと王妃に向かって大きく口を開いた。喉の奥には、赤い炎がチラチラと見えている。
「ううう嘘でしょう……?」
どうやらトッキーは炎の照準を、ミーユと王妃に変えたらしい。詠唱をやめ、ミーユが王妃と手を取り合って震え上がる。
「こっちを見るんじゃないわよ! この野蛮なトカゲめ!」
「お母様ぁ、助けて……」
主人を守ろうと二人の守護獣も現れる。
ミーユの守護獣である美しい馬は、前脚を高く掲げていななき、床を踏み鳴らした。
王妃の守護獣の灰色狼は、全身の毛を逆立ててトッキーに向かって唸っている。
守護獣達は勇ましく二人の前に立ちはだかったものの、一瞬で盾としての役割を終えた。トッキーが長い尾を振るなり、あっさりと薙ぎ払われたのだ。
ものの一撃で、王妃とミーユの守護獣が窓の穴から城外へと落下していく。王妃とミーユは叫ぶ間すらなかった。
暴れるトッキーの様子を見ながら、私は彼を止めるべきか悩んだ。守護獣は通常、人に危害を加えたりしない。だが、その主人を守ろうと行動している時だけは、例外だ。
トッキーは、王妃とミーユを引っ叩いてやりたい私に代わって、二人を懲らしめようとしてくれているのだ。
今だけ、私は自分の良心に蓋をして成り行きを見守った。
トッキーが再び王妃とミーユに向き直る。
「ヒィィィッ……!」と二人が顔を真っ青にした直後。
トッキーは大きく息を吸い込み、その口の中から今度こそ炎が噴き出した。
王妃とミーユの髪の毛から大きな火柱が上がり、炎が燃え盛る。
「いやぁぁぁぁぁ〜っ!」
ドス黒い煙を巻き上げて燃える自分の頭上を、ミーユがものすごい形相で見上げ、口を両手で塞いで絶叫する。
「わたくしの自慢の髪がっ!」
王妃もミーユの炎を指差しながら、後ずさって呟く。
「燃えてる! ミーユ、貴女の髪の毛、燃えてるわよ!」
「お母様こそ、燃えてるわ!」
火は顔に燃え広がる様子がなかったからか、ダルガンの衛兵達は誰も消火のために動くこともなく、聖王は自分と同じ末路を辿っている妃と娘を、どうしてやることもできずに唖然として見つめている。
やがて火柱は小さくなって自然と消失し、後に残されたのは茫然自失とする二人の女性達だった。
髪の毛は燃えて鉄線のように硬くなり、縮れて巨大なボールのように頭の上に乗っかっていた。
なぜか眉毛にも燃え移ったのか、眉は綺麗に無くなっている。
聖王国の豊かさを見せつけようと着てきた豪華なドレスは、煤で見るも無惨に真っ黒になっていた。
直後、バタンと扉が勢いよく開き、礼拝堂に入ってきたのは、ダルガンの国王と王妃だった。
思わず私は王太子と目を合わせた。地方に出かけている彼らの急な登場に驚きを隠せない。
空気全体が張り詰めたような緊張が、礼拝堂内を埋め尽くす。
困惑しきりで王太子が口を開く。
「お二人とも、お戻りは明日のはずでは?」
尋ねられた国王夫妻は礼拝堂内の荒れ果てた有様に、絶句していた。無理もない。
棺が置かれている上に、ドラゴンが鎮座して、聖王一家がこの場にいるのだから。しかも黒焦げの状態で。
「お、お前達がここで妙なことをしようといていると、王宮から早馬が来たのだ。予定を切り上げて急いで来てみれば……。離宮の前に聖王国の馬車が止まっていて、心底驚いた。――そして、これは一体何が起きたんだ!」
国王はワナワナと身を震わせていたが、王妃は冷静に周囲を観察していた。
王妃は首をつんと仰け反らせ、何ら臆する様子もなくトッキーの前まで歩いてきた。むしろ彼女の圧倒的な威圧感に怯えたのか、トッキーが翼を懸命に小さく畳んでゴロンとその場に横になり、腹を見せて急に動かなくなった。
王妃は自分の両腰に手を当て、トッキーを眉を顰めて見下ろした。
「ロッキー。お前、ちょっと見ないうちに随分大きくなったじゃないの。そのデカい図体で、みっともない死んだふりをするのは今すぐやめなさい」
これほど容姿に変化があったのに、王妃はどうしてこのドラゴンがトッキーだと分かったのだろう。
「あの、お義母様。この子はロッキーじゃなくて、トッキーなんです……」
