第百五十七話 黒沼再訪
吾輩の心配とは裏腹に、真っ黒沼は寒さとは無関係なようであった。
ところどころを黒い粘水に覆われた沼は、冷え切った空気をどこ吹く風とばかりに本日もヌメっとしている。
どうも沼の底から上がってくる謎の空気がよく燃えているせいで、気温の変化があまりないのだろう。
これはこれで助かるが、年中暖かという共通点だけで、どことなく不穏なモノを感じてしまうな。
そんな吾輩の心持ちとは逆に、到着した途端、二骨と一人が掛け声を張り上げた。
『今日はケロケロ退治らしいっす! 頑張るっすよ!』
『倒す!』
「ケロケロ、たおーす!」
いつも通り無駄に元気なニーナとロクちゃん、小ニーナである。
ロクちゃんに肩車してもらった小ニーナは、帽子からはみ出した耳の羽毛を大きく膨らませている。
見慣れない場所に来たので、少しばかり興奮気味なようだ。
ちょっとした遠出の散歩気分なのか。
本来なら危険な場所への同行は許可しないのだが、今回はいつの間にかロクちゃんが連れてきてしまったのだ。
まぁ、そんなに危ない相手ではなかろうし、大丈夫だろうとは思うが。
それに心配なのはニーナの方かもしれない。
久々に愛用の長剣を背負ったせいなのか、妙にテンションが高い。
前と同じような面倒事を、起こさないでくれると助かるんだが。
『張り切るのは良いが、また沼に落ちるなよ、ニーナ』
『落ちる? 何のことっすか?』
『いや、だから前回は、この黒い泥に沈んで大変な目に遭ったろう』
『何言ってるっすか? 前に来たときに何かあったっすか?』
それはこっちの疑問だ。
問い詰めようとした瞬間、吾輩の視界を誰かが覗く感覚が来る。
この何でもない場所での視界共有は、表情筋を持たない吾輩たちの目配せのようなものだ。
会話を中断して振り向くと、五十三番とタイタスが無言で首を横に振っていた。
『どういうことだ? ニーナが変なことを言ってるぞ』
『それは毎度のことだろ、吾輩さん。そうじゃなくて、沼落ちの件はあまり触れんほうが良いかもしれんぞ』
『ですね。わざととぼけている振りには見えませんし、本当に忘れているんでしょう』
これはもしや、都合の悪い記憶の改竄というやつか。
確かに真っ黒な泥の中に沈んでいくのは、重度の精神的な外傷を与えそうな出来事だったが……。
しかし吾輩ら骨の記憶は、そんな柔軟に対応して忘却出来るものなのか。
流石にあり得ないのではと否定しようとして、吾輩は大きな記憶の欠落に思い当たる。
そういえば吾輩たちは皆、生前の記憶を全てなくしていたな……。
それこそが都合の悪い死の記憶を、自ら消し去ってしまった証拠ではなかろうか。
と一瞬、深刻になったが、よくよく考えればロクちゃんは未だに犬が苦手なままだった。
こないだ商人が護衛に連れていた黒犬を見て、即座に吾輩の後ろに隠れて歯ぎしりしてたし。
うん、単にニーナの性格が忘れっぽいだけだろう。
『そうだな、今のは気にするな、ニーナ。ただはしゃぎ過ぎて、沼に落ちるなよと言いたかっただけだ』
『分かったっす! でもはしゃいでるのは、釣り竿握ってるワーさんの方だと思うっすよ』
ニーナの返しに、背後のタイタスが激しく前歯を合わせる。
何とも失礼な反応だ。
『違いねぇな。今日はカエル狩りで、遊びに来たんじゃねーぞ、吾輩さん』
『おっさん、それは噛み過ぎですよ。吾輩先輩はいつだって真面目なんです。今日も真面目に息抜きをしようと――』
『倒す!』
会話をしているうちに、目的の場所に到着していたようだ。
ロクちゃんの歯音に、吾輩は急いで周囲に注意を向けた。
そこに広がっていたのは、少し変わった沼岸の風景だった。
青草が浮かぶ水面は濁ってはいるが、黒くネバネバしていない。
