第百七十一話 春来節
「天にまします母なる神よ。あまねく地にその聖なる加護が満ちゆき、母の育みし子らはみな健やかに生を謳歌しております。我らに与えられた寒く凍え飢え渇いた辛苦の日々は、天上の御手により今日、終わりを告げました。我らが元に再び、生の息吹あふるる春がもたらされたのです。素晴らしきこの恵みの日を迎え入れたることに喜びの祈りを捧げます。願わくば我らが子らの感謝の歌が、母の御心にそうことを――」
祭壇の前に立つ教母シュラーの挨拶を、会場の聴衆は大きな拍手で迎え入れた。
そのまま拍手がまばらになっていくかと思われたが、手を叩く音に合わせて楽器の音が鳴り始めた。
教会の裏手に控えていた村人たちの仕業である。
笛や弦楽器の音に手拍子が合わさり、再び子供たちが歌い始めた。
村人も次々と立ち上がって、声を合わせる。
緩やかな旋律の奉納の歌は、快晴とはほど遠い霞がかった空へ吸い込まれていった。
二つ目の歌が終わると、観客は再び椅子に座り直した。
子供たちも残った花びらをばら撒きながら、舞台袖の教会横手へと走り去っていく。
吾輩の分身も双子たちに引きずられて、笑われながら退場していった。
次はお偉いさんの挨拶のようだ。
祭壇の横の席に座る三人へ、シュラーが優雅に頭を下げてみせた。
先に立ち上がった二人が、真ん中の女性に手を貸して歩き出す。
そして祭壇の前に進んだ三人は聴衆に向き直ると、次々とベールを持ち上げた。
左右の二人は、シュラーより一回り年齢が上のように見える。
そして中央の人物は、エイサン婆と同じかそれ以上の老婆であった。
たぶん、この年寄りがナリーバ司教であろう。
老司教はゆっくりと周囲を見回したあと、ハッキリとよく通る声で話し始めた。
「母の加護を知る者は幸いです。だが母の加護を知らない者もまた幸いなのです。なぜなら知らない者も、すでにその恵みに触れているのです。この世に生まれ落ちた時から天に召されるその時まで、母の創りし万物の恩恵が私たちを助け、導き、生かしてくれています。その素晴らしさに気付けることもまた、大いなる喜びとなるでしょう」
一呼吸置いて、軽く瞬きをした司教は言葉を続ける。
「時に私たちは、病や怪我に襲われもします。また教えを知らぬ者に虐げられ、謂れなき罪に被せられることも。けれども、そのような時こそ、母なる神の教えが昏き道を照らす灯りとなるでしょう。祈りの中にこそ光は訪れ、悪しき禍を消し去ってくれるのです。そう、大事なのは教えを知り、それを信じること。万人に聖なる光を与えることが、神の僕たる私たちの使命であり、教母シュラーは立派にその務めを果たしてくれました」
そこで司教は、注意を引くように右手を軽く持ち上げた。
「今日、この地にこれほど多くの人々が集まりました。これは彼女の教えが人々の暮らしを労り、善き守り手となった証といえるでしょう。よって創聖教会は教母シュラーの功績を称え、助祭としての資格を得たことをここに宣誓いたします」
いや、村が大きくなったのは、吾輩ら骨たちのおかげだぞ。
ま、吾輩は空気の読める骨なので、無粋なことは言わんがな。
無言で進み出たシュラーが、司教の前にひざまずく。
左右に控えていた二人の教母が、シュラーに近寄ってかぶっていたベールを手際よく外した。
そしてどこに持っていたのか、飾りの付いた環状の髪飾りを司教に手渡す。
それを厳かに持ち上げたあと、ナリーバ司教は髪飾りをシュラーの頭へとかぶせた。
合わせて教母たちも、シュラーの髪を撫でる。
先ほどまでは心もとなかった魂力が、気がつくと壇上の三人の教母から溢れ出していた。
それは彼女たちの手を伝って、シュラーの中に流れ込んでいくようにも見えた。
