第1話 セント・アルバート学院
足元が大きく跳ねた。
天井から砂と小石が降り注ぐ。通路のあちこちで、石が擦れ合う重い音が続いていた。
「止まるな!」
前方で誰かが叫ぶ。
レインは走った。
床に刻まれた線が一斉に青白く光る。光は中央区画へ向かい、そこから遅れて北側へ流れていった。
次の瞬間、主通路の床へ亀裂が走った。
地面が沈む。
前を走っていた学生が足を取られた。
考えるより先に、レインはその腕をつかんだ。入口側へ身体ごと押し出す。
「走れ!」
学生が伸ばされた腕に引き上げられる。
代わりに、レインの足元が崩れた。
身体が傾く。
石床の縁へ伸ばした手は届かなかった。
「レイン!」
黒い縄が飛んできた。
先端の輪が右腕へ巻き付き、落下が止まる。肩に強い衝撃が走り、視界が白くなった。
痛みをこらえて見上げる。
フィンが両手で縄を握っていた。その隣では、セシリアが崩落箇所の縁へ術式を構築している。
淡い光が広がり、崩れ続ける石板の下へ半透明の足場が生まれた。
「今のうちに引き上げて!」
縄が引かれる。
レインの身体が少しずつ上がっていく。
あと数メートル。
その時、崩落した空間の下で青白い光が灯った。
光は石床の断面から縦穴へ伸び、レインの頭上で弧を描く。
フィンとレインをつなぐ黒い縄が、その中を通っていた。
細い線が一周する。
見たことのない術式だった。
「何だ、これ」
外周が閉じた。
音はしなかった。
縄が切れた感触もない。
それでも、身体が再び落ち始めた。
「レイン!」
フィンの声が遠ざかる。
頭上に青白い膜が広がった。
その向こうで、セシリアが縁へ身を乗り出している。片手は崩落箇所を支える術式へ向けたまま、もう片方をこちらへ伸ばしていた。
届く距離ではない。
分かっているはずなのに、その手は下ろされなかった。
金色の髪も、フィンの姿も、崩れた通路も、青白い膜の向こうへ消えていく。
レインは暗闇へ落ちながら、頭上で閉じた円を見上げた。
何が起きた?
あの円が閉じた時、何が起きた?
答えを考えるより早く、背中へ激しい衝撃が走った。
◇
それより前。
列車が速度を落とし始めた。
規則正しく続いていた車輪の音が、少しずつ弱くなる。
レイン・アークライトは読んでいた本から顔を上げた。窓に映る自分の顔をぼんやり眺める。
少し伸びた黒髪。琥珀色の目の下には、うっすらと隈が浮かんでいた。
特別目立つところはない。
どこにでもいる十七歳の少年だった。
窓の外には湖が広がっている。
春の日差しを受けた水面がきらきらと光り、その向こうに石造りの建造物群が見えた。
幾つもの尖塔。長い回廊。
中央には空へ突き刺さるような時計塔。
セント・アルバート魔導学院。アルビオン王国で最も有名な学校だった。
周囲の乗客たちも窓の外を見ている。
新入生らしい少年少女は、期待と不安を半分ずつ顔に浮かべていた。
レインは再び視線を本へ落とす。
表紙には『第三文明期北方遺跡調査報告』と記されている。
何度も読み返した古い本だ。頁の角は丸くなり、綴じ糸の一部も緩んでいる。新しい版が出ていることは知っていたが、掲載されている平面図はこの版の方が大きかった。
余白には、これまで気づいたことを細い字で書き込んである。書いた時には正しいと思っていた推測を、後から二重線で消した箇所も多い。
答えを増やしたというより、間違いを増やしてきた本だった。
特に気になっている箇所がある。
著者は調査対象の遺跡を、宗教施設だったと結論付けていた。だが、掲載された平面図を見る限り、床面に残る術式は礼拝用にしては魔力経路が多すぎる。
それどころか、建物の通路そのものが術式の外周を構成しているように見えた。
もちろん、ただの勘だった。
十七歳の学生が、長年研究している学者より正しい保証などない。
それでも気になる。
答えが分からないからだ。
「学院へ行くのかい?」
向かいの席から声を掛けられた。