その代わりだろうか、岸に打ち上げられた流木たちは真っ黒に染まっていた。
黒塗りされた大量の朽ち木が、水際を埋め尽くすように並んでいる。
試しにその一つに触ってみたが、粘着くような感触はない。
完全に乾いて固着しているようだ。
そしてその黒流木の上や横に張り付いていたのが、毒々しい夕焼けに近い色を持つ蛙どもであった。
話に聞いていた通り、顔の真ん中に巨大な目玉が一つだけ付いている。
『うわ! 何か気持ち悪いケロケロっすね』
『倒す!』
「ケロケロ!」
ニーナの大声に反応したのか、小うるさく鳴いていた蛙どもは一斉に静かになった。
一拍子を開けて、てんでバラバラに跳ね回りだす。
『逃さないっすよ!』
抜剣と踏み込みを鮮やかに一動作で終えた長身の骨が、地面を跳ねる小動物に容赦ない一撃を振り下ろす。
だが轟音を伴った長剣は、蛙の身を紙一重で横切って大地に激突する。
『倒す!』
音もなく詰め寄っていたロクちゃんが、逆手に握っていた短剣を地面スレスレで交差させた。
しかしこちらも、わずかな隙間を作りながら、獲物にかすりもせず空を斬る。
続けざまの攻撃に身の危険を感じ取ったのか、派手な色の蛙は大きく飛び跳ねて沼へと逃げ込む。
水草に泳ぎ着いたソイツは、喉をこれ見よがしに膨らませて耳障りな鳴き声を上げてみせた。
『くぅぅ! 何かスゴく腹が立つっす!』
『倒す! 倒す!』
「たおーす!」
地団駄を踏む二体をよそに、羽耳族の子が嬉しそうに手を叩き合わせる。
完全に新しい遊びと勘違いしているな。
『ほら、出番だぞ、ゴーさん。ご自慢の弓でブスっと射ってやれ』
『自慢したことなんてありましたっけ。おっさんのそのやたらデカい体じゃあるまいし』
『おいおい、俺の体は自慢できるほど立派だって認めているのか? そういえば何度か熱い視線を感じていたが』
『心底、気持ち悪いです。おっさんなんて眺めていたら、目が腐り落ちますよ』
わざとらしく空っぽの眼窩を突き出しながら、五十三番は素早く弓弦を張り終えて矢をつがえる。
そのまま水草の上の蛙に、的を絞ってヒョイと放ってみせた。
しかしながらその矢は、髪の毛一筋ほど外れ水面を叩く結果に終わる。
軽く撃ったようにも見えたが、魂力の動きから見て精密射撃を試みたようだ。
油断していない五十三番でも当たらないとは、明らかに何かあるな。
『タイタスはやらんのか?』
『俺は前回、散々試したからな。もうコリゴリだぜ』
『そうなのか。ふーむ、経験者の立場から見て、どう思う?』
『そうだな、体が勝手に動いて外れるって感じじゃねぇな。何というか、そこに居ると思って武器を振ってるんだが、微妙にその認識がズレてる感覚なんだよ』
『それなら、こうすれば良いんじゃないですか?』
またも素早く一矢を放つ五十三番。
けれども、その矢は大きく的を外れて水面を飛び去っていく。
『最初から外してみたらだろ? それだと本当に当たらないぜ。前にも思い付いて試したからな』
『単純な目の錯覚ではないと言うことか…………』
『ああ、多分だが当てようとする気持ちに、反応してんじゃねぇかと思うぜ』
なるほど、それで心が乱れる"乱心"ということなのか。
うむむ、非常に面白いぞ。
『そうだな、他に気付いた点はあるか?』
『倒す!』
『急にどうした? ロクちゃん』
小柄な骨が会話に割り込むように、唐突に沼の方を指差す。
何事かと思って目を凝らすと、そこに居たのはやや大きめの蛙であった。
色も明らかに他のものとは違っている。
黄色混じりの赤がさらに濃くなって――そうだな、金色に近いか。
その金色の蛙は、吾輩たちを小馬鹿にするようにゲコゲコと喉を鳴らしていた。
