第22話 高い布には、悪い噂がつく
雨の日の再確認は、午前中で終わった。
結果だけを言えば、手戻し布は使えた。
だが、完全ではなかった。
乾いた日には出なかった引きが、親指の付け根に出た。
甲の当たりは軽くなったが、濡れると手首側が少しずれる。
ミリアはその場で控えに書き、リサは戻り札に丸をつけた。
雨天:甲の当たり軽減
雨天:親指付け根に引き
雨天:巻き直し必要
次回:留め位置変更
年配の男は、濡れた手戻し布を外しながら言った。
「甲はよくなった。親指は悪い」
ミリアは頷いた。
「直します」
「なら、使う」
「ありがとうございます」
「礼は直ってから言え」
リサがその言葉まで札に書こうとすると、年配の男が睨んだ。
「そこは書くな」
「使うって言いました」
「言ったが」
「書きます」
「厄介だな、お前」
「仕事です」
リサは、もう照れずにそう言った。
それで十分だった。
雨の日に見えたものは、戻り札に残った。
中央の一段は、まだ残る理由を持っている。
だが、クラリスたちはいつまでも荷馬車組合にいられない。
◇
雨が弱まった昼過ぎ、ミリアは工房へ戻った。
クラリスとノアが王都南区で借りている宿へ戻ると、帳場の主人が三通の書簡を預かっていた。
荷物を置ける裏庭と、商談に使える小部屋がある宿だった。
貴族向けの上等な宿ではない。
御者や小商人、荷運びを連れた商人が使う実務寄りの宿だ。
エルネスタ家は、王都大市の商談窓口にこの宿を仮の連絡先として届け出ていた。
だから、書簡は帳場を通って届く。
封蝋の一つは、王都大市の商談窓口。
もう一つは、王都南区の小商人組合。
最後の一つは、見覚えのない商会印だった。
帳場の横で、宿の娘が三通の書簡を両手で差し出した。
十五、六ほどの少女だ。
薄茶の髪を後ろで結び、濡れた床を気にしながらも、手元はしっかりしている。
「クラリス様宛です」
「ありがとうございます」
「いえ」
少女は一度下がろうとして、最後の封蝋をちらりと見た。
ほんの一瞬だった。
だが、ノアはそれに気づいた。
「その商会を知っていますか」
少女はびくりと肩を揺らした。
「えっと……すみません。勝手に見たわけじゃ」
「責めていません」
ノアが言うと、クラリスも静かに頷いた。
「気になることがあるなら、教えてください」
少女は帳場の奥を一度見た。
主人は別の客の応対をしている。
少女は少し声を落とした。
「ベルナー商会の封だと思います。うちに泊まる小商人さんたちが、たまに名前を出します」
「評判が悪いのですか」
クラリスが聞くと、少女は困った顔をした。
「悪い、というより……最初は良い話に見えるそうです」
「最初は」
「はい。高く買うとか、棚を用意するとか、紹介するとか言ってくれるんです。でも後で、手数料とか、宣伝費とか、場所代とか、いろいろ引かれるって」
少女は言ってから、慌てて口を押さえた。
「すみません。私は帳場を手伝ってるだけなので、詳しくは」
「十分です」
ノアは封を見た。
「名前は?」
「サラです」
「サラさん。助かりました」
サラは少しだけ頬を赤くした。
「父がよく言うんです。ちゃんと払う人は、先に言うって。後から増える人は、最初だけいい顔をするって」
クラリスは、その言葉を胸の中で受け止めた。
帳簿の言葉ではない。
宿の帳場の言葉だ。
だが、妙に重い。
「覚えておきます」
サラは小さく頭を下げ、今度こそ下がった。
◇
クラリスは濡れた手袋を外し、小部屋の椅子に座った。
雨の匂いが、まだ外套に残っている。
ここにいるのは、クラリスとノアだけだった。
ノアはまず、王都大市の商談窓口からの書簡を開いた。
目を通す。
表情は変わらない。
だが、少しだけ視線が止まった。
「王都大市の共同売場からです」
「共同売場?」
「はい。大市の期間中、複数領の商品を並べる棚が設けられます。エルネスタ領にも一区画を用意する、とあります」
クラリスの背筋が伸びた。
「それは、良い話では」