顔を上げると、白髪の老婦人が微笑んでいた。歳の割には少し派手な、羽飾りの付いた帽子をかぶっている。
「はい」
レインはなるべく帽子へ視線を向けないよう、しっかりと目を見て頷いた。
「新入生?」
「そうです」
「楽しみだね」
レインは少し考えた。
本当は、学院で何を学べるのかが楽しみだった。今まで本の中でしか見られなかった遺跡の記録も、正規の調査資料も、学院なら実際に確かめられる。
だが、うまく言葉にできる気はしなかった。
「そうですね」
無難に頷く。
老婦人は期待した答えを得られたように、満足そうな顔をした。
その時、到着を告げる鐘が鳴った。
列車が停止する。
乗客たちが一斉に立ち上がり始めた。
レインは老婦人へ軽く頭を下げ、荷物を持ってホームへ降りた。
春の風が吹く。
ホームは学生たちで溢れていた。
家族と話している者。
緊張した顔で周囲を見回している者。
すでに友人らしい相手と笑っている者。
それぞれが、新しい生活の入口に立っている。
レインは人の流れに沿って歩き、駅前広場へ出た。
目の前に広がった学院の全景に、思わず足が止まる。
遠くから見ても巨大だったが、近くではさらに圧倒された。
まるで一つの街が、そのまま学校になったようだった。
湖側には白い石造りの校舎が並び、反対側には赤い屋根の建物が段々に続いている。校舎と校舎の間を渡り廊下が結び、そのさらに奥では、細い橋が岩山の観測塔へ伸びていた。
どこまでが授業棟で、どこからが研究施設なのか、外から見ただけでは区別できない。
四年間あっても、すべての場所へ入ることはないかもしれなかった。
「これは……すごいな」
自然と声が漏れる。
「だろ?」
すぐ隣から声が返ってきた。
レインは少し驚いて振り向く。
見知らぬ少年が立っていた。
茶色の髪。人懐っこそうな笑顔。背格好はレインと同じくらいか、少し高い。
大きな黒い鞄を抱えているところを見ると、同じ新入生らしい。
長年使われたように革は傷んでいるが、鈍い光沢が残っている。かなり丈夫な品に見えた。
「俺も初めて見た時、そう思った」
少年は、どこか誇らしげだった。
「今日、初めて来たんだろ?」
「そうだけど?」
「じゃあ今が初めてだろ」
一瞬の沈黙。
少年が先に吹き出した。
「確かに」
レインもつられるように少し笑う。
「フィン・ブラックウッド」
少年が手を差し出した。
「レイン・アークライト」
一瞬だけ迷ってから、その手を握る。
「学科は?」
「遺跡学科」
「へえ」
フィンは神妙な顔で頷いた。
「珍しいな」
「そうかな」
「危険、地味、金にならない。三拍子そろってる」
「それは否定できない」
「否定しろよ」
また笑った。
馬鹿にしている感じはない。それだけで少し話しやすく思えた。
「ところで、一つ聞いていいか?」
フィンが周囲を見回す。
「何?」
「入学式の会場、どこだ?」
レインは数秒黙った。
「知らないのか」
「分かると思うか?」
「案内板を見ればいいんじゃないか」
「最初からそうすればよかった」
二人は案内板を探しながら歩き始めた。
話してみると、フィンはよく喋る男だった。
しかし押しつけがましくない。話したいことを話し、相手の返事も聞く。不思議と一緒にいて疲れないタイプだった。
広場を進んでいた時、周囲が少しだけざわついた。
レインは顔を上げる。
一人の少女が歩いていた。
長い金髪。背筋を伸ばした姿勢。周囲の視線を気にする様子もなく、真っ直ぐ前だけを見ている。
少女が近付くと、人の流れがわずかに左右へ分かれた。
「知ってるか?」
フィンが声を潜める。
「知らない」
「セシリア・アッシュフォード」
田舎育ちのレインでも、アッシュフォードの姓は聞いたことがあった。
王国内でも有名な魔法名家。戦術に関する魔法特許を数多く保有しているという。
入学前から注目されていた新入生の一人なのだろう。
セシリアは足を止めない。
誰にも話しかけない。
誰も話しかけない。
