新婚旅行の終わりに
ハイマーには国王の従兄弟が屋敷を構えており、私達はそこに宿泊した。
国王の従兄弟は物静かで落ち着いた男性で、移動の多い私達を疲れさせないよう、夕食は小さな宴席にしてくれた上、早めに切り上げてくれた。
新婚の夫婦はゆっくり二人きりで過ごすものだ、と気を遣ってくれたらしい。
私達のために準備された寝室は、書斎も併設の大きなもので、専用の中庭までついていた。
入浴を済ませてもまだ寝るには時間が早く、王太子と私は中庭に出てみた。
自分達の他は誰もいないので、櫛ですいて垂らしただけの長い茶色の髪を揺らしながら、寝室と中庭をつなぐ扉を開ける。
夕食の間に雨が降っていたのか、中庭にはじっとりと肌にまとわりつくような湿気が充満していた。
濡れた緑の葉から立ちのぼる青い匂いが、高い湿度を更に強調する。
中庭には白いタイルが敷かれ、曲線を描いて配置された花壇にはパンジーが鮮やかに咲き誇っている。白色や黄色、紫色や青色。
まるでパンジーの見本市のように美しい。
王太子が小さなベンチの前を通り過ぎたところで、私は彼に並んで話しかけた。
「秘密の中庭みたいで、素敵ですね」
「そうだな。花の香りが漂っていて、素晴らしい。久しぶりに二人きりになれたな。ハイマーではずっと人に囲まれて移動してきたから」
王太子が花の香りを吸うように大きく息を吸い、肩を下ろしながらまた息を吐き出す。
王太子である彼も、始終周囲に人がいるのは時折窮屈に感じるのだろう。私も肩が凝って仕方がなかった。
「せっかく二人きりになれたから、少し座って話そうか」
王太子がそう言うなり、マントを大きく払ってベンチに座る。まだ少し濡れている箇所があるため、マントを横に広げて私がその上に座れるようにしてくれたらしい。
人のマントを尻に敷いて良いのか逡巡したものの、遠慮するのも感じが悪い。
おずおずと腰を下ろし、二人で並んで座った直後。
ベンチの向かいに設置された水盤から、噴水のように水が勢いよく上に噴き出した。一瞬びっくりして、息が止まる。
「な、なんてタイミングかしら。まるで私達が座るのを、待っていたみたいですね! これはヴァリオ様の水の魔法ですか?」
感激の声を上げる私とは対照的に、王太子は冷静だった。
「いやいや。これに魔法は必要ない。ベンチに負荷がかかると、弁が開いて噴水が出る仕組みになっているんだ。似たものが王城の庭園にもあるぞ」
「そんな仕掛けが!? これも技術なんですね。聖王国では、見たことがありません。ダルガンの生活は、びっくり箱の連続です」
「びっくり箱か。そうか?」
はははと腰を折って笑った王太子の肘が私の肘に当たり、私達は噴水から目を離し、互いに見つめ合った。途端に心臓が跳ねる。
(なんだか、改めて見つめ合うと、変な気分になるわ。ヴァリオ様ったら、お風呂上がりだから妙に色気があるんだもの)
王太子はいつも後ろで束ねている髪を今は下ろし、まだ少し濡れた波打つ髪が彼の肩から流れ落ちている。
私達は急に恥ずかしさを覚え、視線を逸らして再び噴水を見上げた。
そうしてしばらく水の音に耳を傾けた後で、王太子が口を開いた。
「リーナ。手を繋いでいい?」
「は、はい。も、もちろんです……」
ぎこちなく互いの手を相手に寄せ、指先が触れ合った後ですぐに手を握り合う。
中庭は寒く、長時間座っているのに適した季節ではない。だが手を繋いで二人きりでベンチに佇むのは、とても贅沢な時間な気がして、私達はしばらくそこから動かなかった。
ハイマーを出て隣の街に休憩のために立ち寄った私達は、馬を交換する間に街中を散策した。
聖王国にいれば名も聞いたことがないような小さな町ではあったが、蜂蜜色の建物がひしめく街並みは風情があり、美しい。私は初めて訪問した街並みを堪能しようと、衛兵に周囲を囲まれながらも首を忙しくめぐらせて歩いた。
王太子の少し後ろを歩きながら、不意に視界に飛び込んできた丸いものを避けるため、私は無意識に右手で顔を庇った。その直後、カシャンという儚い音と共に冷たい衝撃が手の甲を襲う。
衛兵達がざわつき、隣にいたネリーがものすごい形相で私の右手を取る。
「大丈夫ですか⁉︎ 妃殿下、お怪我はありませんか⁉︎」
私の右手はなぜか濡れていて、ヌルヌルと糸を引くものが指先から地面に向かって落ちている。一歩下がって足元を見てみると、何やら薄くて白い欠片状のものが落ちている。
(これは、まさか卵の殻?)
「不届き者が、妃殿下に生卵をぶつけたぞ!」
「捕らえよ! その青い服を着た奴だ!」
ここでようやく、誰かが私に向かって生卵を投げたのだと知る。とんでもない悪意と、その標的にされた事実に一瞬頭の中が白くなる。
あっという間に衛兵達の間で指示が飛ばされ、すぐそばの街路樹の後ろに隠れていた少年が、数人がかりの衛兵達に掴みかかられ、地面に押し倒された。
(あの子が私に生卵を投げつけたの……?)
