第38話 目だけを買われる
翌朝。
王都市十二日目の朝は、初日よりもずっと騒がしかった。
市そのものは、もう珍しさだけで客を集める時期を過ぎている。
前半の七日で、物珍しい品は一通り見られた。
安い品も、派手な品も、早い品も、すでに客の手に渡っている。
後半に入ってからは、違う客が増えた。
商人。
宿屋。
荷運びの元締め。
馬車宿の使い。
明日以降の仕入れを考える者たち。
ただ売れるかどうかではない。
続けて買えるか。
まとめて使えるか。
戻ってきた文句に耐えられるか。
そこを見られる日になっていた。
エルネスタの棚にも、朝から布が戻ってきていた。
ミリアは棚の横で、戻ってきた肩当てを広げている。
赤、青、白、黒。
昨日から使っている分類紐を、木箱の中に分けて置いていた。
赤は修繕。
青は装着確認。
白は洗い方、乾かし方。
黒は次の型に反映するもの。
ミリアが赤い紐の箱を整理していると、裏口の方からミゼルが顔を出した。
「朝の分、持っていくよ」
ミゼルは棚の前に座ることもなく、赤い紐の布だけを手早く選んでいく。
「青と白はこっちに寄こすんじゃないよ。縫う前に済むものまで持ってこられたら、裏が詰まる」
「はい」
ミリアは頷き、赤い紐の布をまとめた。
その時、サラが帳場から小走りでやってきた。
「クラリス様、領からです。急ぎだそうです」
「ありがとうございます」
クラリスは封を受け取った。
差出人は、領の倉庫番ではなかった。
原毛を扱う農家のまとめ役。
ミリアの実家とも取引のある、羊飼いたちの古い顔役だった。
クラリスは封を切る。
そこには、グランベル商会の使いが領の原毛農家に来たこと。
高級布向きではない原毛も買い取ると申し出たこと。
王都で原毛の選別ができる者を雇いたいと告げたこと。
選別経験者には、通常の二倍の手当を出すと言われたこと。
そして、今日の昼前には王都南区の宿へ向かい、直接話を聞きたいことが書かれていた。
クラリスは、最後の一文で指を止めた。
「……こちらへ来るそうです」
ノアは顔を上げた。
「原毛農家の方々が?」
「はい。朝一番で領を出る、と」
ミリアの手が止まった。
赤い紐を結びかけていた指が、布の上で固まる。
朝の修繕分を抱えようとしていたミゼルも、針箱の蓋に手を置いた。
「原毛農家に?」
「はい」
クラリスは手紙を握ったまま言った。
「グランベル商会の使いが、領の原毛農家に来たそうです」
棚の前に、少し沈黙が落ちた。
ミリアは顔を下げた。
ノアは目を細める。
ラウルはミリア本人に声をかけなかった。
それは礼儀だ。
だが、別の場所へ手を伸ばした。
ミリアの目が生まれた場所へ。
原毛を見る者たちへ。
ノアの視界に文字が浮かぶ。
【即時収入:上昇】
【原毛農家利益:短期上昇】
【選別人流出:高】
【領内分類力:低下】
【原毛価値の外部移転:進行】
【長期損失:高】
「高く買っています」
ノアは言った。
クラリスは頷いた。
「ええ」
「買い叩きではありません」
「ええ」
「だから危険です」
ミリアが、小さく息を飲んだ。
安く買われるなら、拒む理由は分かりやすい。
買い叩きです。
領地を削っています。
そう言える。
だが、高く買われるなら違う。
原毛農家にとっては、良い話だ。
今まで安く見られていた毛に値段がつく。
選別できる者に手当がつく。
それを領主代行が止めるのは、簡単ではない。
「止める権利は、ありませんね」
クラリスは言った。
ノアは頷く。
「はい」
ミゼルが低く言う。
「王都の大商会が、原毛を見る目に気づいたってことかい」
「はい」
ノアは答えた。
「厄介だね」
ミゼルはそれだけ言って、赤い紐のついた布を抱え直した。
クラリスは答えられなかった。
その時、ミリアが小さく言った。
「私の家だけじゃありません」
クラリスが振り向く。
「ミリアさん?」
「原毛を見る人は、他にもいます。毛を刈る人。洗う人。硬い毛を分ける人。汚れを見る人。縮みやすい毛を避ける人」
ミリアは布を握った。
「でも、みんな、自分たちの目に値段がつくなんて思っていません」
「……はい」
「二倍の手当と言われたら、行きます」
その声は責めていなかった。
ただ、分かっている声だった。
「だって、今まで半分にも見られていなかったから」
クラリスの胸に、その言葉が刺さった。
悪いのは、グランベルだけではない。
領地の中でも、その目を安く見ていた。
原毛を選ぶ人。
羊を見る人。
汚れを見分ける人。
高級布に向かない毛を、駄目なものとして脇へ寄せてきた。