『ああ、アイツか。前のときも居たぜ。おそらくコイツらの頭目なんだろう』
よくよく見れば、その大きな眼球が怪しげに光っているようにも思える。
突然変異の個体だろうか。
ムラムラと回収してみたい気持ちが沸き上がって来たぞ。
『よし、ちょっと試してみるか』
水面に手を伸ばして叩いた吾輩は、跳ね上がった水滴どもに意識を集中させる。
雫どもを精霊で急いで固めながら、同時に細く細く尖らせていく。
この前の樹液取りで、木の幹を穿ったやり方である。
あとは白ワニのイメージを思い浮かべながら、数十個の水滴を吾輩から反発させる。
――水針雨。
細かい水の針が、踏ん反り返る金色蛙目掛けて吹き付けられた。
が、寸前で危機を察したのか、咄嗟に蛙は水面へ身を投じる。
金色の残像を通り抜けた水滴どもは、無数の細かな波紋を描いてみせた。
『うーむ。広範囲なら的を絞る必要はないかと思ったが、読まれてしまったか』
『あ、当たったっす!』
『なんだと?』
振り向くと長剣を振り下ろし済みのニーナと、地面に広がる赤いシミが視界に飛び込んでくる。
『倒した!』
「たおしたー!」
その横では剣の腹で叩かれた蛙が、ぺったんこになって地面に這いつくばっていた。
と次の瞬間、ロクちゃんが大きく後方に跳ねる。
『ど、どうした?』
『倒す!』
鋭い歯音を放ちながら、ロクちゃん潰れた蛙を剣先で指し示す。
その刃には黄色い体液が付着していた。
『……これ、おそらく毒でしょうね。僕たちには効きませんが、あの子供には危険かもしれません』
地面に張り付く死体を眺めてみると、蛙の背中には小さな瘤がびっしりと並んでいた。
そこから黄色い体液が、意味ありげに流れ出している。
『そうだな、あとでネズミにでも試してみるか。ロクちゃんは小ニーナを連れて、ちょっと下がっておいてくれ』
『倒す!』
『我慢だぞ、ロクちゃん。小ニーナが居なくなったら嫌だろう?』
『たおす……』
『あ、外れました』
『なんだと?!』
また何事かと顔を向けると、淡々とした表情のまま五十三番が矢を撃ち終えていた。
射線の先に居たのは、水草にしがみつく金色の蛙である。
『あ、また当たらないっす!』
ブンブンと悔しそうに長剣を振り回すニーナ。
勢い余って、また沼に落ちそうだな。
『あの金色野郎が出てきたら、このざまか。どう考えてもアイツの仕業だろうな』
『その可能性は限りなく高いな。しかし、どうやってあの蛙を仕留める?』
普通に攻撃を仕掛けても当たらない。
居ない間は普通の蛙は仕留められるが、どうも吾輩が狙う能力はアイツが持っているようだし。
『分かんないっす! ずっと攻撃してると、そのうちきっと当たるっすよ!』
『ああ、小腹が空いてきたな。諦めて、そろそろ引き上げるか?』
『倒した?』
『…………お前たちは頼りにならんな。全く』
『いやいや、こんな時こそ吾輩さんの出番だろ。ほら、足を組んで瞑想でもしてみたらどうだ?』
そんなことで知恵が浮かぶなら、苦労はせんわ。
ガヤガヤと言い合う吾輩らの横で、何やら思案していた五十三番が不意にカチンと手根骨を打ち合わせる。
『そうだ。先輩の持ってるソレを使ったらどうでしょう?』
『ソレって、ああ、コレか!』
五十三番に指摘された吾輩は、握っていた釣り竿の存在を改めて思い出す。
すっかり忘れてたな。
小指の骨をもぎ取って、糸の先に結びつける。
あとは小虫を思い出しながら、金色の蛙の目の前でフラフラと揺らしてみた。
大きな目玉がギョロリと動き、骨片を忙しく追いかけ始める。
左右上下に目を回したと思ったら、ピョンと蛙は空高く飛んだ。
そしてパックリと疑似餌を飲み込んだ状態で、釣り糸からだらんとぶら下がる。
えー、こんなので良かったのか……。