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第57話 王都からの招待

 朝の執務室は静かだった。


 机の上には、一通の封書が置かれている。


 エルネスタ家の紋章ではない。


 王都商業組合。


 クラリスは封を切り、中の書状へ目を通した。


 隣でノアも静かに待つ。


 やがてクラリスは小さく息を吐いた。


「正式な協議です」


 書状をノアへ差し出す。


 ノアは内容を確認した。


 戻り布事業について。


 王都商業組合との意見交換。


 今後の流通体制について。


 参加者の一覧も添えられていた。


 その中で、一つの名前に目が止まる。


「ラウル……」


 クラリスも頷いた。


「参加するようです」


 ノアは書状を閉じた。


「思ったより早かったですね」


「ええ」


 クラリスは窓の外を見る。


「噂だけでは終わりませんでした」


 戻り布は、もう一つの領地だけの話ではない。


 王都が動き始めた。


 それはつまり。


 成功すれば広がる。


 失敗すれば、エルネスタの信用を失うということでもある。


「行きましょう」


 クラリスは迷わなかった。


「はい」


 ノアも短く答えた。


     ◇


 領主の部屋には、薬草の香りが漂っていた。


 窓から吹く風が、薄いカーテンを揺らしている。


 領主は寝台ではなく、窓際の椅子に腰掛けていた。


 以前より顔色は良い。


 それでも痩せた頬は戻らず、膝には毛布が掛けられている。


「失礼します」


 クラリスとノアが一礼した。


「王都からか」


 領主は静かに尋ねる。


「はい」


 クラリスは書状を差し出した。


「戻り布事業について、正式な協議の申し出です」


 領主はゆっくり目を通す。


 読み終えると、机へ戻した。


「……ここまで来たか」


 その一言には、安堵も驚きも混じっていた。


「王都へ向かいます」


 クラリスは真っ直ぐ父を見る。


 領主も娘を見つめ返した。


 しばらく沈黙が続く。


 やがて。


「行ってこい」


 短い言葉だった。


 クラリスは一瞬だけ目を見開く。


「ですが、お父様のお身体が……」


「以前ほどではない」


 領主は穏やかに笑った。


「まだ無理はできん」


 小さく咳き込む。


 ノアは思わず視線を向けた。


 領主は苦笑する。


「だが、寝ているだけではなくなった」


 窓の外を見る。


 庭では使用人達が忙しく動いていた。


「お前が戻ってから」


 クラリスを見る。


「この屋敷も変わった」


 少し間を置く。


「領地も変わった」


 さらに。


「……私も少しは楽を覚えた」


 照れ隠しのような言い方だった。


 クラリスは思わず笑みを浮かべる。


 その表情を見て、領主も小さく口元を緩めた。


「だから」


「安心して行ってこい」


 クラリスは深く頭を下げる。


「はい」


 その返事は、以前より力強かった。


 領主はノアへ視線を移す。


「ノア」


「はい」


「娘を頼む」


 短い言葉だった。


 ノアは静かに頭を下げる。


「承知しました」


 領主は満足そうに頷いた。


「一つだけ覚えておけ」


 二人を見る。


「利益は失っても取り返せる」


 少し息を整える。


「信用は失うな」


 ノアは静かに頷いた。


「肝に銘じます」


 領主は椅子にもたれた。


「……行ってこい」


 今度の言葉には。


 父として。


 領主として。


 二人を送り出す覚悟が込められていた。



 屋敷を出ると、朝の空気はまだ少し冷たかった。


 出発は明日の予定だ。


 荷造りを終え、挨拶だけは済ませておこうと、二人は工房へ向かった。


 槌の音が規則正しく響く。


 工房はいつも通り動いていた。


 以前のように怒鳴り声は聞こえない。


「ノアさん」


 ミリアが二人に気付いて歩いてくる。


「聞きました。王都へ行かれるそうですね」


「ええ」


 クラリスが頷いた。


「少し留守にします」


 ミリアも頷く。


 驚いた様子はなかった。


「こちらはお任せください」


 その言葉に迷いはない。


 ノアは工房を見回した。


 若い職人が見本帳を開き、先輩と相談している。


 別の職人は戻り布を仕分けていた。


 以前なら。


 必ず誰かがノアを呼んでいた。


 今は違う。


 誰も呼ばない。


 呼ぶ必要がない。


 ノアは小さく頷いた。


「お願いします」


 それだけだった。


 ミリアは少しだけ嬉しそうに笑った。


     ◇


 工房を出ると、入口にはガルドが立っていた。


 腕を組み、こちらを見ている。


「聞いたぞ」


「はい」


「また王都だな」


「はい」


 短いやり取りだった。


 ガルドは鼻を鳴らす。


「こっちは任せろ」


 昨日と同じ言葉だった。


 だが。


 今日は工房の前で聞くと、重みが違う。


「工房も」


 ガルドは続ける。


「領地もだ」


 クラリスを見る。


「お嬢」


「はい」


「帰ってきた時に、がっかりさせるなよ」


 ぶっきらぼうな言い方だった。


 クラリスは少し笑う。


「もちろんです」


 ガルドも小さく笑った。


「ならいい」


     ◇


 翌朝。


 屋敷の前には馬車が止まっていた。


 ミリア。


 ガルド。


 職人達。


 使用人達。


 見送りに集まっている。


「お気を付けて」


 ミリアが頭を下げる。


「行ってきます」


 クラリスも頭を下げた。


 ガルドは腕を組んだまま言う。


「土産はいらん」


 一瞬の間。


「その代わり」


 口元を少しだけ緩める。


「面白い話を持って帰ってこい」


 職人達が笑う。


 ノアも笑みを浮かべた。


「分かりました」


 馬車へ乗り込む。


 御者が手綱を鳴らした。


 車輪がゆっくり回り始める。


 窓の外では、皆が手を振っていた。


 クラリスも小さく手を振り返す。


 領地が少しずつ遠ざかる。


「寂しいですか」


 ノアが尋ねる。


 クラリスは窓の外を見つめたまま、小さく笑った。


「少しだけ」


 そして。


「でも」


 ノアを見る。


「帰る場所があると思うと、不思議と安心できます」


 ノアも窓の外へ視線を向ける。


「そうですね」


 もう振り返る理由はなかった。


 任せられる人がいる。


 待っていてくれる人がいる。


 二人を乗せた馬車は、王都への街道を進んでいく。


     ◇


 王都南区。


 一軒の宿。


 ベラは窓から街道を見下ろいていた。


「そろそろだね」


 ミゼルも窓際へ歩く。


「予定より二日遅れています」


 部屋の奥。


 帳簿を閉じたラウルが立ち上がる。


「道中で何かあったのでしょう」


 感情のない声だった。


 ベラが肩をすくめる。


「心配じゃないの?」


「心配はしています」


 ラウルは淡々と答えた。


「ですが」


 上着を整える。


「予定は変更済みです」


 そう言って部屋を出ていく。


 ベラは苦笑した。


「相変わらずだね」


 ミゼルも静かに頷く。


 王都はもう。


 二人を迎える準備を終えていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

ここで一旦、完結とさせていただきます。

第3章では社交界編と考えていたのですが、ちょっとしんどくなりました。

また書きたくなりましたら、その時はもし良ければお付き合いください。

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