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茨木くんと名雪さん  作者: 橘悠


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【両手をひらく理由】

ゼミ室に入った瞬間。


「わっ!」


「うおっ!?」


物陰から飛び出してきた名雪さんに驚いて、俺は反射的に両腕を広げた。


危うく持っていたノートを落とすところだった。


「……先輩、何するんですか!」


「おおー。いま完全にモロー反射だった」


「俺は大学生ですよ!」


名雪さんが満足そうに頷く。


机の上には、なぜか乳幼児の発達について書かれた本が開いてあった。


「モロー反射って、赤ちゃんがびっくりしたときに腕をぱっと開いて、そのあと抱きつくみたいに戻すやつでしょ?」


「そうですね。大きな音とか、身体が急に傾いた時などに出る原始反射です。普通は成長すると消えていくはずですけど」


「じゃあ茨木くん、まだ赤ちゃん?」


「今のは普通の驚愕反応です!」


二十年以上生きてきて、まさか赤ちゃん判定を食らうとは思わなかった。


名雪さんは椅子に座ると、両腕をぱっと広げた。


「でも、この動きちょっと面白いよね。びっくりした瞬間、まず世界を抱きしめる準備するんだよ」


「逆です。むしろ身体を広げてますよ」


「そのあと閉じるじゃん」


ぱたん。


名雪さんが自分を抱きしめるように腕を閉じる。


「ほら。“びっくりした! とりあえず何か掴もう!”って感じ」


「実際、原始的な防御反応の一つとして考えられているみたいですね」


「なるほど。赤ちゃん、装備ゼロだからなあ」


「初期ステータスですからね」


「チュートリアル中に突然大音量イベント起こされたら、そりゃ腕も開く」


「ゲームに例えると妙に納得できますね」


名雪さんはしばらく本を眺めていたが、突然スマホを机から落としかけた。


「あっ!」


両手がぱっと広がる。


スマホは机の縁で止まった。


俺は黙って名雪さんを見る。


「……今のは?」


「モロー反射」


「先輩も大学生でしょう!」


「人間の心には、生後四か月がずっと住んでいるのだよ」


名雪さんは何事もなかったようにスマホを拾った。


「でもさ、びっくりすると身体が先に動くって不思議だよね。頭では何も考えてないのに」


「反射ですからね。考えてから動いていたら間に合わないこともありますし」


「じゃあ、茨木くん」


嫌な予感がした。


「はい」


「後ろ見て」


「絶対に嫌です」


「なんで?」


「どうせまた驚かせるでしょう」


「そんなことしないよ」


信用できない。


しかし、気になる。


俺は警戒しながら、ゆっくり振り返った。


何もない。


「……何もないじゃないですか」


「うん」


「では、何だったんです?」


「人は“驚かされるかも”と思っただけで、ちょっと身体が固まるのか実験」


「俺を実験動物にしないで下さい!」


振り返ると、名雪さんがにやにやしている。


腹立たしい。


だが、確かにさっき俺の肩には力が入っていた。


予測していても、身体は身体で勝手に身構えるらしい。


「先輩」


「なに?」


「今度は俺が実験してもいいですか?」


「え」


俺が一歩近づくと、名雪さんは反射的に両腕を胸の前へ持ってきた。


まだ何もしていないのに。


「ほら、先輩も反応してるじゃないですか」


「これは防御姿勢!」


「チュートリアル卒業できてませんね」


「むー」


赤ちゃんの頃に消える反射があっても、びっくりした時に誰かや何かへ手を伸ばす癖は、案外ずっと残るのかもしれない。


そして。


その時にその手を掴んであげたいと思える存在がいる事自体がとても嬉しい事だと思った。

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