この儀式には、何かしらの能力や権能の譲渡でもあるのだろうか。
叙階の儀を終え立ち上がったシュラー助祭の顔には、誇らしさと喜びの入り混じった表情が浮かんでいた。
そんな彼女に村人たちの祝福の拍手が降り注ぐ。
どうやらサリークルは、まだ動かないようだな。
やはり狙いは、吾輩たちが表に出てきた時か。
拍手が鳴り止むのを待って、司教は再び言葉を発した。
「この地が大きく変わったのは、教母シュラー一人の力ではありません。彼女を支えた同志の献身があってこそです。創聖教会はかの人々の健闘を称え、ここに名誉ある騎士の称号を授けましょう」
シュラーの合図で、吾輩たちはゾロゾロと祭壇の前に向かった。
白いローブを先頭に代表の五体が並び、一番最後に革鎧姿のアル少年が続く。
少年が両手で支えていたのは白い三角形の長めの旗だ。
団旗の意匠が思いつかなかったので、今回は無地で誤魔化そうという形である。
正式に修道騎士になった暁に、一般からも案を募集してみるのは良いかもしれんな。
あとはかなり邪魔であるが、吾輩たちの足元を道化師がちょこまかと走り回っていた。
「では、代表の一名は前に」
司教の声で吾輩が動こうとした瞬間、客席にも動きがあった。
最前列の一人が立ち上がったのだ。
「お待ち下さい、ナリーバ司教。その者たちの騎士の資格について、いささかの疑問があるのですが」
「……どうかされましたか? サリークル様」
「はい、なぜ誉れを受けるはずの騎士が、その素顔を隠すような真似をされておられるのでしょうか?」
そこに突っ込んできたが。
確かに仮面を付けたまま、騎士になるような人間はかなり稀だろうしな。
「こ、これは森の呪いを受けぬために、顔を隠す必要があるのです!」
旗を掲げていたアルが、慌てて声を張り上げた。
その姿を応援するように、吾輩の分身が少年の周りを跳ね回る。
「無礼者! 許しも得ずに喋るとは何事だ! この御方はコールガム子爵の御子息であるぞ!」
「良い、ヒューレ。彼の発言を許可しよう」
鷹揚に手を振って、サリークルは従者を諌める。
だが出しゃばりな執事のせいで、周囲の人間に彼の身分が知れ渡ってしまったようだ。
これは、わざとらしい流れだな。
貴族の発言は、ただの村人よりも数十倍の重みがあるぞ。
「続けてくれたまえ、少年」
「は、はい。この村の騎士の皆様は、黒腐りの森の呪いに耐えるために、全身を鎧で覆う必要があるのです。それと呪いを退けるために、沈黙の行をなされておいでなのです」
「そうなのか。ところで少々尋ねたいのだが、この中で彼らの素顔を見た者は居るか? いくら奉仕的な修道騎士とはいえ、食事もすれば湯浴みもするだろう。まさか、それさえも禁じられていると?」
背後を振り返り、集まった人間たちに呼びかけるサリークル。
村人たちは互いに顔を合わせると、気まずそうに視線を落とした。
その態度を見て、立ち見の見物客がざわめき出す。
「えっと、その……食事は森の中で取っておられるので」
「なんと、わざわざ危険な森の中でかね。それこそ呪いの危険があるように思えるが。ときにかの森について、こんな噂を聞いたことはないかね?」
聴衆の関心を集めたまま、サリークルは一呼吸おいて声を落とした。
「あの黒腐りの森には、妖しい術士が住んでいると。その人物とは、人の屍を操り骸骨として意のままに動かす屍使いだと」
「その噂なら知ってるぞ!」
「俺も聞いたことがあるぜ!」
後ろの方から、誰かの賛同の声が響く。
それを皮切りに、ザワザワとあちこちから声が上がりだす。
最初の一声は、たぶん子爵の兵士だろうな。
だが黒腐りの森の屍使いが盗賊を滅ぼしたなんて噂が、一時期流れていたのも事実ではある。
