第百七十四話 淑女のお茶会
「随分と驚きました。本当にあれを一年足らずで?」
「はい。ほとんどが、御使い様のおかげですが……」
シュラー助祭の返答に、ナリーバ司教はほんの少しだけ眉を寄せた。
現在、彼女たちは村の視察を終え、薬師のエイサンの家に立ち寄って休憩の最中であった。
「その呼び名を人前で使うのは、あまりお薦めはできませんね」
「失礼しました。てっきり、ナリーバ様もあの方たちを受け入れて下さったのかと」
「そうですね。村の様子を見る限り、途轍もない力の主であることは確かです。それに村の方たちの愛慕の気持ちも、しっかり確認させて頂きました。それを踏まえて"聖骨の騎士"の称号を与えたのも事実です。ですが、あくまでも承認したのは騎士の一員であって、彼らを創世神の眷属であると認めたわけでありません」
キッパリとした口調で言い切ったナリーバは、柔和な笑みを浮かべながらシュラーの顔を覗き込んだ。
「人は己の選択が常に正しいと信じたがるものです。ですがそれは過ちを犯したとき、挽回の機会を遅れさせてしまうことになりかねません。私たちは人を導く立場にある以上、どこかに疑いの目を残しておくことは忘れてはいけませんよ」
「祈りを信奉する私たちに全てを信じるなとは、相変わらず難しいことを仰られますね」
「ええ、人は天の高みに近付くほど、その強い光に惑わされてしまうのです。太陽を覗く時は、片目だけにしておきなさい」
そう言って、老司教は軽やかに右目をつぶってみせた。
実は今回の件だが、ナリーバ司教には村を守る騎士の中身が人間でないことは予め知らせてあった。
元より彼女ほどの叙階になると、死を忘れた者の気配など鎧で覆う程度では容易に察知されてしまう。
なので実際の功績を見てから判断してもらえるよう、シュラーが前もって手回しをしておいたという訳だ。
結果的に子爵家の絡みによって村人一同の気持ちがよく伝わり、お咎めなしで終わったという次第である。
「本当のことを申しますと、今回は私も少し眩まされてしまったようです。滅神の属性を持つものを教会の席に加えるなど、あってはならない戒律破りです」
そこで一旦、言葉を区切ったナリーバ司教は、ポツリと呟くように言葉を続けた。
「ですが、多くの子らが健やかに育つ姿を前に、教義なぞは多少捻じ曲げても許される場合があると思えたのです。…………もっともらしいことを言いましたが、私もまだまだですね」
今度は左目をつぶってみせる師に対し、弟子は心の底からの笑みを浮かべた。
かつては断滅派の先鋒であったナリーバであるが、この十年の経験が彼女の内と外、両方を大きく変えてしまっていた。
年老いて見える外見に反し、司教はまだ五十代半ばである。
その急激な老いは、戦場の応急救護所で癒やしのために命の火を燃やしすぎた行為が招いたものだ。
彼女はそこで数え切れない死と、絶望に染まる多くの瞳を見送った。
助けることが出来なかった無数の生命を前に、ナリーバの信仰の拠り所は深い疵を負うこととなる。
その疵は、未だ癒えていない。
そして教母シュラーもまた、出向先の開拓村で己を揺るがす経験を経ていた。
屋根裏に逃げ潜んだ彼女が見たものは、押し寄せてきた小鬼の群れが、捕まえた村人を貪り食う姿であった。
生き物が食するために、他の生き物の命を奪う。
それは創世の母神の教えには矛盾しない。
新たな生き物を生み出す行為へと繋がるからだ。
もっとも断罪される行いは、無価値な死を与えることである。
よって小鬼たちの為したことは、何も咎められるものではない。
だが死んでいったのは、彼女の愛する隣人たちである。
愛すべき生命が失われることと、それをもたらした行為の正当性が生み出す齟齬は彼女の信仰心をへし折った。
けれどもそれは今、一体の骨の言葉によって、やや歪な形で修復されつつある。
全ての生命は等しく同じ価値であるのなら、互いに殺し喰らい合うことは相反しないのだと。
もし次に小鬼たちがシュラーの前に現れたら、彼女はためらいなく武器を手に取るだろう。
そして殺した小鬼の肉を食すると、教母は密かに心に決めていた。
「彼らの件に関しては、出来るだけ報告を欠かさないで下さい。それと監視を兼ねた教母を二名派遣する予定です」
「承りました。ありがとうございます」
「それから水車技師とガラス職人の手配ですが、どうも夏頃にずれ込みそうです」
「はい、そのように村長に伝えておきます。これは村の住民台帳の写しです。どうぞお受け取り下さい」
先ほどの会話の形跡をまるで残さずに、二人は淡々と事務的な処理を始める。
「あとお渡ししたいものが、二点ほどあります。まずは――エイサン様、宜しければアレをお願いします」
「ふぇっふぇ、お呼びですかな」
シュラーの呼びかけに対し、お盆を持った老婆が扉の向こうから顔を出す。
「どれ、難しい話は終わったようですのう。まずは一服、召し上がってくだされ」
手際よくカップをおいたエイサンは、奥深い香りを生み出す液体を注いでいく。
