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第5話 三枚の布は、二十枚と戦わない

「三枚ですか」


 ラウル・グランベルは、エルネスタ領の荷台に積まれた灰色の布を見た。


 隣には、グランベル商会の冬布が二十枚。


 数だけを見れば、勝負にもならない。


 灰色の布は、地味だった。


 華はない。


 軽さもない。


 通りがかった者が見れば、隣の明るい布の方を先に見るだろう。


 だが、ノアは荷台から夜戻り布を一枚下ろした。


「はい。二十枚とは戦いません」


 ラウルの眉が、わずかに動いた。


「戦わない?」


「はい」


 ノアは夜番詰所の前に、夜戻り布を置いた。


 その横では、グランベル商会の者たちが銀貨一枚半の冬布を木箱に積み直している。


 薄く、軽く、数が多い。


 今の夜番詰所に必要なものが、そこにある。


 クラリスはそれを見ていた。


 悔しさはある。


 だが、顔には出しすぎない。


 昨日より、立ち方が少し変わっていた。


 背筋を伸ばして逃げるのではない。


 前を見るために、立っている。


「こちらは夜戻り布です」


 クラリスが言った。


「夜回りから戻った人の体を温めるための布です。外を歩くための布ではありません」


 ラウルは静かに聞いている。


「つまり、私どもの冬布とは用途が違うと?」


「はい」


 ノアが答えた。


「グランベルの冬布は、外へ持って出られます。軽く、数を揃えられる。夜回りには必要です」


 ラウルの表情が少し変わった。


「認めるのですね」


「認めます」


 ノアは即答した。


「必要なものを否定すると、使っている人まで否定することになります」


 クラリスが横で小さく頷いた。


 ラウルはノアを見た。


「では、あなた方の布は?」


「戻った後に使います」


 ノアは夜戻り布を広げた。


「夜回りから戻った人が、詰所で座る。冷えた手と腹を戻す。仮眠を取る。そのための布です」


 年長者が夜戻り布を見た。


 昨日使った者たちも、何人かが視線を向ける。


 ラウルはその反応を見逃さなかった。


「試したのですか」


「はい」


「いつ」


「昨夜です」


「早いですね」


「寒さは待ってくれませんので」


 ラウルは少し笑った。


「その言い方、気に入りました」


「ありがとうございます」


「褒めたつもりではありません」


「記録しますか?」


 クラリスが横から小さく言う。


 ノアは少しだけ黙った。


「今回はしません」


 ミリアが少し笑った。


 ラウルは、その小さなやり取りまで眺めていた。


「なるほど。売り方だけではなく、チームも変わってきている」


 クラリスの表情が引き締まった。


「まだ、変わっている途中です」


「謙虚ですね」


「事実です」


 ラウルは微笑む。


「では、事実を聞きましょう。価格は?」


 その一言で、空気が締まった。


 夜番の年長者も、若い夜番たちも、こちらを見る。


 グランベルの冬布は銀貨一枚半。


 夜戻り布は、それより高い。


 そこから逃げれば、商談にはならない。


 ノアは紙を取り出した。


「夜戻り布、一枚あたり銀貨三枚と銅貨六十枚」


 年長者の眉が動いた。


 若い夜番が小さく息を吐く。


 ラウルは黙っていた。


 高い。


 当然だった。


 グランベル冬布の倍以上。


 銀貨一枚半の布が二枚買える。


 数だけを見れば、買う理由は薄い。


 クラリスは一瞬だけ唇を結んだ。


 だが、ノアは続けた。


「ただし、詰所用の取引は一枚単位では出しません」


 年長者が顔を上げる。


「どういうことですか」


「三枚一組です」


「三枚で、いくらです」


「銀貨十枚」


 ラウルの部下が、わずかに笑った。


 グランベルなら、その金額で冬布が六枚以上入る。


 夜番の若い男も、分かりやすく困った顔をした。


 年長者は腕を組む。


「高いですね」


「はい」


 ノアは即答した。


 クラリスが少しだけ目を伏せる。


