表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

25/27

第22話 高い布には、悪い噂がつく

 雨の日の再確認は、午前中で終わった。


 結果だけを言えば、手戻し布は使えた。


 だが、完全ではなかった。


 乾いた日には出なかった引きが、親指の付け根に出た。


 甲の当たりは軽くなったが、濡れると手首側が少しずれる。


 ミリアはその場で控えに書き、リサは戻り札に丸をつけた。


雨天:甲の当たり軽減

雨天:親指付け根に引き

雨天:巻き直し必要

次回:留め位置変更


 年配の男は、濡れた手戻し布を外しながら言った。


「甲はよくなった。親指は悪い」


 ミリアは頷いた。


「直します」


「なら、使う」


「ありがとうございます」


「礼は直ってから言え」


 リサがその言葉まで札に書こうとすると、年配の男が睨んだ。


「そこは書くな」


「使うって言いました」


「言ったが」


「書きます」


「厄介だな、お前」


「仕事です」


 リサは、もう照れずにそう言った。


 それで十分だった。


 雨の日に見えたものは、戻り札に残った。


 中央の一段は、まだ残る理由を持っている。


 だが、クラリスたちはいつまでも荷馬車組合にいられない。


     ◇


 雨が弱まった昼過ぎ、ミリアは工房へ戻った。


 クラリスとノアが王都南区で借りている宿へ戻ると、帳場の主人が三通の書簡を預かっていた。


 荷物を置ける裏庭と、商談に使える小部屋がある宿だった。


 貴族向けの上等な宿ではない。


 御者や小商人、荷運びを連れた商人が使う実務寄りの宿だ。


 エルネスタ家は、王都大市の商談窓口にこの宿を仮の連絡先として届け出ていた。


 だから、書簡は帳場を通って届く。


 封蝋の一つは、王都大市の商談窓口。


 もう一つは、王都南区の小商人組合。


 最後の一つは、見覚えのない商会印だった。


 帳場の横で、宿の娘が三通の書簡を両手で差し出した。


 十五、六ほどの少女だ。


 薄茶の髪を後ろで結び、濡れた床を気にしながらも、手元はしっかりしている。


「クラリス様宛です」


「ありがとうございます」


「いえ」


 少女は一度下がろうとして、最後の封蝋をちらりと見た。


 ほんの一瞬だった。


 だが、ノアはそれに気づいた。


「その商会を知っていますか」


 少女はびくりと肩を揺らした。


「えっと……すみません。勝手に見たわけじゃ」


「責めていません」


 ノアが言うと、クラリスも静かに頷いた。


「気になることがあるなら、教えてください」


 少女は帳場の奥を一度見た。


 主人は別の客の応対をしている。


 少女は少し声を落とした。


「ベルナー商会の封だと思います。うちに泊まる小商人さんたちが、たまに名前を出します」


「評判が悪いのですか」


 クラリスが聞くと、少女は困った顔をした。


「悪い、というより……最初は良い話に見えるそうです」


「最初は」


「はい。高く買うとか、棚を用意するとか、紹介するとか言ってくれるんです。でも後で、手数料とか、宣伝費とか、場所代とか、いろいろ引かれるって」


 少女は言ってから、慌てて口を押さえた。


「すみません。私は帳場を手伝ってるだけなので、詳しくは」


「十分です」


 ノアは封を見た。


「名前は?」


「サラです」


「サラさん。助かりました」


 サラは少しだけ頬を赤くした。


「父がよく言うんです。ちゃんと払う人は、先に言うって。後から増える人は、最初だけいい顔をするって」


 クラリスは、その言葉を胸の中で受け止めた。


 帳簿の言葉ではない。


 宿の帳場の言葉だ。


 だが、妙に重い。


「覚えておきます」


 サラは小さく頭を下げ、今度こそ下がった。


     ◇


 クラリスは濡れた手袋を外し、小部屋の椅子に座った。


 雨の匂いが、まだ外套に残っている。


 ここにいるのは、クラリスとノアだけだった。


 ノアはまず、王都大市の商談窓口からの書簡を開いた。


 目を通す。


 表情は変わらない。


 だが、少しだけ視線が止まった。


「王都大市の共同売場からです」


「共同売場?」


「はい。大市の期間中、複数領の商品を並べる棚が設けられます。エルネスタ領にも一区画を用意する、とあります」


 クラリスの背筋が伸びた。


「それは、良い話では」


「はい。良い話です」


 ノアは紙を置いた。


「ただし、条件があります」


 クラリスは黙って続きを待つ。


 ノアは二枚目を開いた。


「棚代は後払い。売上の一割。売れ残りの撤去費はこちら負担。破損品は出品者負担。値札は共同売場側の基準に合わせること」