おそらく七歳くらいだ。まだ幼い子どもがなぜ、と頭の中を困惑と衝撃と、怒りと悲しみといった感情がごちゃごちゃになって駆け巡る。
痩せて背の低い少年は、拘束されながらも四肢を振り回して叫んだ。
「離せぇ! 僕は聖王国なんて大嫌いだ! 僕の父さんを殺した奴らだ!」
少年の言葉は鋭い刃のように私の胸に刺さった。誰がどう聞いても、少年は聖王国から来た私を非難していた。衛兵達がそれ以上の罵詈雑言を少年が私に吐くことがないよう、少年の口元を押さえつける。
大きな男達の手で押さえられ、少年が陸に引き上げられた魚のように暴れる。
「暴れるな! 早く手足を拘束しろ」
衛兵がテキパキと動き、そのすぐ近くではボーグが背中の毛を逆立て、少年に向かって唸り声を上げて威嚇している。
守護獣は主人が名を声に出して呼び出さずとも、激しく動揺した時は察知して姿を現すものだが、トッキーは出てこない。運悪く冬眠の日と重なってしまったらしい。
ネリーは私の手を急いでハンカチで拭い、ベルタは私を元きた道へ押し戻し始めた。王太子も素早く私に命じる。
「馬車に戻れ。散策は一旦中止する」
第二の卵が飛んでくることを恐れたらしい。
だが私はベルタに背を押されても、その場を動かなかった。それよりも小さな顔いっぱいに大きな男の手で塞がれた少年が、気がかりだった。衛兵もすぐ近くに王太子と私がいる手前必死で、一人は少年に馬乗りになって動きを止めようとしている。
私は思い切って、衛兵達に大きな声で呼びかけた。
「その子が呼吸できないわ。私は何を言われても平気だから……、口を離してあげて」
少年を囲んで地面に膝をつく衛兵達は、ギョッとしたように驚いたが、ここで少年に窒息されてもまずいと気がついたのか、少年の顔から急いで手を離す。
少年は肩で息をしつつも、まだ聖王国の悪口を叫んだが、衛兵に引き摺られるようにして、裏路地へと連れて行かれ、私と王太子の視界から消えていく。
王太子は私の正面に立ち、馬車を視界に捉えつつ気遣わしげに言った。
「仕切り直した方がいいんじゃないか?」
だが私は首を左右に振った。
幸い卵は手にしか当たらなかったので、拭いてしまえば問題ない。
「もう、俯かないと誓ったばかりです。旅程を変更する必要はありません。殿下に、恥をかかせたくないんです。恨みをぶつけられようとも、毅然としていたいんです」
王太子は厳しい表情で、しばらくの間薄い唇を引き結んでいた。やがて厳かに一度頷き、言う。
「分かった。君の意見を尊重しよう」
少年を無罪にしろと願い出ることはできない。理由があれば無抵抗の人間に生卵をぶつけていいことには、ならない。
だが念のため、私は衛兵達に言った。
「あの子は私の手を狙ってくれたのよ。必要以上に罪を重たくしないであげてね」
「最初から腕を狙ったわけじゃないですよ。妃殿下が手を挙げられたから、顔に当たらなかっただけではありませんか!」とネリーはカンカンの様子だ。
それを受け流して散策に戻る私を見て、王太子のすぐ後ろにいたフィリップが呟く。
「妃殿下は、傲慢な聖王家の方々とは、少し違うようですね」
解釈に悩んだが、これを賛辞と受け止めるほど私は能天気でもない。
(だいたい、私のすぐ近くにいたんだから、護衛として周囲を警戒していたフィリップなら、飛んでくる生卵に気がついたんじゃないかしら? もしかして、わざと教えたくはなかった……?)
私がどう対処するか、見たかったのかもしれない。
私は勇気を出して、彼を真正面から睨んだ。
「あなたも、心の中では私にあの少年と同じことをしたかったのではないの?」
「――まさか。何をおっしゃいますか。そのようなことは決して考えておりません」
一見、中性的で柔和な面差しをしているが、フィリップの醸し出す優雅な雰囲気にごまかされてなるものか。
言うべきことは、言うべき時に言わなければ。
「そうね。私を軽んじるのは、王太子殿下を軽んじるのと同じだもの。貴方は殿下の忠実な側近でしょう?」
平静を装っていたが、大それた発言なので心臓は激しく打ち鳴らされ、手のひらには大汗をかいている。それでも私は言い切った。そうして驚いて身を固くしてるフィリップに背を向け、歩き出した。
新婚旅行を終えた私は、ダルガン王城で父に宛てた手紙を書いた。
聖王国では見聞きすることができなかったダルガンの美しさや、初めて知った「技術」のことを。そして私はここの人々はとても親切だと知らせた。
長く敵対国だったダルガンの人々が私を好きになれないのは、当然だ。いきなり全ての人に好かれるのは、無理な話だと思う。だからこそ、自分がむけてもらえた小さな好意の一つ一つを、大切にしたい。
小国だと言われてきたけれど、ダルガンには珍しいものがたくさんあった。
温室栽培のメロンの美味しさや、中庭の噴水。どれも聖王国にはなかったものだ。
両国にはもう二度と争ってほしくない。ダルガンがいかに技術の向上に務めているのかを知らせ、聖王に認識が古かったことを自覚してもらいたかった。
生まれた時から自分がどう生きれば良いのか、何をしたら良いのか常に迷ってきた私だけれど、一度は心折れそうになった両国の架け橋に、頑張れば本当になれるのではないか。
少しずつ自分の中に自信と信念が芽生えるのを感じながら、私は一文字一文字を丁寧に書いた。