その仕事に、領地は十分な値段をつけてこなかった。
だから、外から値段をつけられた時、揺れる。
「ノア」
「はい」
「これは、奪われそうになっているのではなく」
クラリスは言葉を選んだ。
「私たちが、今まで置き場所を作っていなかったものが、外から見つけられたのですね」
ノアは少しだけ目を細めた。
「良い整理です」
「嬉しくない整理です」
「はい」
◇
昼前。
先触れの手紙に書かれていた通り、領から原毛農家の者たちが宿へ到着した。
朝一番で出たのだろう。
外套の裾には、まだ街道の土が残っていた。
年配の女が一人。
若い男が二人。
先頭に立つ女を見て、ミリアの肩がわずかに強張った。
「……伯母です」
ミリアが小さく言った。
クラリスは、女へ向き直った。
全員、手が荒れていた。
羊を押さえ、毛を洗い、干し、分けてきた手だ。
クラリスは立ったまま、軽く頭を下げた。
「先触れは拝見しました。直接お話を聞かせていただけるとのこと、ありがとうございます」
年配の女が肩をすくめた。
「礼を言われるほど、穏やかな話を持ってきたわけじゃありませんよ」
「それでも、話を聞く前に決めずに来てくださいました」
「決める前に、エルネスタの値段を聞きに来ただけです」
女はそう言いながら、椅子に座った。
他の者たちも続く。
ノアは壁際に立つ。
ミリアはクラリスの横にいた。
緊張している。
自分の家の仕事が、今から値段にされる。
それを見届ける顔だった。
クラリスは手紙を机に置いた。
「グランベル商会から、原毛と選別人への申し出があったと聞きました」
若い男の一人が頷いた。
「はい。使いの方が来ました」
もう一人が続ける。
「悪い話ではありません。硬い毛も買うと言っていましたから」
年配の女も頷く。
「今までなら、値を叩かれた毛です。二倍の手当も本当なら、うちの若い者を出してもいい」
クラリスは頷いた。
「分かります」
若い男が少し眉を上げる。
「止めないのですか」
「高く買われることを、私が止める権利はありません」
部屋の空気が少し変わった。
年配の女がクラリスを見る。
「なら、エルネスタは何を出すんです」
クラリスは、まっすぐ女を見返した。
「その目が領地から消える値段なら、私たちは別の値段をつけなければならない、という話です」
ノアの視界に表示が浮かぶ。
【交渉対象:原毛農家】
【相手利益:即時収入】
【領地側損失:技能流出】
【必要提案:引き止めではなく、残る理由】
【推奨:選別手当/用途別買い取り/交代派遣】
若い男が腕を組む。
「別の値段と言っても、二倍です」
「はい」
クラリスは言った。
「同じ額を、全員には出せません」
若い男の隣にいた男が、わずかに眉を動かす。
「それでは、話にならないのではありませんか」
クラリスは答えようとした。
だが、その前にノアが一歩だけ前に出た。
「同じ値段で勝つ必要はありません」
若い男がノアを見る。
「どういう意味ですか」
「グランベルが払うのは、王都へ出る人の手当です。高い。ですが、その人が出た後、領に残る仕事には値段が残りません」
ノアは机の上の手紙を見た。
「こちらが払うべきなのは、人を連れていく値段ではありません。領に目が残る値段です」
クラリスは、ノアを見た。
その言葉で、迷っていたものが少しだけ分かれた。
高値に高値で返すのではない。
残る仕事に値段をつける。
クラリスは頷いた。
「提案があります」
年配の女が腕を組む。
「聞かせてください」
「まず、原毛の買い取りを、用途別に分けます」
クラリスは、机に端布を並べた。
ミリアが持ってきていた見本だ。
柔らかい毛。
硬い毛。
水を吸いやすい毛。
短く混ざった毛。
今までは、高級布向きではないという理由で、まとめて安く見られてきたものだった。
「高級布向きではないから安い、ではなく、短時間用、濡れ荷用、詰め物用、修繕用、見本用として値段を分けます」
若い男が眉を寄せる。
「そこまで分けて、売れるのですか」
「売ります」
クラリスは言った。
その声は硬い。
だが、逃げていなかった。
「王都南区の棚で使い道が見えました。首守り肩当てだけではありません。洗い方見本、修繕端布、荷当て、短時間用の安価品。用途はあります」
年配の女は端布を一枚手に取った。
「これは、今までなら捨て値ですね」
「はい」
「硬い」
「はい」
「でも、荷当てなら、柔らかすぎるよりいい」
「はい」
女は黙った。
クラリスは続けた。
「次に、選別手当をつけます」
「選別手当?」