皆が彼女を避けているようには見えなかった。
むしろ、遠慮している。
そんな空気があった。
「友達、少なそうだな」
「お前、今のでそれが分かるのか?」
「何となく」
「絶対、適当だろ」
たぶん適当だった。
その時、セシリアがわずかに顔を動かした。
聞こえたのかと思い、フィンがまっすぐ前を向く。
だが彼女の視線は二人ではなく、広場の端に立つ案内板へ向いていた。
人だかりの後ろから行き先を確かめると、セシリアは何も言わず講堂の方角へ歩き出す。
「会場、あっちらしいぞ」
フィンが小声で言った。
「さっきも、そういう話をした」
「案内板を見ろって話か?」
「彼女が見つける前にな」
フィンは案内板とセシリアの背中を順に見た。
「結果は同じだ。会場は分かった」
「お前が見つけたみたいに言うな」
入学式の開始を知らせる鐘が鳴った。
新入生たちが学院へ向かって動き始める。
二人も流れに加わった。
◇
巨大な講堂には、すでに多くの学生が席についていた。
高い天井。壁一面のステンドグラス。磨かれた長椅子が、壇上へ向かって規則正しく並んでいる。
天井近くでは、小さな照明球がゆっくりと周回していた。窓から入る光が弱い場所へ近づくと明るさを増し、役目を終えると元の淡い色へ戻る。
レインが見上げている間にも、二つの照明球が互いの進路を譲るように高度を変えた。
仕組みを考え始めたところで、フィンに袖を引かれた。
「先に座らないと、立ったまま入学することになるぞ」
それは困る。
レインは視線を下ろした。
二人が空いている席を見つけた頃、最後の鐘が鳴った。
講堂の扉が閉じる。
やがて壇上へ、一人の男が現れた。
眠そうな目。
整えられていない髭を無造作に束ね、長い真っ白な髪を毛先で縛っている。
学長だと分かる濃紺の長衣を除けば、拍子抜けするほど普通の老人に見えた。
「誰だ?」
フィンが肘でレインを小突きながら、ひそひそと聞く。
「え、お前知らないのか?」
今度はフィンが驚く番だった。
「あれ学長だぞ」
フィンは思わず「えっ」と大きな声を出した。
隣の女学生に睨まれ、慌てて口を閉じる。
レインはそんなフィンを横目に、壇上を改めて見上げた。
セドリック・オルドレン。
現代最高の魔法使いの一人。
そう聞いていた。
だが目の前の人物は昼寝帰りにも見える。
眠そうだった瞼が、ほんの少しだけ持ち上がる。
その瞬間、レインは自分まで見定められたような感覚を覚えた。
「諸君を、王立魔法学院へ歓迎する」
講堂が静まる。
「君たちは今日からセント・アルバートの学生になる」
低く威厳のある、しかし穏やかな声だった。
不思議とよく通る。
「魔法を学びたい者もいるだろう」
「研究者を目指す者もいるだろう」
「世界を見たい者もいるかもしれない」
レインは軽く拳を握りしめた。
学長はわずかに笑った。
「何を目指すかは自由だ」
そこで一度言葉を切り、一人一人の目を見るように講堂を見渡す。
「ただ、一つだけ覚えておいてほしい」
講堂が静まり返った。
「正しい答えより、正しい問いの方が価値がある」
レインは、その言葉を聞いていた。
意味はすぐには分からない。
だが妙に心へ残り、何度も頭の中で反芻した。
正しい問い。
何のために作られたのか。
なぜ、その形でなければならなかったのか。
どうして、今は失われているのか。
答えが分からないことばかりだった。
だからこそ、知りたいと思った。
「諸君らの四年間が実りあるものになることを願う」
拍手と歓声が湧き起こる。
フィンが少し遅れて手を叩き始めた。
レインも壇上を見たまま、拍手へ加わる。
友人は、今知り合った一人だけ。
学院生活がどんなものになるのかも分からない。
知らないことだらけだった。
それでも、その事実が胸を高鳴らせていた。
正しい問いを見つけよう。
答えは、その後でいい。
レインはそう考えた。
やがて世界全体を巻き込む大きな問いに巻き込まれることも知らずに。