さらに脇に添えた小瓶からも、ふんわりと甘い匂いが漂っていた。
「あら、とてもいい香り。有難く頂きますね」
「この糖蜜もお薦めですよ、司教様」
「ふぇっふぇ、ごゆっくり召し上がってくだされ」
女性陣は淹れたての香茶を、しばし無言で堪能する。
三人を包む心地の良い静けさは、森の木立から響く春告鳥のさえずりによって程よく増していった。
飲み終えたカップをテーブルに戻した彼女たちは、満足げな息を漏らした。
そこにさり気なく、薬師は懐から出した薬壺を並べる。
「あら、それは?」
「はい、こちらが手紙でお知らせした血止め薬となります」
「とても素晴らしい効能だと、おっしゃっていたわね。少し良いかしら」
手を伸ばし壺の蓋を開けるナリーバ。
匂いを嗅ぎ取ったその目が、わずかに細められる。
「これは白明草の香り……、いえ、似てるけどもっと強いわね」
「確か原料は、この辺りにしか咲かない花だそうです。月灯草というお名前でしたっけ?」
「ふぇっふぇ、ええ、そんな名前でしたのう」
白明草は潰して傷に塗れば、少しだけ鎮痛と止血の効果がある薬草の名前だ。
効能は当然であるが、話に聞いた血止め薬とは比べ物にならないほど弱い。
ナリーバは香りの強い茶の横に置かれた薬壺を一瞥し、あえてそれ以上の感想は控えた。
「もう一点はこれです。使ってみたら凄く便利なんです」
シュラーが足元から出してきたのは、木の板に横に走る刻みを入れた品だった。
「…………何に使うものなのかしら? 皆目、検討もつきませんね」
「実は洗濯に使う道具なんです。あまり力を込める必要もないので、衣服もそんなに傷みません」
洗濯板を色々な角度から眺めながら、ナリーバ司教は興味深そうに頷いた。
「これは良いもののようですね。……ただ、構造的に簡単すぎて商品としての流通は厳しいと。分かりました、一ヶ月の試用期間で実用性の確認が取れましたら、教会のお墨付きにするとしましょう」
誰でも簡単に作れるような品は、商業的な価値は低い。
しかし教会がその権利を有すると宣言した場合、真似をして売り出すことはほぼ不可能となる。
「ともに素晴らしい献上品ですね。ではお返しに私からはこちらを」
老司教が取り出したのは、小さな古ぼけた本であった。
背表紙にある金文字は創世初本。創聖記の原本の一つである。
ナリーバは紙片が挟んであったページをめくり、テーブルの上に広げてみせた。
「貴方の手紙にあった模様はこれだと思うのですが、いかがかしら?」
「あ、それです!」
無数の心臓が重なったような印。
その横には小さな円の縁が重なる紋様が並んでいた。
三角形が重なる物や、真っ黒に塗り潰された楕円形もある。
「これは一体、何の印だったのですか?」
「…………欲の獣の刻印です」
少しだけ言いよどみつつも、ナリーバは二人の目を見据えながら答えを明かした。
欲の獣。
虚空の彼方から訪れた神々が、まず最初に行ったのは七匹の獣を野に放つことであった。
本能の力を象った獣たちは、思うままに猛り吠え地を駆け巡った。
そして役割を終えた獣どもは、地の底に封じ込められたと伝えられる。
「そうなるとやはり彼の方たちは、滅神の眷属であるのは間違いありませんね……」
「今、分かっているのは貴方の手紙にあった繁殖の獣、それと――」
「統率されている方の紋章は、娘から聞いています。この生存の獣の紋章ですね」
「ふぇっふぇ、ニーナのはこちらのですのう」
「競争の獣ですか。すると残りは支配、破壊、睡眠、捕食の四体となりますね」
だが分かったのは、そこまでであった。
その先を理解するには、彼女たちには情報が不足し過ぎていた。
残りの紋章を書き写した紙をシュラーに手渡しながら、ナリーバはほほ笑みを浮かべて命じる。
「これは宿題にしておきます。次に会えるのを楽しみしているわ」
「はい、承りました。今度はどちらへ行かれるのですか?」
「王都に帰参してから、もう一度、西に戻る予定です。どうにも彼の地には穏やかならぬ状況が迫っているようなので」
西、ゲラドール辺境伯領は、鬼人帝国との最前線にあたる。
そこに戻るということは、再び戦場へ赴くという意味を含んでいた。
そしてもし彼女が再び、癒やしの力を振り絞ることがあれば、それは残された寿命を費やす結果になるのは明らかであった。
言葉に詰まるシュラーに対し、老司教は少しだけ砕けた口調になる。
「そんな顔をしないで、シュラー。一つ、お願いがあるのだけど良いかしら?」
「はい、何なりと」
「これをあの子たちに渡しておいてほしいの」
そういってナリーバが取り出したのは、綺麗にリボンが掛けられた三個の箱であった。
「この小さいのはロナの分ね。髪が伸びてきたのでちょうど良かったわ。元気なサーサとビービには、この二つをお願いね。ぬいぐるみは少し子供っぽかったかしら。喜んでくれると嬉しいのだけど」
御礼の言葉を口にしようとして、喉を詰まらせたシュラーは何も言えず俯く。
娘たちの名付け親にあたる女性は、静かにただ優しく微笑んでいた。