「値札を、こちらで決められないということですか」


「完全には」


「それは困ります」


「はい」


 ノアは頷いた。


「ただ、共同売場に出ないと、王都大市での露出は大きく落ちます」


 クラリスは指を組んだ。


 良い棚。


 悪い条件。


 いや、悪いだけではない。


 向こうにも管理の都合がある。


 多くの領の商品を並べるなら、値札の形式や棚代の取り方は必要だ。


 だが、値段を置く場所を渡すのは危うい。


 昨日の棚と同じだ。


 全部任せれば、楽になる。


 だが、何を見る力を渡すかが問題になる。


「二通目は?」


 クラリスが聞く。


 ノアは王都南区の小商人組合からの書簡を開いた。


「こちらは、手戻し布と捨てない布について問い合わせです。小口で試したい、と」


「南区から」


「はい。馬車宿、薬草問屋、夜番詰所の関係者が名を連ねています」


 クラリスの表情が少し明るくなる。


 南区の声が広がっている。


 ベラやリサ、年配の男たちが使ったものが、別の現場へ届こうとしている。


「条件は」


「前金半分。残りは納品後十日。返品は不良品のみ。使用後の修繕相談あり」


「良い条件ですね」


「はい。小口ですが、健全です」


 クラリスは小さく頷いた。


「では、これは前向きに」


「はい」


 ノアは最後の書簡を手に取った。


 ベルナー商会。


 サラが気にしていた封蝋。


 封は厚い。


 紙質は良い。


 そこに、少しだけ嫌な気配があった。


「三通目は」


 ノアは封を切った。


 読み始めてすぐ、目が止まる。


 クラリスはそれだけで分かった。


 良い話ではない。


 ノアは最後まで読み、紙を机に置いた。


「ベルナー商会からです」


「内容は」


「王都大市用に、エルネスタ領の商品をまとめて買い取りたい、と」


 クラリスは紙を手に取った。


 条件を見る。


 最初に目に入ったのは、価格だった。


 悪くない。


 むしろ、数字だけなら高い。


「価格は……悪くありませんね」


「はい」


「では、何が問題ですか」


 ノアは静かに言った。


「支払い条件です」


 クラリスは次の行を見る。


 納品後、六十日払い。


 売れ残り返品可。


 売場破損時は出品者負担。


 宣伝費として売上から二割控除。


 販売名義はベルナー商会。


 価格表示は商会判断。


 再注文時の優先供給義務。


 クラリスは読み進めるほど、指先が冷えていくのを感じた。


 数字は高い。


 だが、条件の一つ一つが、エルネスタ側へ損失を戻してくる。


 サラの言葉が頭をよぎる。


 最初は良い話に見える。


 後で、いろいろ引かれる。


「これは」


 ノアの目に、淡い表示が浮かんでいた。


【契約案】

【表面価格:高】

【実質回収期間:長】

【返品損失:高】

【価格決定権:相手側】

【商標信用:相手側へ移転】

【実質買い叩き:高】

【推奨:即時受諾不可】


 半値で買い叩かれるなら、まだ分かりやすい。


 だが、これは違う。


 高く見せている。


 条件で削っている。


 値段だけ見れば、エルネスタを評価しているように見える。


 だが、支払いも、返品も、名義も、値札も、少しずつ奪われる。


「価格は高いのに」


「はい」


 ノアは紙を指した。


「これは値引きではありません。損失の置き場所を、こちらに寄せている契約です」


 クラリスはしばらく黙った。


 雨の音が窓の外で細く続いている。


 荷馬車組合の中央の一段。


 グランベルの棚。


 リサの戻り札。


 全部任せる怖さ。


 その続きが、今度は書類で来た。


 棚ではなく、契約で。


     ◇


 夕方、ベルナー商会の男が宿を訪ねてきた。


 名は、トビアス・ベルナー。


 中年の男だった。


 腹は少し出ているが、身なりは整っている。


 指には、控えめな金の指輪。


 笑顔は柔らかい。


 商人らしい笑顔だった。


 サラが小部屋へ茶を運んできた時、彼の姿を見て、一瞬だけ目を伏せた。


 トビアスはそれに気づかない。


 気づいても、気にしない種類の人間に見えた。


「クラリス様。お目にかかれて光栄です」


 トビアスは深く頭を下げた。


「王都では、色々とご苦労なさったとか」


 クラリスの表情は変わらない。


 だが、ノアはその言葉を聞いた瞬間、少しだけ目を細めた。


 最初に悪評を置いてきた。


 値段の前に、立場を下げるための言葉だ。


「ご用件は、書簡の内容でよろしいでしょうか」


 クラリスが言うと、トビアスは笑った。


「ええ。率直に申しまして、今のエルネスタ領にとって悪い話ではないはずです」


「悪い話ではない」


「はい」


