第百五十六話 惑わされた心
ロナの癒しの手によって滅ぼされた吾輩の分身であるが、幸いなことに紋章部分だけは残ってくれた。
この紋章であるが、吾輩の分け身には全て浮き出るようになっている。
五十三番が言うには、形は吾輩と全く同じであるが、色がやや薄いのだそうだ。
しかし握手ごときで消滅するとは、なんとも軟弱な骨だな。
吾輩の時は、腕が少し溶けたくらいで済んだのだが。
うーむ、どうも容量の少ない分身は、それに合わせて耐性も減少した結果、マイナスになっているのかもしれんな。
ま、紋章部分が残っていれば記憶の引き継ぎは出来るだろうし、さしたる問題はないか。
ふと思いついた吾輩は、顔色を変えてオタオタする少女に欠片を手渡した。
そのまま、引き続きギュッと握らせてみる。
『これを出来る限り、癒やしてみてくれ』
「えっ! えっと、えーーと、本当に良いんですか?」
『うむ。いくらでも作り出せるから、気にすることはないぞ』
実際に分裂できるのは常時、一体が限界であるが、安心させるためその点は伏せておく。
「分かりました。こうですか?」
『そうそう、その調子だ。お、少し色が変わったな。薄くなったのか』
最高レベルに達した頭頂眼が、紋章に起きたわずかな変化を捉える。
ちらりと棺をチェックしたが、聖光耐性に増加はないようだ。
これで上がってくれれば、欠片を渡しておくだけで済んでかなり時間を節約できたのにな。
残念だが仕方あるまい。
またシュラーに頼んで、聖光耐性がせめて防御に変わるまで鍛えてもらうとするか。
春来節の四月まで、もうあまり時間がないからな。
子供たちを村に帰らせて、欠片を吾輩の頭骨の上に乗せておく。
これでしばらく待てば、溶けて吸収されるはずだ。
流れ込んでくる記憶を整理しながら、黒棺様をチェックする。
ふむふむ、良い上がり具合だな…………、ああ、そういった不満もあるのか。
分身は吾輩の記憶を持ちながら、客観的に吾輩を見てくれる吾輩でもあるからな。
確かに吾輩が、村に注力しているのは間違いない。
魂集めを疎かにしていると、吾輩の一部がそう感じるのも理解できる。
だが人間の魂が、やはり一番効率が良いのも事実なのだ。
先日、子爵の手下十五人を捧げただけで、450もの命数が手に入った。
これをキノコに換算すると四百五十本で、洞窟の一部屋がだいたい四十本ほどになるので十部屋以上分も必要となる。
コウモリだと二百二十五匹、トカゲでも百十二匹。
あの滝裏洞窟全体で合わしても、そんなに生息してるかどうかも不明な数だ。
それほどまでに人の命数30というのは、飛び抜けて優秀と断言できる。
加えて人にはもう一つ、利点がある。
発情期が定まらず、年中いつでも繁殖に励めるというところだ。
実はカラスどもを増やそうと思ったのだが、アイツら年に一度しか産卵時期がこないらしい。
しかもそれは秋頃で、ちょうど巣作りしようとした時に、吾輩らに邪魔されたというオチ付きである。
その点、人間は余裕さえあれば、いつでもどこでも繁殖してくれるからな。
これは管理する側としても、見逃せない強みである。
吾輩が蒸し風呂を作ってやったのも、実はそれが狙いに含まれていたりする。
人間は健康的で身奇麗な異性には欲情しやすいと、豚鬼どもも言っていたからな。
そう、浴場だけに!
あとわざわざ夫の居ない元農奴の女どもに洗濯や垢擦りをさせているのも、そういった企みあってのことだ。
衣住食を吾輩たちが負担してやれば安心して、どんどん子作りに励んでくれるはずだろうし。
うむ、暖かくなってからが、非常に楽しみである。
まぁ分身が出来たことで動かせる下僕骨の数は増えたので、畑仕事の一部は任せて置けるだろう。
そんな訳で早速、次の日に二度目の麦踏みを頼んでおいた。
霜がかなり降りたせいで土が浮き、そのままだと麦の根っこがやられてしまうらしい。
そして久しぶりに豚鬼たちを呼び出して、花園の大カマキリ狩りへ赴く。
これはすっかり忘れていたので、指摘を貰って助かったな。
花園は真冬にも関わらず、いつも通りの暖かな空気に包まれていた。
強敵相手に盛り上がるタイタスとニーナだったが、残念なことに赤いのには遭遇できなかった。
大カマキリを二匹仕留めて帰路につく。
グニルどもはかなり鈍っていたので、これからはもっと頻繁に呼び出すとするか。
その後、タイタスはニワトリと一角猪の世話に行き、ニーナとロクちゃんは子供たちと遊びに行ってしまった。
吾輩は分身を吸収しながら、五十三番と新しく増えた"幻惑"という技について話し合う。
『同じ文字を使っている以上、読めないはずはないからな。人間の眼には映らないのかとも思ったが、頭頂眼で認識出来ている以上そうとも考えにくい』
『文字として認識出来ないという技でしょうか? 情報の隠蔽ではなく、情報に細工してあるといったとこですか』
『うむ、脳内にまで作用するとは、恐ろしい効果だな』
『はい、これは是非、使いこなしてみたいですね』
『だが、どういう仕組みなのか、サッパリ分からんな。ただ一つ言えるのは、精霊は関わりないということくらいか』
『何かヒントでもあれば良いんですが……』
二体で黒棺様をじっと眺めてみる。
『むむむ、やはり吾輩には、普通に文字が読めているな。そこにあるのに、なぜか理解できない感覚か……』
『あ! 何となくそれと似た話、前に聞いたのを思い出しましたよ、吾輩先輩』
『本当か? いつどこでだ?!』
『ええ、ちょうど、この時ですね』
五十三番が指差したのは、幻惑の文字の数個上に記された単語――"乱心"という文字であった。
『これは確か、真っ黒沼に行った時の奴だな。何か不思議な蛙が居たとか――それか!』
『はい、おっさんが言うにはその蛙、どうしても武器が当たらないと。そこにいるのは確実なのに、殴ってみたらなぜか外れてしまうと』
『なるほど、それも認識が阻害されたと言えるかもしれんな。可能性は十分にありそうだ』
『では早速、調べてみますか? おっさんの勘違いかもしれませんが……』
『うむ、外れたところで、新しい能力が手に入るかもしれんしな。やるだけ無駄にならんだろう』
これは期待が持てそうだな。
乱心という響きも、幻惑とかなり似ている気がするし。
『ところで、何でそんな重要そうな生き物を後回しにしたんだろうな? 吾輩は』
『ええっと、ほら、アレですよ。次の日、ニーナさんが行方不明になって、そのドタバタで――』
『ああ、沼に沈んだ事件か!』
まったく、ニーナは何かと問題を引き起こすな……。
ただあの物怖じしない性格だからこそ、戦闘に関してはあれほど優秀なのかもな。
…………さて、明日は久々の黒沼巡りと決め込むか。
この寒さで、蛙が冬眠してないと良いんだが。