第百十九話 欲する望み その三
三人となった黒鎧の男たちは、盾を構えて再び壁を作り上げた。
足元に横たわる元仲間を、一瞥する素振りさえない。
その背後から、黒衣の小鬼が銀の鎖を小さく擦り合わせる音が聞こえてきた。
「……あの鎖を通じて、鎧たちの中身を操っているんですかね」
「飼い主が死んだら道連れとは、随分とエグい真似をしやがるな」
二骨は短く歯音を交わしながら、油断なく状況を分析する。
「後ろは片付けましたから、残りはあの四人です」
「グリンブルは?」
「まだ全力で走るのは無理ですね。おっさんはどうします?」
一角猪を置いていけば、逃げるのはさほど難しくはなさそうである。
五十三番の問い掛けに、タイタスは残った左腕で盾を構え直し腰を落とした。
「俺は吾輩さんみたいに、精霊なんちゃらは見れないが……。どうも相手さん、本気になったようだぞ」
確かにタイタスの言葉通り、小鬼の纏う空気は明らかに変化していた。
つい今し方とは比べ物にならないくらい、殺気めいたものを放っている。
逃してくれる気は皆無な様子に、五十三番は溜め息代わりに喉骨を軽く軋ませた。
「まぁ……どのみち、俺の腹も限界だ。アイツを食わなきゃ治まらねぇよ」
「分かりました。フーがまだ飛べるようですから、最悪アイツが知らせてくれるでしょ」
地面に転がるカラスは、じっと死んだフリを続けている。
この場所まで吾輩先輩たちを案内してくれれば、破片の回収はしてくれるだろう。
どの程度の状態なら復活できるのか、試すには良い機会かもしれないな。
弓を構えながら、五十三番はふとそう思った。
深い森の中、四匹の鬼と二体の骨の最後の死闘が始まった。
不意に予兆もなく、タイタスの足元から土の柱が飛び出してくる。
それは先ほどとは別物のように速く、そして鋭さを増していた。
密度も高まっているのか、不気味なほどに黒い。
先端に向けて曲線を描くそれは、禍々しい獣の牙を思い起こさせた。
咄嗟に盾を下に向けて受け止めるタイタス。
土の塊がぶつかったとは思えぬ音が響き、その巨体が押し負けて吹き飛ぶ。
その背後を貫くように、新たな牙が突き出された。
「二本だと!」
空中でタイタスの腰が唸りを上げて回転し、背骨を狙ってきた二本目の牙を強引に蹴り飛ばす。
またも硬音が鳴り渡り、タイタスの踵から突き出した骨の角はあっさりとへし折られる。
何とか直撃を退けた巨骨であるが、たった一度の攻防でその盾は大きく凹み、踵骨には無残なヒビが走っていた。
その間に五十三番が撃ち込んだ矢は三本。
だが矢は尽く、黒い鎧の男たちの盾に跳ね返されていた。
主を守りきった黒鬼たちは、盾を構えたままその場を動こうとはしない。
どうやら前に出て足止めするやり方から、防御に徹する作戦に切り替えたらしい。
多分、これが本来の戦法なのだろう。
となると今までのは、こちらを無力化するのが目的だったのか……。
考えあぐねる五十三番を急かすように、タイタスの歯音が響く。
「まともに受けてるとあんまり保たねぇぞ、ゴーさん!」
「避ける方に集中して下さい、僕も手伝います」
前の土柱は分かりやすい揺れを伴っていたが、本気となった土牙にはそれがない。
なら直前の地面の変化を察知するしかない。
五十三番は意識を地面に集中させて、わずかな先触れを見逃すまいとする。
目まぐるしく動く視界。
五十三番の頭骨が、タイタスの斜め後ろの地面に生じた小さな亀裂を拾い上げた。
その逃げる先を予想した斜め前にも。
黒い牙が突き出すとほぼ同時に、巨体はその噛み合わせから逃れるように飛び退る。
ギリギリを掠めながら、牙は空へ突き出された。
着地と同時にタイタスは、前へ駆け出す。
狙いは鎧の男たちであった。
しかし数歩も行かない内に、地面を蹴りつけて方向を変える。
直後、タイタスが居た場所を、挟み込むように土の牙が貫いた。
大きな骨は背中に目があるかのように、完璧に地中からの攻撃を躱していく。
五十三番との視界共有で失敗したのは数ヶ月前。
あれから二骨で出かける度に、言い争いとともに訓練を重ねてきた成果が現れていた。
小鬼の側へ近付こうとタイタスが奮闘する間、五十三番は盾の隙間を狙い矢を射続けていた。
同時に少しずつ、左側へと移動していく。
逆にタイタスは、右側へと敵の目を引き付けていった。
無論、迂闊に動けば二本の牙が襲い掛かってくる危険性は十分にある。
そのため牙の予兆が二つ確認できてから、崩れ落ちるまでの短い時間の間でしか動けなかったが。
そしてとうとう、五十三番は小鬼の姿をあと一歩で捉えるところまで近付く。
視界の右端では、二ヶ所の牙の気配からタイタスが身を躱そうと動く姿が映る。
弓を構えながら踏み出したその瞬間――。
待ち構えていたように、三本目の土の牙が地面から飛び出した。
陶器を砕くような音と同時に、右足の大腿骨が割れ、坐骨が打ち抜かれ、肋骨が軒並みへし折られる。
真っ直ぐに突き抜けた牙は、そのまま五十三番の鎖骨を砕き、頭蓋骨まで貫いた。
