第百四十七話 水底の泥
そこはとても開けた場所だった。
天井は急激に高くなり、天蓋のように空間を覆っている。
目の前にはなみなみと水を湛えた湖が視界一面に広がり、左右や奥の壁はどこにあるのか全く分からない有り様だ。
うむ、もう少し明るければ、確認できるかもしれんが。
一応、遥か高みの天井には、ところどころで苔が緑色に光ってくれているが全く光量が足りていない。
もっと気合入れて光れと言いたいほど、フワッとした灯りである。
『……どこまで続いてるが、サッパリ見えんな』
『浅いところもあるみたいですが、はっきりしませんね』
反響定位で浮かび上がる景色には限度があり、精々気配感知と同じ三十歩ほどである。
それと音がちゃんと反響しないので、水の中の把握も難しいのだ。
『材料を持ち込んで、ここで小舟か筏を組み立てるのはどうだろう?』
『俺っち、良いこと思い付いたっす! 水の中を歩いていけば良いんすよ』
『倒す!』
得意げに顎を持ち上げてみせる長身の骨。
そんなニーナを、ロクちゃんが尊敬の眼差しで見上げる。
吾輩と五十三番、そしてタイタスは無音で顔を見合わせた。
目の前の暗い水面には、風もないのに小さなさざなみが立っている。
これ以上ないと断言できるくらい、超怪しい状況である。
『俺は遠慮しとくぜ。ロク助とニーナが行くってんなら止めねぇが』
『吾輩も賛成できんな。気配感知には何も引っ掛かっておらんが、そもそも水の中は察知しにくいからな』
大カマキリのような気配が殺せる相手だとなおさらだ。
『だったら壊れても大丈夫なので試せばイイっすよ! まず下僕ちゃんたちに歩かせてみたらどうっすか?』
『お、今回は珍しくまともな思い付きだな』
『倒す!』
『ほらほら~、アイデアを出させても、やっぱり俺っちが一番っすね』
ロクちゃんに兜を撫でられて、無意味に下顎を突き出してみせるニーナ。
なんだか激しくウザい。
最初の案に素直に賛同しといて、水の底に沈めた方がちょっとスッキリしたかもしれん。
カゴの一つをばらして、ツタを取り出し下僕骨の腰椎に巻きつける。
それほど長くはないが、危険を確かめるのは十分だろう。
『よし、まっすぐ三十歩進んでから、引き返してこい』
命令に従った下僕骨は、ためらう素振りもなく真っ黒な水の中へ足を踏み入れた。
遠浅になっていたのか、膝まで水に浸したままザブザブと進んでいく。
十五歩の時点で、不意にその体が腰まで沈んだ。
どうやら、そこから深くなっているようだ。
さらに五歩進んだ時点で、骨の体は一気に頭骨まで隠れてしまった。
全身が水中に消えたまま、ツタだけが水の中に引き込まれていく。
しばらくすると、ツタの動きが止まった。
三十歩まで行けたのか、それとも……。
しばらく待ってみたが、戻ってくる気配がない。
『よし、引っ張ってくれ』
『……この手応えは、骨一体分の重さじゃねぇぞ』
『まさか根掛かりか?』
『いや、動いているからそれはねぇな』
幸いにもツタは途中で切れることなく、下僕骨を岸まで届けてくれた。
ズルズルと引っ張られて水中から姿を現したのは、何とか動こう足掻く下僕骨とその体を覆う黒い何かだった。
『何だ、これは?』
『泥っぽいですね。底の方に溜まってたんでしょうか。いや、待ってください――!』
五十三番の制止の歯音に、下僕骨に近寄って観察しようとした吾輩は足を止めた。
その横でニーナとロクちゃんが、即座に剣を構える。
泥が動いていた。
音もなく骨の表面を這いずり回っている。
光を全て吸収したかのような黒い不定形の塊たちは、伸び縮みしながら下僕骨を覆い尽くす。
気がつくと黒い泥に包まれた骨の動きが、どんどん小さくなっていた。
同時にその体の体積も、見る見る間に減っていく。
やがて全て溶かされたのか、下僕骨は何一つ残すことなく消え去ってしまった。
ズルリと泥どもが蠢き、吾輩たちの間に緊張が走る。