「はい。原毛をただ納めるのではなく、用途別に分けて納めた場合、その分類に手当をつけます」
年配の女の顔が変わった。
「毛そのものじゃなく、分けたことに払うんですか」
「はい」
クラリスは頷いた。
「分ける目に、値段をつけます」
ミリアの指が小さく動いた。
ノアは補足する。
「さらに、王都棚への交代派遣です。全員が王都へ出るのではなく、領に目を残したまま、交代で棚に来てもらう」
若い男が言う。
「王都へ行けるのですか」
「はい。ただし、エルネスタの棚の仕事としてです。分類手当、日当、宿代を出します」
年配の女は黙っていた。
それから、ゆっくり口を開く。
「一度だけなら、良いことは誰でも言えます」
クラリスは頷いた。
「はい」
「来月も、次の刈り取りでも、その値段を残せますか」
クラリスはすぐには答えなかった。
ノアも答えない。
高い約束をして勝つ話ではない。
無理な値段をつければ、次の刈り取りでまた裏切ることになる。
クラリスは息を吸った。
「全員に二倍は出せません。ですが、仕事の種類を分けて支払います」
年配の女は黙って聞いていた。
「原毛代。選別手当。王都派遣の日当。用途別買い取り。継続契約。ひとつの高値ではなく、続く値段にします」
年配の女がじっと見る。
「続く値段」
「はい」
クラリスは言った。
「一度だけ高く買われるのではなく、来月も、次の刈り取りでも、同じ目に仕事が残るようにします」
部屋が静かになった。
その静けさは、悪いものではなかった。
年配の女は、自分の荒れた手を見た。
「二倍で買うと言われた時より、今の方が腹に落ちました」
クラリスは顔を上げた。
女は端布を机に戻した。
「高く買うと言われたのは、初めてじゃありません。祭りの前や、戦の前には、たまにある。でも、その後に残る仕事の話までされたのは初めてです」
若い男たちも黙っていた。
女は続ける。
「王都へ行けば、高く買われる」
「はい」
「ここに残れば、仕事が続く」
「続けます」
女は少しだけ笑った。
「言い切りましたね」
「言い切らなければ、また安く見られますから」
クラリスの声は震えていなかった。
ノアはその横顔を見た。
損益眼の表示が静かに変わる。
【提案価値:中長期安定】
【即時金額:グランベル優位】
【継続雇用価値:エルネスタ優位】
【領内技能保持:改善】
【納得形成:進行】
◇
話し合いの後。
年配の女が残った。
若い男たちは、宿の外で相談している。
クラリスは女に向き直った。
「何か」
「クラリス様の母君は、こういう話が上手かった」
クラリスの呼吸が、わずかに止まった。
「母を、ご存じなのですか」
「何度か。王都の言葉と、領の言葉を混ぜるのが上手い人でした。難しい話を、受け取れる形にする人だった」
クラリスは黙った。
女は続ける。
「今日のクラリス様は、まだ少し硬い」
「……はい」
「でも、ただ止めに来たわけじゃなかった。それは分かりました」
クラリスは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は早いですよ。若い者が何人か、グランベルの話を聞きに行くかもしれません」
「はい」
「止めないのでしょう」
「止めません」
女は立ち上がった。
「なら、クラリス様も残る理由を早く形にしてください」
「はい」
「目だけを買われるのが嫌なら、手にも、足にも、家にも、値段をつけるんです」
クラリスはその言葉を受け止めた。
年配の女は、部屋を出ていった。
ミリアは、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく言う。
「伯母は、昔からああです」
「厳しい方ですね」
「はい。でも、嘘は言いません」
クラリスは頷いた。
「良い方ですね」
「怖いです」
「はい」
ミリアは少しだけ笑った。
「クラリス様と同じですね」
クラリスは目を瞬いた。
ノアが少しだけ視線をそらした。
◇
夕方。
エルネスタの棚に、新しい札が置かれた。
原毛を見る目にも、仕事があります
用途別選別の相談を受け付けます
高級布向きでない毛にも、使い道を探します
宿裏の修繕場へ向かう途中だったミゼルが、その札を見て、顔をしかめた。
「また面倒な札を増やしたね」
「はい」
クラリスは答えた。
「でも、必要です」
「だろうね」
ミゼルは赤い紐のついた端布を一枚持ち上げる。
「高級布になれない毛が、全部駄目なわけじゃない。硬いなら硬いなりに使う場所がある。水を吸うなら、水を吸って困らない場所へ回せばいい」
ノアは頷いた。
