第百三十話 吊り目の男
その男は汚れた寝台に寝そべったまま、階下から聞こえてくる喧騒に耳を傾けていた。
生者の喜びを謳う教会の一階は、酒場として開放されている。
昼間から声高に騒いでいるのは、仕事にあぶれた鉱夫たちだろう。
このコールガム子爵領の中部に位置するニッジレアは、銀の鉱山で栄えた街だ。
もっともそれは五年以上も前の話である。
採掘量はとうに最盛期を過ぎ去り、下降の一途を辿っている。
閉山間際という噂も良く耳にする。
だがそれでもこの街にしがみつく人間は、まだ数多く存在していた。
過去の素晴らしかった日々が忘れられないのか。
終わりがすぐそこまで迫っているというのに、頑なに目を背け続けている。
空になった皿に残ったソースを執拗にスプーンですくい上げる父親の姿を思い出し、男の唇はわずかに弧を描いた。
「珍しいわね。何か良いことでも思い出したの?」
寝台に腰掛けて身支度を整えていた女が、少しだけ驚いた顔になる。
母親の腹に表情を置き忘れてきたような男が、柄にもなく笑っているのだ。
男は笑みを隠さないまま、何でもないといったふうに手を振った。
そのまま脱ぎ捨ててあった自分の服に手を伸ばし、一通の手紙を取り出した。
サイドテーブルにあった小刀で、封を切り中身を広げる。
差出人は呪いの森の近くに出来た村の住人だ。
粗末な紙には、近頃の村に起こった変化が恨み言混じりで綴られていた。
畑が広がった分、収穫量は増えたが、不作だったところに分け与えろというあり得ない命令をされたこと。
苦労して作り上げた橋を、集り蝿のような商人どもに途轍もなく安い値段で渡らせていること。
そしてもっとも長く文量が割かれていたのは、村に増えだした農奴のことであった。
卑しい奴隷の分際で、村に我が物顔で出入りする輩の許せなさ。
そいつらを養うために、わざわざ食べ物を買い与える村長のとんでもない所業。
さらには乞食どもを、贅沢な角石の家に住まわせる度し難い愚行まで。
密告者の文は、最後に豚飼いに甘んじなければならぬ己の運のなさを嘆き、一刻も早く呪われた骨どもから解放してくれとの結びで終わっていた。
角石というのは煉瓦のことだろう。
王都ではあまり珍しくはないが、この辺りでは領主の館でも滅多に使われない。
おおかた、村に滞在していた石工連中の長ボルジの入れ知恵と思われる。
「煉瓦とは、また張り込んだものだ。しかも農奴のためにだと……」
手紙を暖取りの火桶に投げ入れた男は、もう一度唇の端を小さく震わせる。
随分と呑んだくれているのか、鉱夫たちの賑やかな笑い声がまたも真下から響いてきた。
話が弾んでいるようだ。
「おい、聞いたか? 教会領の村の話」
「なんか橋が出来たって話か? 嘘っぱちか、木の板を並べただけってオチだろ。頑丈な石の橋が一年そこらで出来るわけもねぇよ」
「ああ、それ本当らしいぞ。荷降ろししてた御者連中に聞いたが、何でもあっという間に出来ちまったらしい」
「橋の話なんぞ今更だ。今度は石造りの道や家まで出来てるって噂だぜ」
「しかも逃げ込んだ農奴どもを住まわせて、只で飯を食わせているって聞いたぞ」
「どうなっちまってるんだ? 創世の神様ってのはそこまで太っ腹なのかよ」
「ハッ、こんな小便みたいな麦酒で金取ってるような神様がか?」
「とっくにケツまくって、その教会領とやらに行っちまったんだろ」
「かもしれねぇな。俺もさっさとこのゴミ溜めからおさらばしたいぜ」
髪を梳いていた女の下唇が歪む。
立ち上がった男は、鏡台に向かう女をそっと後ろから抱き寄せた。
そして銀貨の詰まった小さな革袋を、豊満な胸の谷間に落とし込む。
「ふふ、お布施、ありがとうございます。ご満足頂けたかしら?」
「創世の母の慈悲深さ、たっぷりと堪能させて貰ったよ、ルーリア教母様」
女の白い首筋に軽く唇を這わせながら、男は次の仕事について考えていた。
最初のは、盗賊どもをけしかける簡単な仕事だった。
