番外編 この海が雨になって降り注ぐなら、傘なんて捨てて、裸足で歩いて。 Ⅲ
「……は?」
九月中旬。「お前が俺の所に置いていった本、どうしたいかわからないから暇なときに家に来て」と葵月に呼ばれ、たまたま予定の無かった土曜日に彼の家に向かった。
大学生になってから、彼の家は度々宅飲みの会場になっていた。
一等地にあるにも関わらず、一人で住むには広い家だったので、あまりにも好都合だった。彼もそれを嫌がる素振りはなかったけれど、有難く使わせて貰っている事への感謝を忘れるほど自分たちは子供ではない。絶妙な塩梅の謎の品を気持ち程度のお礼という体で渡す事がいつからか流行りだした。献上された謎の品の数々に「これは何?」と笑いながら顔を顰める葵月を見て楽しむのも、面白かった。
自分が彼の家に置いていったのは小説や雑誌で、三輪はどこで買ったのかわからない謎の置物が多かった。
動物なのか何なのかわからないそれらを持ってくる三輪の趣味が全く理解できなかったが、本棚に飾られたサモトラケのニケの石膏像が家主の私物であるため、誰の趣味が一番尖っているのかを考えるのを辞めた。
三輪に言わせれば、自分が置いていく本の趣味も相当らしく、お菓子の料理本を見て、手を叩いて爆笑していた。
おおよそ葵月が自分で買うとは思えない謎の品があの家に増えていくのを、皆で面白がっていた。そして、棚に増えていくそれらを捨てない所が、彼らしかった。
途中から、「来てくれて嬉しいから」という、きっと本心でもあるのだろうが、この場においてはあまりにも嘘すぎる理由で、彼も自分たちに謎の品を押し付けるようになった。ローズガーデンに行ってきた、と言われてマダムのお茶会でしか見た事のないような煌びやかな装飾のお菓子を渡されたり、美術館のお土産と言われてメジェドのキーホルダーを渡されたりした。はんぺんに足を付けたような見た目のエジプトの神であるメジェドは、正直かなり気に入った。
小学生の交換会を彷彿とさせるそれらは、やっぱり楽しかった。
だから、自分たちが押し付けた謎の品の数々を、彼が自分の所有物だと思っていないのは意外だった。互いにそういうはずだったんだけどな、と思いながら、どんな説明がされるのかを待つ。何があったのかはわからないが、一か月ぶりに出会った彼はかなり元気そうで、それは嬉しかった。そのまま、本棚を指差しながら彼は言う。
「藝大辞めたからロンドン行くんだけどさ、あれ持って行っていい? ちょっと気に入ってて」
返却ではなくて、自分の所有物にしていいかの確認だった。そういう細やかな気遣いが彼らしいと思うと同時に、前半の文章が何一つ理解できなかった。
「全く頭が追いつかない、は? ロンドン? 藝大を辞めた?」
「辞めたね。ロンドンに行く。来年の二月から」
順を追ってはいるものの、何一つわからず固まったままの自分を見て、彼は困ったように笑う。その瞳には以前までの暗さが無く、良かったと思うと同時に、やはり事の顛末は全くわからなかった。
「藝大辞めたの。で、ロンドンに行く。留学じゃないから日本に帰らない」
「さっきと同じだよそれ」
「あ、あと名前変えたね。小鳥遊に戻した」
名前に関してはいつか戻したいと言っていた事を思い出す。しかし、いきなりの事に狼狽していて、言われた事の文面だけを理解するので精一杯だった。
「それだけかな?」
「いや、それだけな訳ないだろ」
普段的確に本質を見て話すのに、どうしてこういう事はこんなにも大雑把かつ唐突なんだ、と思いつつも、ケラケラと笑う彼に、もう盗作の事で精神を削られていたあの時の雰囲気はやはり無くて、それだけでいいか、と思うことにした。全て事後報告で、行動力だけある危なっかしい子供の面倒を見る時はこういう感じなのかもしれない、と思ったけれど、口には出さなかった。
「ロンドンに行くのはわかったんだけど、経緯は? 親とはどうなったの?」
彼はそれを訊いてやっと合点がいったように頷いて、「ああ」と軽く答える。
「なんか許されたね。祖父に頼んでみようと思って、ロンドン行きたいですって言ったら許可が出た。親は反対するの諦めたんじゃないかな、実質勘当だと思うよ。そのつもりで名前変えてきたし」