「貴女がやっと精神的に大人になったから、成獣になれたのね。それで、貴女はこの黒焦げ三人衆をどうするつもりなの?」
酷い言われように驚きすぎて思考が止まったのか、聖王達三人は口をポッカリと開けたまま王妃を見つめ、何も言い返さない。
「ここで何が起きたかは、お尋ねにならないのですか?」
「守護獣が人を害するのは、主に命の危機が迫った時のみよ。貴女の守護獣が暴れるだけの事情があったのなら、非がどちらにあったのかは明らかだわ」
国王が留守の間にここで勝手な真似をした私と王太子に激昂するどころか、王妃は聖王の処置を国王ではなく、私に尋ねていた。まさか決定権が私にあるということだろうか。
突然の国王夫妻の登場に慌てふためき、まだ頭の中が冷静に戻れないでいる私の手を、王太子が優しく握る。
「リーナ、言ってくれ。君は聖王に、何を望む?」
ごくりと生唾を嚥下し、私はゆっくりと王太子を見上げた。
優しいアクアマリンの瞳に心の中が凪いでいき、どうにか落ち着きを取り戻す。
――私の望みは……私が望むものは、最初から変わらない。
聖王の目を真っ直ぐに見て、私は彼に言った。
「本当の和平を目指して、二度とダルガンを攻めようとしないと約束してください。最初に目論んだような、裏のある和平はたくさんです」
聖王は礼拝堂内にいる皆の顔を不安そうにキョロキョロと見回してから、答えた。
「わ、わかった。……約束しよう」
「ご決意と、私を殺そうとした経緯を文書に残してください。事実と異なる噂が広まるのは困りますので」
聖王は私の提案にあからさまに気分を害したようだった。眉間に皺が寄り、目つきが険しくなる。
だが、トッキーが聖王を睨みつけながら大きく息を吸い込むやいなや、再び炎を吐かれると危惧したのか、背を丸めて大急ぎで頷く。
「わ、わ、分かった! 仕方がない。お前の言うとおりにしようじゃないか!」
「お父様は、聖王として私が聖女であることを認めますか?」
聖王は睨みつけるようにしてトッキーを見つめた後で、私に言った。
「……守護獣がドラゴンであるならば、お前は本当に聖女なのだろう」
チラリと王妃を見やると、彼女は絹のハンカチを引きちぎりそうな勢いで両手で握りしめている。
王妃は悔しげに唇を震わせて呟いた。
「こんなはずじゃ……。ダルガンに嫁いだリーナが聖女だなんて……!」
私と同じく王妃を見ていた聖王が、私に視線を戻して口を開いた。
「たしかに、聖女は聖王国の繁栄を約束する存在だ。我が国に所属すべき聖女を、ここに置いていくわけにはいかぬ。――こうなった以上、やはりお前は聖王国に戻らねばならぬ」
「リーナは我が国の王太子妃だ。勝手なことを仰られても、困りますな」
私の代わりに聖王に答えたのは、ダルガン国王だった。
思わず近くにいる王妃を見たが、私を認めていなかったはずの彼女も、特に異論は唱えない。
気を強く持って聖王に答える。
「私が思うに、聖王家の人々は、聖女を都合よく解釈してきたんだと思います。聖女は国を繁栄させる存在ではなく、本来選定石は国を純粋に思う王女の心に反応するだけで、繁栄とは何の関係もないのではないでしょうか」
聖王は到底納得できない、という様子で仏頂面だった。聖女を神聖視することで権力に箔をつけていた聖王国からすれば、全く面白くない展開だろう。
簡単なことだ。試してみればいい。
私は胸に手を当て、心の中に聖王都の光景を思い浮かべた。歴史ある美しい街並みと、新年祭を楽しむ人々の姿を。彼らがずっと笑顔でいられればいい。
(あっ、コツが掴めた気がするわ)
そう感じた直後、瞼を突き抜けるような眩しい光が再び礼拝堂に広がった。
「ウオォッ、熱いっ!」
輝く印章を指にはめていた聖王が手を振り回し、耐えきれなくなったのか指から引き抜いて床に放る。
「光らせ方が分かったわ」
「凄いな、君は。もしかしたら、印章が聖王宮にあってもダルガンから祈れば選定石を光らせられるかもしれないな」
王太子の思いつきを聞かされた聖王が、蒼白になる。
床に落ちた印章に手を伸ばし、指先で触れるとまたもや光が収束していく。