【夜明けのポタ】
「早朝、空のバッテリーが満タンになる瞬間に会いに行こう」
名雪さんはそう言って、シェアサイクルを二台借りてきた。
白い車体、ハンドルに小さな電子錠。
駅前の路地はまだ眠っていて、新聞配達のベルだけが細く鳴る。
「今日は“のんびりポタリング”ね」
「承知です。安全第一でいきましょう」
「よろしい。ケイデンスは心のBPM、無理に上げない」
「心拍管理まで持ち出すと、先輩が本気のやつに見えます」
ペダルを踏むと、朝の空気が足の横でほどける。
ビルの影が歩道に長く伸び、ドロップハンドルもない簡素な自転車が、やけに頼もしい。
「ね、信号待ちのとき、立ち漕ぎの人たまに止まったままバランス取るじゃん。あれできたらかっこいい」
「手を話してもバランスとれるのすごいですよね、できる気しないです」
「私もむり。だから止まる!」
川沿いへ出る。カモが眠そうに首をすくめ、ジョギングの人がひとり。
橋を渡るたび、チェーンの音が違う。
油切れのギアのジャラジャラ、レンタル車の素朴なガラガラ。
どれも、今日の朝にしかない効果音だ。
「茨木くん、あそこ、朝日が落ちてる」
「朝日は昇りますよ」
「落ちてるって言いたいくらい濃い、の意」
「比喩の自由度が高すぎます」
土手の上、空が一段明るくなる。
街灯がすっと消えて、かわりに鳥の声がボリュームを上げる。
視界の端で、名雪さんの髪が少しだけ金色になる。
「ね、ここで止まろ」
ブレーキを柔らかく握る。
キィ、と鳴かないのは、今日は世界の機嫌がいいからだと思いたい。
「自転車ってさ、行ける場所を自分の脚で“増やせる”道具じゃん?」
「そうですね、自分の範囲が増えて、線が広がる感じです」
「そう、それ。地図に脚で引いた線。好き」
「本日のログは保存できませんが、記憶には残りますね」
「良いこと言う。じゃあ、この朝、保存っと」
俺たちはベルを鳴らさずに、静かに再生ボタンを押すみたいに漕ぎだした。
日常はたいてい重いけど、二本のタイヤはその重さをふたつの丸に分配して、前へ運んでくれる。
それを知っているだけで、今日の授業に少し勇気が出る。
■ポタリング
目的地や距離、スピードにこだわらず、自転車で気軽に散歩するようにのんびりと走ること
■ケイデンス
ペダルを回す速さ。回転数。坂道くんはすごい回す。
■立ち漕ぎの人たまに止まったままバランス取る
トラックスタンドというらしい