あまりに簡単に彼は言うけれど、家庭環境のせいで身動きが取れない、と言っていたあの時から、抜け出せる答えを自分で選んだ事が、彼にとって物凄く大きな意味を持つ事は理解できた。
高校の時見ていた朝日奈葵月は、寡黙で、理路整然としていて、絵に向き合う時ですらも、内に秘める何かを周りに見せる事は無かった。
だけれど、多分彼は思っているよりも子供で、感情に引っ張られやすくて、自分の内側を見せないようにしていただけだった。
急な海外が認められるのなら、もしかしたら休学やその他の選択も選べたのかも知れなかったのでは、と思ったが、それは結果論だったし、彼が自分で決めた事ならば、何も口出しする必要はなかった。
「まあ俺には彼らの人生は関係ないからね、行って良いって言われたならそうするし。合格貰ったからさ、ロンドンに行くよ」
「お前、英語話せるんだ……」
何を言えばいいかわからなくて、とりあえず言葉を絞り出す。高校の時、化学の授業だけ明らかに顔を顰めていたものの、その他の科目が苦手だとは聞いていなかったし、そんな素振りもなかった。
「そうね、子供の頃海外に行くこと多かったし。……これ今考えたらおかしいな、やっぱあの家変だわ。だからまあ、脱却っていう意味でも、文字通り自由に生きてみようかなって」
「……凄いな、お前」
金銭的に恵まれていた事ではなく、どうしようもない所から一人で活路を探して、自分でどうにかした事に対する賛辞だった。彼はそれを、家庭の話と捉えたのか、軽く笑いながら答えた。
「お金に物言わせてるだけだよ、本物の名画を見せて貰った事とかは感謝してるけど、何でも買い与える祖父のあの方針には同意できない。これだけ支援してもらってるから有難いとは思ってるけどね」
何かを選んだらその他を捨てる気がしたから、選ぶのが怖かった、と言っていた言葉の背景を理解した。親が恐ろしいほどのお金持ちらしい、と噂になっていた割に、彼は質素な生き方を好んでいた。物を雑に扱わず、お金で解決しようとしない。そういう所は、彼が大切にしたかった事なんだろうな、と思った。
「じゃあ、ロンドンに住むってこと?」
「そう、とりあえず数年は向こうで暮らしてみるつもり。それからの事は何も考えてない。野垂れ死んだらごめん、骨は拾って」
冗談だよ、と目を細めて、鈴が鳴るように彼は笑った。
「だからまあ、来年の二月にロンドンに行くけど、それまでは忙しいかな。早めに祖父にお金返したくて」
「バイトするってこと?」
「それもあるけど、画家として生きていいって知らなかったから、自分の芸術観とは違うなって思った仕事とかは断ってたの。それを辞める。絵で生きるなら、そういうの言ってられないから」
同じ年齢と思えない程に、彼は強かに生きている。どうしようもない事で自分の人生を制限されて、様々な噂に沈黙を貫いて、それでも一つずつ選んで、生きている。
「お前、ほんと凄いな」
「え? 何が。祖父の脛齧っただけだよ」
心の底からそう思っていそうな彼の様子に軽く呆れたものの、良かったな、という気持ちの方が大きかった。きれいな絵を描く自分の初めての友達が、それを辞めない道を見つけた事が嬉しかった。
「他の友達には言ったの?」
「まだ。これから言うつもり」
高校二年の出会いから、道を違えて、それでも友達でいる事を選んだ。自分も、彼も。
だからこそ、異国の地に旅立つ葵月を見送るのは少し寂しかったし、幸せでもあった。
高三が目前だった三月。彼だけは大学以降の人生を語らなかった。その理由は二年前に知った。そして今、彼にはそれから先の人生がある。
だとしたら、自分が言える事は一つだけだった。
「……暇な日教えて。準備とかで忙しいかもしれないけど、一日くらい探して。それで、三輪とか呼んで、遊びに行こう」
今度は、蒼穹の空の下、青藍に輝く海で。
「どこに?」
「どこだろね、予定なんて決めなくていいよ。適当に車でも出して、馬鹿やって遊ぼう」
それを聞いた彼は笑って、軽く目を細めた。淡く青が滲む瞳が、光に反射して水晶のようだった。
「……いいね、行こう」
この海が雨になって降り注ぐなら、傘なんて捨てて、土砂降りの中、裸足で歩いて。
そして、青空がいつか見えたならば、それに僥倖と名前を付けて。
あなたは大空を舞う鯨のよう。太陽に輝いて、海と生きる、四季のよう。