 だが、ノアは目を逸らさなかった。


「高いです。なので、内訳を説明します」


「内訳?」


「布三枚。修繕確認一回。冬中の端ほつれ直し一回。古いエルネスタ布一枚の修繕。使い方札。向きが分かる手触りのしるし。すべて込みで銀貨十枚です」


 年長者の表情が少し変わった。


「古い布の修繕も含むのですか」


「はい」


「昨日の、あれを?」


「はい。捨てられずに残っていた布です。まだ使えます。直せば、予備として戻せます」


 若い夜番が年長者を見る。


 昨日、古い布の取り合いになると言った男だ。


 ラウルはその動きを見た。


 目が細くなる。


 ノアはさらに続ける。


「三枚ではなく、実質四枚運用です」


「古い布を一枚戻すから?」


「はい」


「ですが、新品は三枚」


「はい」


「グランベルなら、銀貨十枚で六枚買えます」


 年長者が率直に言った。


 ノアは頷いた。


「買えます」


 ラウルは微笑む。


「否定しないのですね」


「事実なので」


「では、なぜこちらを買うべきだと?」


「買うべき、とは言いません」


 ノアの答えに、年長者が少し驚いた。


 クラリスも、わずかにノアを見る。


「必要なら、買ってください。不要なら買わないでください」


 ラウルの部下が眉をひそめる。


 商談としては、あまりに弱い。


 だが、ノアは続けた。


「ただし、選ぶ前に使い方を分けてください」


 ノアは地面に小さな木札を三枚置いた。


 一枚目。


 外回り。


 二枚目。


 詰所戻り。


 三枚目。


 仮眠。


「外回りには、グランベルの布が向いています。軽く、数が揃う。個人で買える」


 ラウルは黙って聞いている。


「詰所戻りと仮眠には、夜戻り布が向いています。重く、温まり、手と腹が戻る。ただし、持ち歩きには向きません」


 ノアは年長者を見た。


「同じ冬布として比べれば、こちらは負けます」


 クラリスの手が少し動いた。


 ガルドがいたら怒鳴ったかもしれない。


 だが、ノアは言い切った。


「ですが、戻った人を温める布として比べるなら、勝てる場所があります」


 年長者は夜戻り布を見る。


 昨日の若い夜番が口を開いた。


「座った時は、こっちの方が良かったです」


 ラウルの部下が若い夜番を見る。


 若い夜番は少し気まずそうにしながらも、続けた。


「外へ持っていくなら、グランベルの方がいいです。でも、戻って座るなら、あの重さがありがたい」


 別の夜番が頷く。


「手が戻るのが早かった」


「仮眠するなら、薄いのを二枚重ねるよりいい」


「でも、場所は取るぞ」


「干す場所もいる」


 現場の声が出始めた。


 ノアは黙って聞いた。


 売り込まない。


 先に使う人に言わせる。


 クラリスはその様子を見ていた。


 少し前まで、自分は値段を先に決めていた。


 今は、値段の前に使い方が出ている。


 その違いが、はっきり分かった。


 ラウルがゆっくりと口を開く。


「面白いですね」


 ノアを見る。


「私の布を、踏み台にしましたか」


「いいえ」


「違いますか」


「踏み台ではありません。役割を分けただけです」


「そう言えば聞こえはいい」


「事実です」


 ラウルは目を細める。


「私が数を入れたから、あなた方の布は三枚で済む。私が安く軽い布を置いたから、あなた方は重く高い布の用途に絞れる。そういうことですね」


「はい」


 ノアは否定しなかった。


 周囲の空気が少し揺れる。


 グランベルの部下は、勝ち誇るような顔をする。


 だが、ラウル本人は笑っていなかった。


 ノアは続ける。


「あなたの布がなければ、夜戻り布を外回り用に広げようとして失敗していました」


「認めすぎではありませんか」


「認めないと、間違えます」


 ラウルの目が、わずかに鋭くなった。


「では、あなたは私の商売を利用する」


「はい」


 クラリスが小さく息を呑む。


 ラウルの部下が一歩前に出かける。


 だが、ラウルが片手で制した。


 ノアは表情を変えない。


