第百一話 拡大する領域
真っ直ぐな木の枝を握りしめた少年は、目の前の相手に意識を集中させた。
相手が持つ得物も少年と同じく只の木の枝であるが、長さは半分もない。
しかも片手で軽く持ち上げているだけで、やる気の欠片も感じ取れない構え方だ。
だが少年は嫌というほど知っていた。
あの小枝の一振りは、やすやすと肌に青痣を作ってしまうのだと。
小さく息を詰めた少年は、動くタイミングを見計らう。
正面から行けば、一歩引かれて手首を叩かれるだろう。
小枝を持つ手の側に回り込めば、逆に踏み込まれて頭か肩を払われる。
では逆側からの横薙ぎは……、それこそ回り込まれて終わりだ。
唯一、少年が相手に勝っているのは、枝の長さくらいである。
ならば、それに掛けるしかない。
少年は覚悟を決めて枝を握り直した。
息を吸い込むと同時に強く踏み込み、木の枝を一直線に突き出す。
狙いは相手の枝を持つ手だ。
得物の長さを考えれば、必ず先に届く――。
喉元に突き付けられた小枝に、少年は目をパチクリさせた。
寸前までそれは、踏み込む先にあったはず……。
だが今は、まるで最初からそこにあったかのように、小枝は少年の眼前に存在していた。
理解を超える状況に言葉を失った少年の耳に、カチカチと笑う歯音が響いてくる。
「はい、また俺っちの勝ちっすね。アル坊は弱すぎて話にならないっすよ」
「ま、参りました。先生」
「何度も言ってるっすが、アル坊は素直過ぎっす。突きは不意打ちだからこそ有効っすよ。あんな打ち気を出してたらバレバレっす」
「すみません、つい力が入っちゃって……。でも凄いですね。気がついたら、先生が目の前に立ってました」
「アル坊もそのうち出来るようになるっすよ。ちゃんと言い付けた通り練習してるっすか?」
「はい、先生!」
ニーナ先生曰く、殴り合いで一番頼りになるのは、腕力や体力ではなく眼力と足捌きであると。
そんなわけでアルも暇を見つけては、間合いを詰める寄せ足や引き足を試しているのだが、ニーナ先生のあり得ない足運びにはまだまだ遠く及ばないようだ。
再び間合いをあけて稽古を続けようとした矢先、重々しい正午を告げる鐘の音が響いてきた。
少年は残念そうに肩を落としたあと、慌ててここに来た用事を思いだす。
「あっ、忘れてました! 父さんが師匠に至急、相談したいことがって――」
▲▽▲▽▲
事の発端はやや少し前、村長たちが王都から戻ってしばらくしてのことである。
ちゃんと村長は言い付け通り、大工を含む六人の男女を連れ帰ってきてくれた。
彼らが大変有能だったのは村にとって喜ばしい話だが、これはその後の事件とは全く関係はない。
それが起こったのは、朝の日課となっていた兎の処理の最中だった。
兎の頭を投げ入れた瞬間、黒棺様がパンッと光ったのだ。
輝きは一瞬であったが、吾輩は即座に理解する。
「これは、……もしや機能開放か?」
「間違いないですね。あの時と一緒の光でした」
「倒す!」
「お、ここに何か書いてあるって、ロク助が言ってるぞ。うーん、霊域拡大? ……何だこりゃ?」
文字が浮かんでいたのは、棺の上部にあたる側面だった。
なぜ上部が分かるかというと、棺から骸骨が湧く時、そっちを頭にして起き上がるからである。
「何っすか? その機能開放とか霊域拡大って」
「それはな、角々骨々だ。よし、まずは条件から絞っていこうか」
「余計に分かんないっすよ! ワーさん」
面倒なのでニーナは後回しだ。
投げ入れたのは、死体だったので今回は総命数がトリガーではないな。
「呼び出した骨は何体でしたっけ?」
「一昨日ので百七十四体目だな。このところ損耗が少ないから、数は増えていないぞ」
「他に切りの良い数字はないのか? 黒棺様大好きな吾輩さんなら何か思い当たるだろ」
「倒す?」
「お、それだ、ロクちゃん! これまで倒した数か」
うん、ピッタリの数字があった。
さっきの兎は、死体を含めちょうど黒棺様に捧げられた千体目の生き物だったのだ。
このところずっと欠かさず、兎やネズミを捧げてきた成果か出たか。
「よし、解放条件は分かったな。で、次は何が開放されたかだ。霊域って何だ?」
「うーむ、タイタスは、ちょっと鈍いから気付かんか」
「あ、俺っち分かるっす。何か空気が違うっすね」
「ですね。落ち着くというか、馴染むと言った方がしっくり来ますね」
吾輩たちを包む空間、多分洞窟全体だろうか、明らかに変化していた。
上手く言葉にしにくいのだが、吾輩たち本来の居場所のような安心感が生じたといった感じである。
「これはつまり、黒棺様の中に居た時のような……」
「なるほど、棺が外にまで拡大したってことか」
「あ、それですよ、おっさん。鈍いくせに、分かってるじゃないですか」
「鈍いんじゃねぇ。守りが硬いと言ってくれ。で、具体的にどうなるんだ?」
タイタスの言葉に、吾輩たちは一斉に首を捻った。ゴキリ。
「動きやすくなったとしか……」
「あ、ここ見てください、吾輩先輩」
五十三番の呼び掛けに、吾輩たちは急いで棺の反対側へ移動する。
こっちの面は、骸骨を呼び出す偽魂創生のある方だな。
ざっと見るが、文字に変化は――あっ、色がついてるぞ!