 トビアスは椅子に座り、持参した書類を広げた。


「王都大市は、信用のある商会を通した方が売れます。特に、貴族筋の商品は評判が大切ですから」


 評判。


 その言葉が、少しだけ重く落ちる。


「クラリス様のお名前で出すより、当商会の名義で出した方が、買い手も安心するでしょう」


 クラリスは黙って聞いていた。


「もちろん、こちらも危険を取ります。噂のある品を扱うわけですから」


 噂のある品。


 ノアはクラリスを見た。


 クラリスの姿勢は崩れていない。


 むしろ、少しだけ背筋が伸びている。


 怖い時ほど姿勢が良くなる。


 その癖が出ていた。


 トビアスは続けた。


「ですから、返品や宣伝費についてはご理解いただきたい。こちらも、評判を預かるのです」


「評判を預かる」


「ええ」


 トビアスはにこやかに言った。


「悪評を抱えた商品でも、売り方次第で価値は戻ります。私どもにお任せいただければ」


 クラリスの指が、膝の上でわずかに動いた。


 価値は戻ります。


 その言葉を、こういう形で使われた。


 ノアは書類を見た。


 表示が淡く浮かぶ。


【交渉相手:トビアス・ベルナー】

【提示価格:表面上良好】

【交渉姿勢:信用不安を利用】

【狙い:販売名義取得/価格決定権取得/返品損失転嫁】

【注意:悪評を値引き材料として使用】


 ノアは、すぐには口を出さなかった。


 ここで先に切るのは、クラリスの仕事だ。


 クラリスは書類を一枚手に取った。


「ベルナー様」


「はい」


「この条件ですと、販売名義は御商会になりますね」


「ええ。その方が売れます」


「値札も、御商会判断」


「売場に合わせる必要がありますから」


「売れ残りは返品可能」


「危険を分け合うためです」


「宣伝費は二割」


「必要な費用です」


「支払いは六十日後」


「王都では珍しくありません」


 クラリスは頷いた。


「つまり、商品が売れるまでの危険はエルネスタが持ち、売れた時の名義は御商会が持つのですね」


 トビアスの笑顔が、少しだけ薄くなった。


「少し、言い方が強いですな」


「弱く言えば、条件は変わりますか」


 トビアスは黙った。


 ノアは、クラリスを見た。


 今の返しは良い。


 硬いが、逃げていない。


 クラリスは続ける。


「この条件は受けられません」


 トビアスは目を細める。


「よろしいのですか。王都大市で売場を失えば、困るのはエルネスタ領では?」


「困ります」


「でしたら」


「ですが、困っていることと、値札を渡すことは違います」


 クラリスの声は少し硬い。


 だが、震えてはいなかった。


「私たちは、半値で失った信用を戻そうとしています。販売名義も、価格判断も、返品損失もすべて外へ渡すなら、それは信用を戻すことではありません」


 トビアスは笑みを消した。


「クラリス様。失礼ながら、今のあなたに信用を選ぶ余裕がおありで?」


 部屋の空気が冷えた。


「王都での評判は、まだ戻っておりません。悪女の噂が残る令嬢の商品を、誰がそのまま買いますか」


 クラリスの顔から血の気が引く。


 だが、下を向かなかった。


 ノアは静かに言った。


「買う人はいます」


 トビアスが初めてノアを見た。


「あなたは?」


「ノア・レインズです」


「ああ、勇者パーティを追われた値付け士の」


 トビアスの口元に、薄い笑みが戻る。


「なるほど。悪評同士、気が合うわけですか」


 ノアは反応しなかった。


 クラリスが、先に動いた。


「その言い方は、取り消してください」


 声は低かった。


 トビアスは少し眉を上げる。


「これは失礼。事実を少々乱暴に言いすぎました」


「事実ではありません」


「追放されたのでは?」


「彼の価値を見誤った人たちがいた、というだけです」


 ノアは、少しだけ目を伏せた。


 トビアスはクラリスを見る。


 クラリスはまっすぐ見返した。


「ノアを安く呼ぶ方に、私の商品は預けません」


 沈黙が落ちた。


 その一言で、部屋の温度が変わった。


 ノアは、何も言わなかった。


 言えなかった。


 トビアスは笑顔を戻そうとしたが、戻りきらなかった。


「……感情的ですな」


「はい」


 クラリスは即答した。


「ですが、条件判断は感情ではありません。この契約は受けません」


 ノアはそこで、書類を一枚返した。


「交渉の余地があるなら、条件を出します」


 トビアスは不機嫌そうにノアを見る。


「聞きましょう」


「販売名義はエルネスタ領。共同表記までなら可。値札はエルネスタ側承認制。返品は不良品のみ。売場破損の責任範囲を明記。宣伝費は定額。支払いは納品時半額、残額十日以内」