「あなたの布は、今夜寒い人に届いています。なら、その上でまだ足りない場所を見ます」


「ずいぶん正直ですね」


「隠すと、あとで損失になります」


「敵に手の内を見せるのも?」


「はい」


 ノアは夜戻り布を見た。


「隠しても、現場を見れば分かります」


 ラウルは少しの間、黙っていた。


 それから、静かに笑う。


「あなたは、面白い値付け士だ」


「褒めていますか」


「半分は」


「残り半分は?」


「危険視しています」


 クラリスがノアの横に立った。


「危険視されるほど、まだ何も売れていません」


「ですが、売り方を変えています」


 ラウルはクラリスを見る。


「クラリス様。あなたは以前、値段を下げて信用を傷つけた。今回は、値段を下げずに使い方を下げた」


 クラリスの眉が動く。


「使い方を下げた?」


「失礼。絞った、と言うべきでしょうか」


 ラウルは穏やかに言い直した。


「高級布としての顔を捨て、詰所の仮眠布として売る。貴族の領地の商品としては、随分と泥臭い」


 ミリアが少しむっとする。


 だが、クラリスは止めた。


「泥臭いですね」


 彼女は静かに答えた。


「でも、昨日、夜番の方たちの手は冷えていました」


 ラウルの目が少し動いた。


「そこに届くなら、泥臭くて構いません」


 ノアはクラリスを見た。


 言い方が、届いている。


 昨日よりも、さらに。


 クラリスは続けた。


「私は、領地の布の価値を下げたくありません。ですが、飾って届かないままなら、それも価値を失うことです」


 年長者が黙って聞いている。


 若い夜番たちも、言葉を止めていた。


「だから、戻します。売場ではなく、寒い場所へ」


 ラウルは、少しだけ口元を上げた。


「良い言葉です」


 ノアが帳簿に手を伸ばしかけた。


 クラリスが小声で言う。


「今は書かない」


「はい」


 ラウルが笑った。


     ◇


 年長者は腕を組んだまま、しばらく考えていた。


 銀貨十枚。


 安くはない。


 詰所の予算は潤沢ではない。


 グランベルの冬布は、すでに数がある。


 夜戻り布を買わなくても、今夜は越せる。


 だが、昨日の試用を知っている者たちは、夜戻り布を見ている。


 それは、ただの高い布ではなかった。


 戻った時、手が戻った布。


 仮眠に使える布。


 古いエルネスタ布と同じ場所に置ける布。


 年長者は言った。


「銀貨十枚は、今すぐは難しい」


 クラリスは頷いた。


「はい」


「だが、三枚なら使い道はある」


「ありがとうございます」


「礼はまだ早いです」


「はい」


 年長者はノアを見る。


「支払いを分けられますか」


「可能です」


 ノアは即答した。


「半額を納品時。残り半額を冬明け。ただし、修繕対応は支払い完了前でも行います」


「踏み倒したら?」


「その時点で、以後の信用取引は停止します」


「厳しいですね」


「信用で売るので」


 年長者は少し笑った。


「それはそうだ」


 ラウルが口を挟む。


「私なら、二十枚を一括で納め、支払いは月末で構いません」


 空気が一瞬止まった。


 グランベルの部下が当然の顔をしている。


 強い。


 価格だけではない。


 支払い条件でも、グランベルは強い。


 年長者の顔が揺れた。


 クラリスの指が、ぎゅっと帳簿を押さえる。


 ノアはラウルを見た。


「それは良い条件です」


「でしょう」


「ただし、用途が違います」


「またそれですか」


「はい」


 ノアは木札をもう一度指した。


「外回り用の補充なら、グランベルが良いです。詰所戻り用なら、こちらです。支払い条件を比べる前に、使う場所を分けてください」


 ラウルは笑みを深めた。


「徹底していますね」


「そこを混ぜると、必ず安い方が勝ちます」


「商売では普通です」


「はい」


 ノアは頷いた。


「だから、混ぜません」


 クラリスが横から言った。


「夜戻り布は、グランベルの布を減らすための商品ではありません」


 年長者がクラリスを見る。


「では、何のためですか」