男爵領で存分に働かせれば、いけ好かない男爵の信用も落ちるし最北街道の利用者も減るという狙いだ。
子爵領はこの鉱山の街を始め、流通の大半は中部に偏っている。
中街道を行き交う商人が少なくなることは死活問題であった。
だが盗賊の評判が広がり始めたかと思うと、ある日不意に途絶えた。
提供した古い砦は崩れ落ち、潜り込ませていた子飼いの騎士たちも消息を絶つ。
それから、しばらくしてのある日。
王都で知り合った古い顔見知りから封書が届いた。
へりくだった挨拶を何度も繰り返す手紙の中には、驚くべき事柄が記されていた。
呪われた骨によって、村を支配されているというものだ。
見た目は人骨のそれらは人と同じように歩き回り、巧みに武器を操るのだという。
その上、言葉らしきものさえ発して、人を従わせる恐ろしい力さえ持つと。
すでに村長や教母までも取り込まれてしまったため、一刻も早く村の解放に手を貸して欲しいという男の嘆願で手紙は終わっていた。
最初は法螺か騙りのたぐいかと思えた。
その痩せぎすな知り合いは、体型に似合わぬ大きな嘘をつきたがる男であったからだ。
だが説明の付かない噂を多く耳にするにつれ、その手紙の内容は真実味を帯びてくる。
いきなり大量に広がった畑。
数日で出来上がった丸太柵。
この寒期に行われた河岸の造成に、橋造りまで。
どれほどの人足を使えば、成し遂げられるというのだろう。
その昼夜を問わない気違いじみた働きぶりは、人の手では到底あり得ない。
だが不平不満を言わぬ骨ならどうだ?
同時に男は、鉱山で働かせている小鬼の捕虜たちから聞き取った話を思い出した。
滅びの骨――呼び名の通り、彼らの帝国を滅びへ駆り立てる存在だと。
見つけ次第、残らず叩き潰す必要がある存在だとも。
それらは意思を持って自由に動き回る、骨の姿をした怪物であるらしい。
まさに知り合いの村に現れた骨と、特徴は符号している。
男の次の仕事は、小鬼どもの解放だった。
少しばかりの食料を持たせ、口頭で骨の居場所である村の位置を教えておく。
憎しみに駆られた彼らが、彼の地に攻め込むようにと。
それと森の中に仕掛けられていた罠の一つを外しておいた。
骨たちを誘い出せればとの狙いであったが、その後の様子を見るに、森を抜けて自国へ辿り着けた小鬼はいなかったようだ。
三番目、今の男の仕事は、かの村へ農奴を流し込むことである。
いくら労働力があろうとも、食料を無限に生産できるわけもない。
これからの時期は、さらに厳しいものとなろう。
その上、農奴の一部には、こっそりと兵士たちを紛れ込ませている。
機を見て暴動を起こさせれば、骨の正体は早々に明るみになるという目論見だ。
もっともこの行為のせいで、北部の村はますます荒れ果てていってるが。
小鬼に攻め込まれて以来、この国は大きく変わりつつあった。
すでに王国の領主の多くは生産力の低い農奴制を捨て、農夫たちに土地を貸し与えその収益の一部を収めさせる荘園制へと移行していた。
しかしこの子爵領は、何一つ変わろうとしない。
農奴とは生まれつきの役立たずな怠け者であり、自由にさせるなど論外であるとの考えだ。
騎士の制度もそうだ。
塹壕を自在に作り出す小鬼たちを前に、従来の騎馬での戦い方はとうに意味を失くした。
それでも彼の父、コールガム子爵ロイバッハ卿は、金のかかる軍馬と騎士の維持には余念がない。
古びたやり方にしがみつく無能な当主によって、この地はとうに食い尽くされた空の皿同然なのだ。
皿を埋めるには、他所から持ってこさせるか奪い取るしかない。
…………もしくはいっそのこと、誰かに皿を割ってもらうという手もある。
男は娼婦であり教母でもある女の耳朶を甘噛しながら、大事な案件を確認しておく。
「前に言っていた司教様の西領視察、いつ頃って話だったかな?」
「そうね、春来節の前後だから四月辺りになると思うわよ」
それまでにあの村がどう変わっているのか。
今から楽しみで仕方ないと、男は静かに目を細めた。