 トビアスは鼻で笑った。


「それでは、こちらの旨味が少ない」


「はい」


 ノアは頷いた。


「買い叩きの旨味は消しています」


 トビアスの顔が赤くなった。


「失礼な」


「交渉なら受けます。買い叩きなら帰っていただきます」


 クラリスは、その言葉を引き継ぐように言った。


「ベルナー様。今日はここまでにしましょう」


「後悔なさいますよ」


「するかもしれません」


 クラリスは言った。


「ですが、また半値で売る後悔よりはましです」


     ◇


 トビアスが帰った後、部屋には雨の音だけが残った。


 クラリスはしばらく黙っていた。


 背筋は伸びたまま。


 手は膝の上で握られている。


 そこへ、扉が小さく叩かれた。


「失礼します」


 サラだった。


 空になった茶器を下げに来たらしい。


 だが、盆を持つ手が少し迷っていた。


「何か?」


 クラリスが聞くと、サラは言いにくそうに口を開いた。


「あの……余計なことかもしれませんけど」


「構いません」


「あの人、帰る時に帳場で言ってました」


 ノアが顔を上げた。


「何をですか」


「エルネスタはまだ強気だって。悪女の噂があるのに、条件を選べると思ってるって」


 クラリスの指が一度だけ強く握られた。


 サラは慌てて続ける。


「でも、父があとで言ってました。噂を本当に怖がってる人は、最初から来ないって」


 クラリスは顔を上げた。


「どういう意味ですか」


「噂があるから買えない、じゃなくて、噂があるから安くできると思って来たんだろうって」


 サラは盆を抱え直した。


「うち、宿なので。評判の悪い人が来たら、本当に嫌な客は近づきません。でも、安く泊まれると思って近づいてくる人はいます」


 ノアは静かに聞いていた。


 クラリスも黙っていた。


 サラの言葉は、商売の専門用語ではない。


 だが、王都南区の宿で働く者の実感だった。


「悪評を怖がっている人と、悪評を使う人は違うんだと思います」


 サラはそう言って、少しだけ頭を下げた。


「すみません。偉そうに」


「いいえ」


 クラリスは首を振った。


「助かりました」


 サラは、ほっとしたように息を吐いた。


 それから、盆を抱えたまま、もう一度迷った。


「それと……」


 クラリスが顔を上げる。


「まだ何か?」


「ベルナー商会の人、帰りにもう一つ言ってました」


 ノアの目が細くなる。


「何を」


「共同売場なら、奥の棚が空いているだろうって。悪評のある品を入口近くに置かれたら、他の領が嫌がるからって」


 部屋の空気が、もう一段冷えた。


 サラは慌てて頭を下げた。


「すみません。私が聞いたのはそれだけです」


「いいえ」


 クラリスは静かに言った。


「大事なことです」


 サラは小さく頷き、茶器を持って下がっていった。


 扉が閉まる。


 雨の音が戻る。


 クラリスは、ゆっくりと息を吐いた。


「悪評を怖がっている人と、悪評を使う人は違う」


「はい」


 ノアは頷いた。


「良い視点です」


「宿の娘に、教えられましたね」


「はい」


 ノアは書類を揃えた。


「トビアスは、悪評を怖がっていたのではありません。値引き材料として使っていました」


「そして、棚の位置でも使うつもりですか」


「その可能性は高いです」


 クラリスは共同売場の書簡を見た。


 一区画を用意する。


 その言葉は、良い話に見えた。


 だが、一区画がどこにあるかは書かれていない。


 入口か。


 中央か。


 奥か。


 人が流れる場所か。


 人が通らない場所か。


 同じ棚でも、置き場で価値は変わる。


「棚をもらえるだけでは足りませんね」