だが身構える吾輩たちには興味が湧かなかったのか、黒いグニャグニャどもは湖へ向かい始めた。
水面を小さく揺らしながら、次々と水の中へ潜ってしまう。
そして最後に残った一匹だけが、ツタの上をノロノロと這いずっていた。
『こいつらは一体何だ?』
『生き物……じゃ、なさそうですけど』
黒い泥の周りには、馴染みの灰色の影は見当たらなかった。
代わりにあったのは、内部に渦巻く大量の水の精霊だった。
そのせいで最初は、ただの泥の塊と見間違えたのだ。
しかしよくよく見れば、その精霊の量は不自然なほどに多い。
まるで凝縮されたような……。
『うむ、精霊の集合体といったとこか』
『そうなのか? どう見ても、勝手に動いているようだが』
『どうも精霊に独自の意志が宿ったように思えるな。精霊生命体といったとこか』
『じゃ生きてるっすか? これ』
『倒す?』
叩けば簡単に分散しそうではあるな。
出来れば持って帰って、黒棺様に捧げてみたいところだ。
『檻に入れても、こぼれそうだしな。手桶を持ってくるべきだったか』
『骨を溶かしたので、桶も溶かされそうですけどね。鉄ならどうでしょう?』
『ふむむ、試してみるか。ニーナ。その兜を貸してくれ』
『ええ、嫌っすよ! これは俺っちのお気に入りっす!』
『ちゃんと洗って返すから。ほら、寄越せ』
強引に命令すると、しぶしぶといった感じで外して手渡してくる。
受け取った鉄兜を、ツタをゆっくりと消化中の黒泥に近づけて一部をすくい取った。
兜の内側にピッタリと収まった泥だが、しばらくするとモゾモゾと動き始める。
どうやら新しい棲み家を気に入ったようだ。
残った部分は、ツタを取り上げるとしばらくウロウロしていたが、そのうち諦めたのか水の中へと戻っていった。
溶かす対象を探す能力はなく、接触した物だけに取り付く感じか。
『ま、これで水の中を歩くのは、厳しいと判明したな』
『それも俺っちの手柄っすね!』
『倒す!』
またもロクちゃんに頭骨を撫でて貰い、ニーナは意味なく鼻骨を持ち上げている。
『そうそう、ちょっと思い付いたことがあるんですが』
『む、俺っちに嫉妬して対抗する気っすね、ゴッさん! 受けて立つっすよ!』
『ニーナは無視していいぞ。で、どんな考えだ?』
五十三番の提案は、シンプルで簡単であった。
矢に火を付けて、射ってみようというだけである。
だがこれで奥行きは、意外と簡単に確認できそうだ。
早速、ツタの残り小さく切って鏃に巻きつけ、火打ち石を打ち付ける。
燃え始めた矢を受け取った五十三番は、素早く右斜め前へ矢を放った。
少し方角をずらして、またも矢を飛ばす。
地底湖の水上が、続々と明るく照らし出されていく。
計六本の火矢で判明したのは、左右は矢の届く範囲に壁があったこと。
奥行きは相変わらず不明なこと。
それと小島のようなものが、水面のあちこちから顔を出していたことだった。
『あの水から出てる部分を利用すれば、奥へ進めるかもしれんな。よくやったぞ、五十三番』
『な、なかなかっすね。俺っちの好敵手と認めてやるっすよ!』
『倒した!』
今度は五十三番の頭を撫で始めるロクちゃん。
ちょっと節操がないぞ。
『ところで五本目の矢の時に見えたの、気づきましたか?』
『そいや、流木っぽいのが浮かんでいたな。こんなところに木とか生えるのか?』
『うむ、吾輩もそれは気になっていた。木だけにな』
『どこか、地上につながる流れが、あるのかもしれませんね』
『あ、俺っち思い付いたっす! あの木を燃やしたら、もっと周りがよく見えるっすよ』
『濡れているから厳しいと思いますが、やってみましょうか?』
無言で矢の先に火を灯す吾輩。
五十三番は先ほどの一瞬の輝きに浮かんだ景色を頼りに、グイッと弓弦を引き絞って見せた。
弧を描きながら暗闇を貫いた火矢は、軽々と流木に突き刺さる。
そして次の瞬間、水面が真っ二つに割れた。