「はい。良い話です」
ノアは紙を置いた。
「ただし、条件があります」
クラリスは黙って続きを待つ。
ノアは二枚目を開いた。
「棚代は後払い。売上の一割。売れ残りの撤去費はこちら負担。破損品は出品者負担。値札は共同売場側の基準に合わせること」
「値札を、こちらで決められないということですか」
「完全には」
「それは困ります」
「はい」
ノアは頷いた。
「ただ、共同売場に出ないと、王都大市での露出は大きく落ちます」
クラリスは指を組んだ。
良い棚。
悪い条件。
いや、悪いだけではない。
向こうにも管理の都合がある。
多くの領の商品を並べるなら、値札の形式や棚代の取り方は必要だ。
だが、値段を置く場所を渡すのは危うい。
昨日の棚と同じだ。
全部任せれば、楽になる。
だが、何を見る力を渡すかが問題になる。
「二通目は?」
クラリスが聞く。
ノアは王都南区の小商人組合からの書簡を開いた。
「こちらは、手戻し布と捨てない布について問い合わせです。小口で試したい、と」
「南区から」
「はい。馬車宿、薬草問屋、夜番詰所の関係者が名を連ねています」
クラリスの表情が少し明るくなる。
南区の声が広がっている。
ベラやリサ、年配の男たちが使ったものが、別の現場へ届こうとしている。
「条件は」
「前金半分。残りは納品後十日。返品は不良品のみ。使用後の修繕相談あり」
「良い条件ですね」
「はい。小口ですが、健全です」
クラリスは小さく頷いた。
「では、これは前向きに」
「はい」
ノアは最後の書簡を手に取った。
ベルナー商会。
サラが気にしていた封蝋。
封は厚い。
紙質は良い。
そこに、少しだけ嫌な気配があった。
「三通目は」
ノアは封を切った。
読み始めてすぐ、目が止まる。
クラリスはそれだけで分かった。
良い話ではない。
ノアは最後まで読み、紙を机に置いた。
「ベルナー商会からです」
「内容は」
「王都大市用に、エルネスタ領の商品をまとめて買い取りたい、と」
クラリスは紙を手に取った。
条件を見る。
最初に目に入ったのは、価格だった。
悪くない。
むしろ、数字だけなら高い。
「価格は……悪くありませんね」
「はい」
「では、何が問題ですか」
ノアは静かに言った。
「支払い条件です」
クラリスは次の行を見る。
納品後、六十日払い。
売れ残り返品可。
売場破損時は出品者負担。
宣伝費として売上から二割控除。
販売名義はベルナー商会。
価格表示は商会判断。
再注文時の優先供給義務。
クラリスは読み進めるほど、指先が冷えていくのを感じた。
数字は高い。
だが、条件の一つ一つが、エルネスタ側へ損失を戻してくる。
サラの言葉が頭をよぎる。
最初は良い話に見える。
後で、いろいろ引かれる。
「これは」
ノアの目に、淡い表示が浮かんでいた。
【契約案】
【表面価格:高】
【実質回収期間:長】
【返品損失:高】
【価格決定権:相手側】
【商標信用:相手側へ移転】
【実質買い叩き:高】
【推奨:即時受諾不可】
半値で買い叩かれるなら、まだ分かりやすい。
だが、これは違う。
高く見せている。
条件で削っている。
値段だけ見れば、エルネスタを評価しているように見える。
だが、支払いも、返品も、名義も、値札も、少しずつ奪われる。
「価格は高いのに」
「はい」
ノアは紙を指した。
「これは値引きではありません。損失の置き場所を、こちらに寄せている契約です」
クラリスはしばらく黙った。
雨の音が窓の外で細く続いている。
荷馬車組合の中央の一段。
グランベルの棚。
リサの戻り札。
全部任せる怖さ。
その続きが、今度は書類で来た。
棚ではなく、契約で。
◇
夕方、ベルナー商会の男が宿を訪ねてきた。
名は、トビアス・ベルナー。
中年の男だった。
腹は少し出ているが、身なりは整っている。
指には、控えめな金の指輪。
笑顔は柔らかい。
商人らしい笑顔だった。
サラが小部屋へ茶を運んできた時、彼の姿を見て、一瞬だけ目を伏せた。