「それは、その、ただの噂でしかありません! ここに長く住んでますが、骨なんて見たことありませんよ」
「少年は森の奥へ入ったことは?」
「あ、ありません……。そ、その呪いがありますから」
「それで言い切るのは早計だな。だが幸いここには、あの忌まわしい森深くに踏み込んだ勇猛な騎士がおられるようだ」
サリークルの顔が祭壇から、横の長椅子へと動く。
そこに座っていたのは男爵の次男に、警護の騎士――そうか、これは上手いな。
「誰もが良く知る高名な騎士、"紅白の猛火"ファルガス卿よ。そなたに一つお聞きしたい」
「うむ、問われたなら、出来得る限りお答えしよう」
「貴公は昨年、かの森の奥で異形に出会ったと前に語っていたな」
「ああ、確かに。ちょっとした小競り合いがあったのは事実だ」
「その相手というのは…………、何かね?」
「骨だ。動く骸骨どもだ」
髭面の騎士の返答に、会場は大きくどよめいた。
なるほど、これまた巧みにつなげてきたな。
「貴重な証言を感謝する、高潔なる騎士よ。さて実はここに一通の手紙がある」
勿体ぶる様子もなくサリークルは、胸元から紙束らしき物を取り出した。
食い入るように見つめてくる人々の前に、それを大きく掲げる。
「これはこの村に住んでいた勇気ある人物からの告発状だ。彼は身の危険を顧みずに、私に命がけでこの手紙を送ってきた。そう、この手紙の主は、現在行方不明となっている。彼の残した言葉によると、この村はすでに呪われた骨たちに支配されているそうだ。化け物どもは鎧で身を隠し、騎士になりすまして村に入り込み監視しているのだと」
内通者の手紙をそう使ってきたか。
多少の誇張はあるかもしれんが、内容に大きな偽りがないのは確かだな。
「もちろん、私も最初は信じ難い話だとは思った。けれども言われてみれば、この村の騎士たちの行いは、あまりにも不自然ではある。そこで思い出したのが、先ほどの呪われた森の噂だ。妖しい術を使う屍使い。もし、これが本当に居たのだとすれば……?」
息を呑む聴衆を前に、サリークルは淡々と言葉を紡ぐ。
「そう、私は恐ろしい考えに辿り着いてしまったのだよ。清き志をもった騎士の方々は、すでに妖術師の手によって、その中身を骸骨と取り替えられてしまったのではないのかと。そして、その事実を誤魔化すために――」
「そんな! ありえませんよ!」
「もちろん憶測だけで語っているのではない。これを裏付けるかのような、おぞましい事件が起こっているのだ。実は昨年から、我が領民たちが数多く行方知れずとなっている。彼らの最後の足取りを調べたところ、その全てが呪われた森の中へ消えていたことが明らかになった」
「……きっと何かの勘違いです」
「そうだな。私もそう思いたい。教会領がそのような恐ろしい場所と化してるなど、信じたくもないからな」
再び吾輩たちに向き直ったサリークルは、仕上げとばかりに声を震わせる。
「どうだろう? 疑いを晴らすために、その顔を今ここで露わにしてみるのは」
「それは! その……、森の呪いが…………」
「心配することはない、少年。ここにおわすのは、徳高き司祭様方だ。呪いを退ける専門家を前に、何を臆することがある?」
サリークルの挑発を含んだ言葉に、司教の傍らにいた女性がわずかに肩を動かす。
何とも鮮やかに、吾輩たちは追い詰められてしまったようだ。
会場を見渡すと、問うような視線がそこかしこから吾輩たちに注がれていた。
それを熱い注目と勘違いしたのか、道化師だけが一体で踊り狂っている。
うーむ、潮時か。
覚悟を決めた吾輩が兜を取り去ると、残りの四体も一斉に兜を取り去った。
そして現れた骨の顔に、広場は水を打ったように静まり返った。