様々な映像が、五十三番の頭骨内を駆け巡り消えていく。
吾輩先輩と交わした言葉。
一緒に戦った大蜘蛛。
子犬を棺へ投げ込むロクちゃん。
火吹きトンボに安堵する吾輩先輩。
首だけのロクちゃんが念の糸を伸ばし――。
そこで五十三番の意識は覚醒した。
瞬時にその全身骨格に、念の糸をより強くして張り巡らす――魂糸結合。
衝撃で後方に倒れ込みながら、五十三番はバラバラに砕けたはずの骨片へ無数の糸を伸ばした。
そして全て拾い上げると同時に、元通りの形に再結合していく。
一拍の間を置いて、何事もなかったかのように五十三番は元に戻っていた。
もっともその全身には、無数のヒビを伴っていたが。
「おお、凄えな、ゴーさん!!」
「駄目かと思いましたよ。なるほど……今のが走馬灯か」
返事をしながら、五十三番は慌てて後ずさった。
今は魂糸で辛うじてくっつけているだけなので、気を抜くとたちまちバラバラに戻ってしまう。
「三本目の牙を隠していたようですね。まんまとやられました」
「仕方ねぇ、俺が時間を稼ぐ。あとはよろしくやってくれ――来い、グリンブル!」
五十三番がまともに戦えない状態だと見抜いたのか、タイタスは盾を持ち上げると真っ直ぐに走り出した。
主の声に応えた一角猪も、大地を蹴って後に続く。
同時に動き出した骨と猪に対し、黒衣の小鬼は細い杖で地を打って牙を呼び出す。
眼前に生まれた土の柱を豪快に蹴り飛ばし、代償に左足を失ったままタイタスは瞬く間に黒い盾の壁へ迫る。
猪もまたがむしゃらに、角で土の柱を砕いて駆けつける。
二体の黒鬼が、盾を構えて前に出た。
それぞれの渾身の当たりを、力の限りを尽くして耐えしのぐ。
大きく押し込まれはしたが、小鬼にあと一歩のところでタイタスたちの動きは止まる。
終わりかと思えた瞬間、唐突に巨骨は盾を手放した。
そして傍らの猪へと手を伸ばす。
「……すまんな」
猪の短い鼻息の返事を聞きながら、タイタスの手はその背を優しく撫でる。
――脱力。
飢えきっていた骨の体は、容赦なく猪の生気を吸い上げた。
タイタスの右腕と左足がみるみるうちに元に戻る。
全身の骨を取り戻した大きな骨は、激しく歯を打ち合わせた。
「どけぇぇぇ!!」
黒い盾を掴むと、そのまま引き剥がす。
二体の守りの隙間をこじ開け、体を踏み入れたタイタスを待ち構えていたのは、三体目の黒鬼だった。
主を守るべく、最後の盾が挑みかかる骨と対峙した。
側面を守る者が消えた今こそが、絶好の機会であった。
見逃すまいと弓を持ち上げて、弦を振り絞る五十三番。
だが小鬼の視線が一瞬だけ、自分の方へ向けられた意味を五十三番は悟る。
この局面で、あの小鬼は牙を温存していた。
明らかに矢への警戒である。
しかしここで仕留めなければ、もうチャンスはない。
見捨てて逃げるなどは、最初から五十三番の選択肢には入っていなかった。
天秤の片方には、唯一無二の盾役。
もう片方は代役が効く弓使い。
どちらを吾輩先輩が必要とするかなんて考えるまでもない。
――あの方の欲する望みのままに。
体中を覆っていた魂の糸を解き、腕と肩と背骨だけに集めていく。
ぐるぐると巻きつけ、より強く、より速く。
限界を超える力で引き絞られる弓。
折れないように、切れないよう、魂の糸が弓にも巻き付く。
そして黒き鏃の矢は、果てを越えた力を込めて放たれた。
すでに小鬼の杖は、地を打ち据えている。
即座に三本の土の柱が、射線を塞ぐように立ち上がった。
一直線に牙へ向かう矢。
黒みを帯びた障害物は、音もなく穿たれた。
牙たちを貫通した矢は、驚愕の色を浮かべた小鬼へと達する。
胸に大きな穴が開いた黒衣の主は、血を吹き出しながら声も出さず崩れ落ちた。
鎖が地面に落ち、黒鬼たちが一斉に盾を投げ捨てる。
地面にのたうち回る男たちの有り様を見ながら、五十三番は満足気な歯音を立てた。
すでに魂力は、ほとんど残っていない。
全身の骨を維持できず、その体は細かな破片へと化していく。
最後の魂力をかき集めた五十三番は、頭部の一片に託してバラバラに砕け落ちた。
骨片の山となった弓使いへ、慌ただしい足音が近付いてくる。
太い腕が伸び、その中の一片を拾い上げた。
不思議な模様が入ったソレを、タイタスは手の平の上で軽く転がしてみた。
その破片には、驚いたことにまだ魂力が残っていた。
見ていると、じわじわと再生を始めているのが分かる。
「ギャッギャ!」
大きな安堵の歯音を漏らしたタイタスの肩に、不意に飛んできたカラスが止まった。
戦闘が終わったことに気付いて、様子を見に来たらしい。
「傷は大丈夫か? フギン」
「ギャ!」
「そうか。じゃあすまないが、こいつを吾輩さんに届けてくれないか」
「カァ?」
「これは何かってか? 大事な戦友さ。だから丁重に頼むぜ」
「ギャッギャウ!」
カラスは一声鳴くと、五十三番の頭骨の欠片を咥えて翼をはためかせた。
その後ろ姿を見守ったタイタスは、ゆっくりと戦場を振り返る。
「やれやれ、吾輩さんが発狂しなけりゃ良いがな……。ふう、腹が減ったぜ」