トビアスはそれに気づかない。
気づいても、気にしない種類の人間に見えた。
「クラリス様。お目にかかれて光栄です」
トビアスは深く頭を下げた。
「王都では、色々とご苦労なさったとか」
クラリスの表情は変わらない。
だが、ノアはその言葉を聞いた瞬間、少しだけ目を細めた。
最初に悪評を置いてきた。
値段の前に、立場を下げるための言葉だ。
「ご用件は、書簡の内容でよろしいでしょうか」
クラリスが言うと、トビアスは笑った。
「ええ。率直に申しまして、今のエルネスタ領にとって悪い話ではないはずです」
「悪い話ではない」
「はい」
トビアスは椅子に座り、持参した書類を広げた。
「王都大市は、信用のある商会を通した方が売れます。特に、貴族筋の商品は評判が大切ですから」
評判。
その言葉が、少しだけ重く落ちる。
「クラリス様のお名前で出すより、当商会の名義で出した方が、買い手も安心するでしょう」
クラリスは黙って聞いていた。
「もちろん、こちらも危険を取ります。噂のある品を扱うわけですから」
噂のある品。
ノアはクラリスを見た。
クラリスの姿勢は崩れていない。
むしろ、少しだけ背筋が伸びている。
怖い時ほど姿勢が良くなる。
その癖が出ていた。
トビアスは続けた。
「ですから、返品や宣伝費についてはご理解いただきたい。こちらも、評判を預かるのです」
「評判を預かる」
「ええ」
トビアスはにこやかに言った。
「悪評を抱えた商品でも、売り方次第で価値は戻ります。私どもにお任せいただければ」
クラリスの指が、膝の上でわずかに動いた。
価値は戻ります。
その言葉を、こういう形で使われた。
ノアは書類を見た。
表示が淡く浮かぶ。
【交渉相手:トビアス・ベルナー】
【提示価格:表面上良好】
【交渉姿勢:信用不安を利用】
【狙い:販売名義取得/価格決定権取得/返品損失転嫁】
【注意:悪評を値引き材料として使用】
ノアは、すぐには口を出さなかった。
ここで先に切るのは、クラリスの仕事だ。
クラリスは書類を一枚手に取った。
「ベルナー様」
「はい」
「この条件ですと、販売名義は御商会になりますね」
「ええ。その方が売れます」
「値札も、御商会判断」
「売場に合わせる必要がありますから」
「売れ残りは返品可能」
「危険を分け合うためです」
「宣伝費は二割」
「必要な費用です」
「支払いは六十日後」
「王都では珍しくありません」
クラリスは頷いた。
「つまり、商品が売れるまでの危険はエルネスタが持ち、売れた時の名義は御商会が持つのですね」
トビアスの笑顔が、少しだけ薄くなった。
「少し、言い方が強いですな」
「弱く言えば、条件は変わりますか」
トビアスは黙った。
ノアは、クラリスを見た。
今の返しは良い。
硬いが、逃げていない。
クラリスは続ける。
「この条件は受けられません」
トビアスは目を細める。
「よろしいのですか。王都大市で売場を失えば、困るのはエルネスタ領では?」
「困ります」
「でしたら」
「ですが、困っていることと、値札を渡すことは違います」
クラリスの声は少し硬い。
だが、震えてはいなかった。
「私たちは、半値で失った信用を戻そうとしています。販売名義も、価格判断も、返品損失もすべて外へ渡すなら、それは信用を戻すことではありません」
トビアスは笑みを消した。
「クラリス様。失礼ながら、今のあなたに信用を選ぶ余裕がおありで?」
部屋の空気が冷えた。
「王都での評判は、まだ戻っておりません。悪女の噂が残る令嬢の商品を、誰がそのまま買いますか」
クラリスの顔から血の気が引く。
だが、下を向かなかった。
ノアは静かに言った。
「買う人はいます」
トビアスが初めてノアを見た。
「あなたは?」
「ノア・レインズです」
「ああ、勇者パーティを追われた値付け士の」
トビアスの口元に、薄い笑みが戻る。
「なるほど。悪評同士、気が合うわけですか」
ノアは反応しなかった。
クラリスが、先に動いた。
「その言い方は、取り消してください」