「戻った人を、戻すためです」


 その言葉は、少し拙かった。


 きれいな宣伝文句ではない。


 だが、夜番たちには伝わった。


 昨日、冷えた手を布の下に入れた若い夜番が、小さく頷いた。


「俺は、あれがあると助かります」


 年長者は目を閉じた。


 それから、ゆっくり開く。


「三枚」


 クラリスが息を止める。


「銀貨十枚。半分先払い、半分冬明け。古い布の修繕込み。端が傷んだ時の直し一回込み」


 ノアは頷いた。


「はい」


「それで、上に掛け合います」


 購入決定ではない。


 まだ、上に掛け合うだけ。


 だが、聞く気がある、から一歩進んだ。


 クラリスは深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 年長者は少し困った顔をした。


「だから、まだ礼は早いです」


「それでも、聞いていただけたので」


「変な貴族様だ」


 年長者はそう言ったが、声に棘はなかった。


     ◇


 ラウルは、やり取りが終わるまで黙っていた。


 そして、夜戻り布を一枚、近くで見た。


 手で押す。


 縁を見る。


 角の手触りを見る。


「暗い中で向きを判別するための加工ですか」


「はい」


「細かい」


「現場で出た要望です」


「なるほど」


 ラウルは夜戻り布から手を離した。


「高いですね」


「はい」


「重い」


「はい」


「数が出ない」


「はい」


「ですが、残る」


 ノアはラウルを見る。


 ラウルは微笑んでいた。


「厄介です」


「褒めていますか」


「今回は七割ほど」


「残り三割は?」


「本当に厄介だと思っています」


 ラウルはグランベルの冬布の木箱に手を置いた。


「私の商売は、数を取ります。寒い者へ、すぐ届ける。安く、広く、早く」


「はい」


「あなた方の商売は、残る場所を取りに来る。数ではなく、使われ続ける位置を」


「はい」


「市場では私が勝つ」


「そう思います」


「詰所の隅では、あなた方が残るかもしれない」


「残します」


 ノアは静かに答えた。


 ラウルは一瞬だけ、目を細めた。


 クラリスが横に立つ。


「残すだけではありません」


「では?」


「次は、選ばれるようにします」


 ラウルはクラリスを見る。


 以前、彼女は値段を下げた。


 今は、値段を下げずに言葉を置いている。


 まだ未熟だ。


 だが、目は逃げていない。


「楽しみです」


 ラウルはそう言った。


「本当に」


     ◇


 商談が終わった後、クラリスは夜番詰所の前で大きく息を吐いた。


「決まったわけではないのに、疲れたわ」


「はい」


「あなた、こういう商談をいつもしていたの?」


「以前は、もっと数字だけでした」


「今は?」


「今は、数字以外も見なければならないので疲れます」


「良い疲れ?」


 ノアは少し考えた。


「損失は大きいですが、必要です」


「その答えは、良いのか悪いのか分からないわ」


 クラリスは少し笑った。


 ミリアが荷台の夜戻り布を整えながら言う。


「でも、夜番の人たち、聞いてくれましたね」


「ええ」


 クラリスは頷いた。


「昨日より、少しだけ」


 ノアは帳簿を見る。


【南区夜番詰所】

【提案:夜戻り布三枚】

【価格:銀貨十枚】

【支払い:半額先払い/半額冬明け】

【付帯:旧布修繕/端ほつれ直し一回/使い方札】

【状態:上申待ち】

【信用回復:微増】


 微増。


 また、微増。


 だが、ノアはその文字を嫌だと思わなかった。


 大きく戻らなくていい。


 小さく戻せばいい。


 売り方も、信用も、人の体温も。


 冷えたものは、一気には戻らない。


 だが、戻る場所があれば戻る。


「クラリス様」


「何?」


「次は、家用の寝床守り布も再計算します」


「ええ」


「夜番用と同じ仕様では重すぎます」


「分かっているわ」


「価格もまだ高いです」


「それも分かっているわ」


「説明者も足りません」