これまで灰色だった生き物たちの名前が白くなっていたのだ。
さらにその横の空白だった場所には、円形状に何かの平面図らしきものが浮かんでいる。
「これは洞窟の見取り図っぽいですね。ほら素材部屋に骨部屋、飼育部屋はここですね」
「応接室もちゃんとあるな。つまりここが現在の霊域だということか」
「取り敢えず猪を呼び出してみるか。これだと捕まえに行かなくて済むから楽だな」
「倒す! 倒す!」
「待て待て、なに勝手に操作してるんだ、タイタス。ロクちゃんも呼び出したのを倒しちゃ駄目だろ」
「最初はコウモリあたりが良いんじゃないですか?」
「俺っち、この棘亀ってのを見たいっす!」
五十三番の提案を採用し、蝙蝠の文字に触れてみる。
「選択できるのは、攻撃と防衛だけか。骨だと集魂と司令があったのにな。うん、何だこれ」
攻撃を指した指先が、なぜか平面図の方へと引っ張られる。
……場所を選べということか。
そのまま現在地を指し示した瞬間、闇が固まったような動きとともにコウモリがいきなり宙に出現した。
「うわっす!」
途端、ニーナの両手剣が空を切り裂く。
真っ二つにされたコウモリは、地面に落ちたと同時に溶けたように消え失せた。
「今の何すか? 急に出てきたっすよ」
「倒した!」
「そりゃ呼び出したら出てくるだろ。次は切るんじゃないぞ。ほら、ロクちゃんも剣を仕舞え」
「棺からじゃないんですね。ああ、黒棺様よりも大きい奴もいるからか」
仕方がないので、もう一度呼び出してみる。
宙に現れたコウモリはパタパタと飛び回ったあと、そのまま天井に逆さまにぶら下がった。
「総命数が併せて4減ってるな。棺に入れて増えた時と同じ数が消費されるのか。……棘亀を選ばなくて本当に良かったな」
「ですね、死体の回収も無理みたいですし」
倒すとすぐに消えてしまうのでは、どうやっても不可能だな。
「あれ自体は回収できるのかな。ちょっと捕まえてくれるか? ロクちゃん」
「たおす!」
軽々と飛び上がったロクちゃんは、コウモリを鷲掴みにして吾輩へ差し出す。
受け取った吾輩は、ノータイムで棺へ投げ込む。
だが受け取りは拒否された。
棺の底にぶつかって跳ね返ったコウモリは、宙へ飛び上がりまたも天井へと戻ってしまう。
「命数や魂力はあるが、偽魂と魂は別物ということか」
「呼び出せる場所って、どうもこの洞窟の中だけっぽいな」
視線を向けると、タイタスが一角猪を今まさに呼び出そうとしてた。
慌ててその後頭骨をゴツンと殴る。
「いや、ここだけなら呼び出したりしねぇよ。外で乗れなきゃ意味がないだろ」
「……何とも微妙な機能ですね」
五十三番の指摘の通りだった。
自由に生き物を呼び出せるようになったのは良いが、場所はこの狭い洞窟内だけ。
命令も出来ず、死んだら消えるので何も回収出来ないときた。
「精々、洞窟の守りが厚くなるくらいか」
「あ、俺っち、技の練習に使いたいっす」
「それなら生きた方でやればいいだろう。あと命数が高いのは、勿体ないからダメだ」
「ぶーぶー、ワーさんのケチっす!」
うーむ、千体もの生き物を回収していたら、そろそろより強い存在に気付かれる頃合いだとも言える。
それを考慮して、守りを強化する意味合いがあるとかか。
だが、拡大という言葉が少し引っ掛かるな
「もう少し調べてみないと、ハッキリした結論は出せんな。おい、兎を」
下僕骨に命じて、まだ処理が済んでいない生きた兎を持ってこさせる。
コウモリを出した分は、補充しておかないとな。
黒棺様に捧げる寸前、いつもの調子で首をクイッと捩じ切る。
……あ。
「あっ!」
「誰だって失敗くらいはする。大事なのはな――」
「いえ、違いますよ、吾輩先輩。今、増えました」
「何がだ?」
「総命数がです。ええ、間違いありません。1701でしたけど、今は1702になってます」
この時の調査で黒棺様の領域である洞窟内で生き物が死んだ場合、自動で魂が棺に回収されることが判明した。
さらにその後、開拓した土地を肥やすため森の奥から腐葉土を運ぶ際、大量のムカデを捕獲することが出来た。
これを使って洞窟内で実験した結果、なんと能力の方も死亡時に吸い取っていることが分かった。
…………霊域、恐るべしである。