声は低かった。
トビアスは少し眉を上げる。
「これは失礼。事実を少々乱暴に言いすぎました」
「事実ではありません」
「追放されたのでは?」
「彼の価値を見誤った人たちがいた、というだけです」
ノアは、少しだけ目を伏せた。
トビアスはクラリスを見る。
クラリスはまっすぐ見返した。
「ノアを安く呼ぶ方に、私の商品は預けません」
沈黙が落ちた。
その一言で、部屋の温度が変わった。
ノアは、何も言わなかった。
言えなかった。
トビアスは笑顔を戻そうとしたが、戻りきらなかった。
「……感情的ですな」
「はい」
クラリスは即答した。
「ですが、条件判断は感情ではありません。この契約は受けません」
ノアはそこで、書類を一枚返した。
「交渉の余地があるなら、条件を出します」
トビアスは不機嫌そうにノアを見る。
「聞きましょう」
「販売名義はエルネスタ領。共同表記までなら可。値札はエルネスタ側承認制。返品は不良品のみ。売場破損の責任範囲を明記。宣伝費は定額。支払いは納品時半額、残額十日以内」
トビアスは鼻で笑った。
「それでは、こちらの旨味が少ない」
「はい」
ノアは頷いた。
「買い叩きの旨味は消しています」
トビアスの顔が赤くなった。
「失礼な」
「交渉なら受けます。買い叩きなら帰っていただきます」
クラリスは、その言葉を引き継ぐように言った。
「ベルナー様。今日はここまでにしましょう」
「後悔なさいますよ」
「するかもしれません」
クラリスは言った。
「ですが、また半値で売る後悔よりはましです」
◇
トビアスが帰った後、部屋には雨の音だけが残った。
クラリスはしばらく黙っていた。
背筋は伸びたまま。
手は膝の上で握られている。
そこへ、扉が小さく叩かれた。
「失礼します」
サラだった。
空になった茶器を下げに来たらしい。
だが、盆を持つ手が少し迷っていた。
「何か?」
クラリスが聞くと、サラは言いにくそうに口を開いた。
「あの……余計なことかもしれませんけど」
「構いません」
「あの人、帰る時に帳場で言ってました」
ノアが顔を上げた。
「何をですか」
「エルネスタはまだ強気だって。悪女の噂があるのに、条件を選べると思ってるって」
クラリスの指が一度だけ強く握られた。
サラは慌てて続ける。
「でも、父があとで言ってました。噂を本当に怖がってる人は、最初から来ないって」
クラリスは顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「噂があるから買えない、じゃなくて、噂があるから安くできると思って来たんだろうって」
サラは盆を抱え直した。
「うち、宿なので。評判の悪い人が来たら、本当に嫌な客は近づきません。でも、安く泊まれると思って近づいてくる人はいます」
ノアは静かに聞いていた。
クラリスも黙っていた。
サラの言葉は、商売の専門用語ではない。
だが、王都南区の宿で働く者の実感だった。
「悪評を怖がっている人と、悪評を使う人は違うんだと思います」
サラはそう言って、少しだけ頭を下げた。
「すみません。偉そうに」
「いいえ」
クラリスは首を振った。
「助かりました」
サラは、ほっとしたように息を吐いた。
それから、盆を抱えたまま、もう一度迷った。
「それと……」
クラリスが顔を上げる。
「まだ何か?」
「ベルナー商会の人、帰りにもう一つ言ってました」
ノアの目が細くなる。
「何を」
「共同売場なら、奥の棚が空いているだろうって。悪評のある品を入口近くに置かれたら、他の領が嫌がるからって」
部屋の空気が、もう一段冷えた。
サラは慌てて頭を下げた。
「すみません。私が聞いたのはそれだけです」
「いいえ」
クラリスは静かに言った。
「大事なことです」
サラは小さく頷き、茶器を持って下がっていった。
扉が閉まる。
雨の音が戻る。
クラリスは、ゆっくりと息を吐いた。
「悪評を怖がっている人と、悪評を使う人は違う」
「はい」
ノアは頷いた。