「……それは、今言わなくてもいいでしょう」


「重要なので」


 クラリスは額を押さえた。


「本当に、あなたは」


 だが、怒ってはいなかった。


 その時、背後からラウルの声がした。


「ノア・レインズ」


 ノアが振り返る。


 ラウルは一枚の薄い布を持っていた。


 グランベルの冬布ではない。


 もっと目の詰まった、別の布だった。


「次は、馬車宿です」


 クラリスの表情が変わる。


 ノアも、布を見る。


「馬車宿?」


「ええ。夜番詰所だけが寒い場所ではありません。夜明け前に出る御者、荷台で眠る下働き、濡れた荷を守る者たち。彼らにも布は必要です」


 ラウルは穏やかに笑った。


「あなた方が戻る場所を取るなら、私は出ていく場所を取ります」


 ノアの視界に、表示が浮かぶ。


【競合予測:馬車宿向け軽量冬布】

【価格帯:低〜中】

【用途:出発前/荷台待機/仮眠】

【脅威度:高】

【対応推奨:即時】


 ラウルは一礼した。


「では、また市場で」


 グランベルの荷馬車が動き出す。


 銀貨一枚半の冬布を積み、王都南区の奥へ向かっていく。


 クラリスはその背を見送った。


「勝たせてはくれないのね」


「はい」


 ノアは帳簿を閉じた。


「ですが、見えました」


「何が?」


「ラウルは、寒い場所を面で取りに来ています」


「面?」


「夜番詰所だけではありません。馬車宿、荷運び、屋台、下働き。寒い場所を広く押さえる気です」


 クラリスは息を吸った。


「では、私たちは?」


 ノアは少しだけ黙った。


 夜戻り布を見る。


 重く、地味で、数は出ない。


 だが、戻る場所を作れる布。


「全部は追いません」


「追わないの?」


「追えば、負けます」


 ノアは答えた。


「だから、残す場所を選びます」


 クラリスは頷いた。


「次は、どこ?」


 ノアは古い顧客名簿を開く。


 夜番詰所。


 馬車宿。


 女将。


 産婆。


 冬支度の遅れた家。


 寒い場所は、いくつもある。


 だが、全部は追えない。


 ノアは一つの名前に指を置いた。


「馬車宿ではなく、その裏です」


「裏?」


「夜明け前に、御者へ湯を出す宿の台所」


 クラリスが目を細める。


「そこに布が必要なの?」


「布だけではありません」


 ノアは言った。


「寒い場所には、布以外の売り方もあります」


 ミリアが小さく首を傾げる。


「どういうことですか?」


 ノアは帳簿に新しい欄を作った。


【次候補:馬車宿裏口】

【対象:御者/下働き/台所番】

【商品候補:夜戻り布小型/補修布/古布修繕受付】

【目的:ラウルの面展開に対し、信用の点を置く】


 クラリスは、その文字を見た。


「面ではなく、点?」


「はい」


「点で勝てるの?」


「勝つのではありません」


 ノアは言った。


「残します」


 王都南区の朝は、まだ冷えていた。


 グランベルの荷馬車は、遠くなっていく。


 エルネスタの荷台には、まだ売れていない夜戻り布が残っている。


 それでも、クラリスは前を向いた。


「では、次の点を置きに行きましょう」


 ノアは頷いた。


「はい」


 その時、夜番詰所の中から、若い夜番の声が聞こえた。


「すみません、あの灰色の布、もう一回だけ使っていいですか?」


 クラリスとノアが振り返る。


 年長者が渋い顔で答えた。


「まだ買うと決まってない。丁寧に扱え」


「分かってます。汚しません」


 若い夜番は笑って、夜戻り布を膝に掛けた。


 銀貨十枚の商談は、まだ決まっていない。


 だが、その布はもう一度、使われていた。


 ノアは帳簿を開きかけた。


 クラリスが手で止める。


「今は、見ておきましょう」


 ノアは少し迷い、帳簿を閉じた。


 灰色の布が、朝の冷えた詰所で、誰かの膝に置かれている。


 売れてはいない。


 勝ってもいない。


 だが、戻る場所には、なり始めていた。

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