「用途別価格表を作ります」
「また表かい」
「はい」
「好きだね」
「必要です」
ミゼルは呆れたように笑い、赤い紐の布を抱えて宿裏へ戻っていった。
ミリアは札を見ていた。
そして、ゆっくり言った。
「私の実家の仕事が、棚に書かれています」
クラリスはミリアを見る。
「嫌ですか」
「いいえ」
ミリアは首を振った。
「少し、変な感じです」
「変な感じ」
「はい。ずっと、裏で分けていたものが、表に置かれているので」
ノアは言った。
「裏にある仕事を表へ出すと、値段がつきます」
ミリアはノアを見る。
「値段がつくと、見られます」
「はい」
「見られると、買われるかもしれません」
「はい」
ミリアは少しだけ息を吐いた。
「怖いですね」
「はい」
クラリスが静かに言った。
「だから、守る形も一緒に作ります」
ミリアはクラリスを見た。
「私だけではなく」
「はい」
「原毛を見る人たちも」
「はい」
ミリアは小さく頷いた。
◇
その頃。
グランベル商会の応接室で、ラウルは報告書を読んでいた。
部下が立っている。
「ミリア本人には接触しておりません」
「当然です」
ラウルは紙から目を上げない。
「エルネスタの棚で役を得た者を、こちらが直接引くのは安い手です」
「では、原毛農家への接触は続けますか」
「続けます」
ラウルは報告書を置いた。
「あの目は、彼女一人のものではありません。原毛を見る土地の仕事から生まれたものです」
「高値で集めますか」
「高値で買うだけでは足りません」
部下が顔を上げる。
ラウルは静かに言った。
「エルネスタは、おそらく継続の値段を出してきます。原毛代、選別手当、派遣日当。ひとつの高値ではなく、残る理由を作る」
「では、こちらは」
「広がる理由を作ります」
ラウルの目は冷たくなかった。
むしろ、楽しそうですらあった。
「エルネスタは価値を守る。こちらは価値を広げる。どちらが先に南区へ届くかです」
部下は黙って頭を下げた。
ラウルは窓の外を見た。
「安売りでは崩せないなら、広げ方で試すしかありませんね」
◇
夜。
宿の小部屋で、クラリスは帳簿を開いていた。
王都市十二日目
原毛農家への提案
用途別買い取り
選別手当
王都棚への交代派遣
継続契約案
グランベル、原毛農家へ接触
ミゼル修繕:宿裏へ継続
クラリスは、しばらく帳簿を見つめていた。
「今日は、止めませんでした」
「はい」
ノアは答えた。
「本当は、止めたかったです」
「はい」
「行かないでください。エルネスタに残ってください。そう言いたかった」
ノアは黙って聞いていた。
クラリスは続ける。
「でも、高く買われることを止めるのは、違いますね」
「はい」
「なら、残る理由を作るしかない」
「はい」
クラリスは小さく笑った。
「今日は、はいが多いですね」
「間違っていないからです」
「それは、少し救いです」
帳簿の余白に、クラリスは一行を書いた。
高く買われることを責めず、残る理由に値段をつける。
ノアはそれを見て、頷いた。
「良い整理です」
「母なら、もっと上手く言えたのでしょうか」
ノアは少しだけ考えた。
「分かりません」
「そこは慰めてくださらないのですね」
「はい」
クラリスは苦笑した。
だが、嫌ではなかった。
ノアは続ける。
「ただ、今日の言葉は届いていました」
「誰に」
「年配の女性に。ミリアさんに。少なくとも、私には」
クラリスは少しだけ目を伏せた。
「それなら、今日は十分です」
「はい」
少し沈黙が落ちた。
昨日の夜と同じ沈黙。
けれど、今日は少し違った。
怖さだけではない。
残すために動いた後の疲れがあった。
「ノア」
「はい」
「今日の私は、何に分類されますか」
ノアは帳簿を見た。
そして、珍しくすぐには答えなかった。
「難しいです」
「あなたでも?」
「はい」
クラリスは少しだけ笑った。
「では、私が分類します」
ノアが顔を上げる。
クラリスはペンを持った。
止めたかったが、止めなかった。
怖かったが、値段をつけた。
まだ良い領主ではない。
でも、逃げなかった。
ノアは、その文字をしばらく見ていた。
「良い分類です」
「短いですね」
「はい」
「でも、今日はそれで構いません」
クラリスは帳簿を閉じた。
ノアは、閉じた帳簿の上に手を置かなかった。
代わりに、燭台の火を少しだけ弱めた。
クラリスはそれを見て、何も言わなかった。
言葉にされない気遣いにも、値段はつかない。
けれど、確かに残るものはある。
その夜、二人は早く休んだ。
明日、残る理由に値段をつけるために。