「良い視点です」
「宿の娘に、教えられましたね」
「はい」
ノアは書類を揃えた。
「トビアスは、悪評を怖がっていたのではありません。値引き材料として使っていました」
「そして、棚の位置でも使うつもりですか」
「その可能性は高いです」
クラリスは共同売場の書簡を見た。
一区画を用意する。
その言葉は、良い話に見えた。
だが、一区画がどこにあるかは書かれていない。
入口か。
中央か。
奥か。
人が流れる場所か。
人が通らない場所か。
同じ棚でも、置き場で価値は変わる。
「棚をもらえるだけでは足りませんね」
「はい」
「どこに置かれるか。何の隣に置かれるか。誰が説明するか」
「はい」
ノアは頷いた。
「次の交渉は、そこです」
クラリスは、まだ少し震えている指を見た。
ノアはその指を見て、すぐに視線を外した。
「クラリス様」
「はい」
「ありがとうございました」
「何がですか」
「私を安く呼ぶ方に、と言ってくださったことです」
クラリスは一瞬だけ目を逸らした。
「事実です」
「はい」
「あなたは、便利な値付け士ではありません」
ノアは答えなかった。
クラリスは続ける。
「私が、そこを間違えてはいけないと思いました」
「間違えていません」
「どうでしょう」
クラリスは苦く笑った。
「私は時々、あなたの力に頼りすぎています。今日も、あなたがいなければ条件を見落としていたかもしれません」
「見落としてはいません」
「そう言い切れますか」
「はい」
ノアは短く言った。
「クラリス様は、ご自身で名義と値札の危うさを見ました」
クラリスは、少しだけ息を吐いた。
「そうなら、よかったです」
ノアは書類を机に置いた。
「ただ、トビアスの言ったことも一部は事実です」
「悪評のことですか」
「はい。王都大市で、悪評は条件交渉の材料にされます」
クラリスは頷いた。
「分かっています」
「次は、もっと露骨に来る可能性があります」
「はい」
クラリスは窓の外を見た。
雨は、まだ細く降っている。
「ノア」
「はい」
「悪評を消すことは、すぐにはできません」
「はい」
「なら、悪評があっても選ばれる理由を置きます」
ノアは少しだけ目を細めた。
クラリスは書簡を三つ並べる。
共同売場。
南区の小口注文。
ベルナー商会の買い叩き条件。
「共同売場は、条件交渉します。南区の注文は受けたいです。ベルナー商会は、こちらの条件を返します」
「はい」
「それから」
クラリスは、少し迷ってから言った。
「王都大市に持っていく商品を、決め直しましょう」
「決め直す」
「はい。売れるものではなく、悪評があっても説明できるものです」
ノアは頷いた。
「良い判断です」
クラリスは小さく笑った。
「ラウルさんみたいな言い方ですね」
「違います」
「違いますか」
「はい。私は、もう少し短く言います」
「たしかに」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、机の上の書類は重いままだ。
王都大市は近づいている。
良い棚。
悪い条件。
悪評を利用する商人。
南区から届いた小さな注文。
そして、共同売場の奥の棚。
クラリスは、そのすべてを見た。
半値札は剥がした。
だが、値段を下げさせる手は、別の形で伸びてくる。
今度は札ではない。
契約書の行間から。
噂の言葉から。
信用という名の値引きから。
そして、売場の奥から。
クラリスはベルナー商会の書類を閉じた。
「買い叩きなら、帰っていただきます」
自分に言い聞かせるように、もう一度言った。
ノアは頷く。
「はい」
雨はまだ止まない。
だが、机の上には、断った書類と、受けるべき小さな注文が並んでいた。
クラリスは、その二つを見比べた。
高い条件に見える罠。
小さいが、健全な注文。
それから、王都大市の共同売場の書簡。
棚は、用意される。
だが、どこに置かれるかは、まだ決まっていない。
その判断から、王都大市の準備は始まっていた。