「はい」


「どこに置かれるか。何の隣に置かれるか。誰が説明するか」


「はい」


 ノアは頷いた。


「次の交渉は、そこです」


 クラリスは、まだ少し震えている指を見た。


 ノアはその指を見て、すぐに視線を外した。


「クラリス様」


「はい」


「ありがとうございました」


「何がですか」


「私を安く呼ぶ方に、と言ってくださったことです」


 クラリスは一瞬だけ目を逸らした。


「事実です」


「はい」


「あなたは、便利な値付け士ではありません」


 ノアは答えなかった。


 クラリスは続ける。


「私が、そこを間違えてはいけないと思いました」


「間違えていません」


「どうでしょう」


 クラリスは苦く笑った。


「私は時々、あなたの力に頼りすぎています。今日も、あなたがいなければ条件を見落としていたかもしれません」


「見落としてはいません」


「そう言い切れますか」


「はい」


 ノアは短く言った。


「クラリス様は、ご自身で名義と値札の危うさを見ました」


 クラリスは、少しだけ息を吐いた。


「そうなら、よかったです」


 ノアは書類を机に置いた。


「ただ、トビアスの言ったことも一部は事実です」


「悪評のことですか」


「はい。王都大市で、悪評は条件交渉の材料にされます」


 クラリスは頷いた。


「分かっています」


「次は、もっと露骨に来る可能性があります」


「はい」


 クラリスは窓の外を見た。


 雨は、まだ細く降っている。


「ノア」


「はい」


「悪評を消すことは、すぐにはできません」


「はい」


「なら、悪評があっても選ばれる理由を置きます」


 ノアは少しだけ目を細めた。


 クラリスは書簡を三つ並べる。


 共同売場。


 南区の小口注文。


 ベルナー商会の買い叩き条件。


「共同売場は、条件交渉します。南区の注文は受けたいです。ベルナー商会は、こちらの条件を返します」


「はい」


「それから」


 クラリスは、少し迷ってから言った。


「王都大市に持っていく商品を、決め直しましょう」


「決め直す」


「はい。売れるものではなく、悪評があっても説明できるものです」


 ノアは頷いた。


「良い判断です」


 クラリスは小さく笑った。


「ラウルさんみたいな言い方ですね」


「違います」


「違いますか」


「はい。私は、もう少し短く言います」


「たしかに」


 少しだけ空気が緩んだ。


 だが、机の上の書類は重いままだ。


 王都大市は近づいている。


 良い棚。


 悪い条件。


 悪評を利用する商人。


 南区から届いた小さな注文。


 そして、共同売場の奥の棚。


 クラリスは、そのすべてを見た。


 半値札は剥がした。


 だが、値段を下げさせる手は、別の形で伸びてくる。


 今度は札ではない。


 契約書の行間から。


 噂の言葉から。


 信用という名の値引きから。


 そして、売場の奥から。


 クラリスはベルナー商会の書類を閉じた。


「買い叩きなら、帰っていただきます」


 自分に言い聞かせるように、もう一度言った。


 ノアは頷く。


「はい」


 雨はまだ止まない。


 だが、机の上には、断った書類と、受けるべき小さな注文が並んでいた。


 クラリスは、その二つを見比べた。


 高い条件に見える罠。


 小さいが、健全な注文。


 それから、王都大市の共同売場の書簡。


 棚は、用意される。


 だが、どこに置かれるかは、まだ決まっていない。


 その判断から、王都大市の準備は始まっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