最終章 流転の果てに
春を迎えた山並みは、淡い霞の中に静かに息づいていた。野鳥の声が響き、どこからともなく小川のせせらぎが聞こえてくる。またこの季節が巡ってきたのだ。
――時は、確かに流れている。
蓮真は一歩一歩、山道を進んでいた。背には今も封祓の符と数珠、祈祷の道具を背負い、黒い法衣の裾を風に揺らしている。
彼の歩みは静かだが、その目にはあの日の光景が焼き付いて離れない。
――血に濡れた夜。
――鬼の咆哮。
――そして、仲間たちが命を懸けて闘った姿。
「……三年か」
呟きは小さく、山の木々に吸い込まれていった。
あの戦いで奪われた命は数知れず、桐原藩も名ばかりと成り果てた。だが、残された人々は生き、互いを支え合い、再び笑顔を取り戻そうとしている。
人は弱くも強い――それを誰よりも知った三年だった。
道を折れると小さな石地蔵があった。穏やかな表情で手を合わせるその足下には、桜の花びらが落ちている。蓮真はゆっくりと跪き、数珠を手に祈りを捧げる。目を閉じた瞼の裏に、ふと、戦いの最後に見た葵の背中がよみがえった。
少年から青年へ、鬼の血を背負いながらも真っ直ぐ立ち続けるその姿は、朔真によく似ていた。
蓮真がまだ修行中の頃、一度だけ若き日の朔真に出会った。武家の出でありながら、村人と共に泥だらけになって畑に立つ――そんな男だった。
「葵……」
蓮真は静かに名を呼んだ。
それは祈りのような響きで、春風がそっとそれを攫っていった。
春の陽光を浴びた山道を抜けると、かつて清眼党により、鬼も人も無く焼かれた村の跡が広がっていた。黒く煤けた家屋や倒木は長い雨風に晒され、今や朽ち果てている。
けれど目を転じれば、そこには簡素ながらも人家が建ち、畑が耕され、子どもたちの笑い声さえ響いていた。
――生き延びた者たちは、確かにここで生きている。
それは、何よりも重い勝利の証だった。
村外れの小さな小屋の前で、ひとりの男が草履を直していた。
しなやかな身のこなし、気配を抑えた佇まいは三年前と変わらない。
だが、その表情にはどこか柔らかさが増していた。
「……百合丸」
声をかけると、彼は軽く顔を上げた。
頬にはかすかな傷痕が残り、その目は以前より深みを増している。
影月戦で受けた重傷は癒え、今は薬売りとして再び諸国を回っているという。
「珍しいな。坊さんがこんな田舎まで足を運ぶなんて」
「お前がいると思ったからだよ」
「……ま、そういうことにしておこうか」
百合丸は微かに笑みを浮かべ、仕上げた草履を手に立ち上がった。彼の腰には、以前のような忍びの刃はない。
代わりに、小さな薬箱が背に揺れている。
――殺しの道具ではなく、癒やしの道具を持つ姿。
その変化に、蓮真は胸の奥で静かな安堵を覚えた。
百合丸の目が一瞬、遠くを見やる。
「……あの夜のことは、忘れられねぇよな」
「忘れる必要はないさ」
蓮真は穏やかに首を振った。
「俺たちはあの夜を経て、こうして生きている。お前の薬も、剣も、命を救うためにあった。それでいい」
百合丸は何も言わず、ただ視線を落として微笑んだ。その笑みには、あの夜の痛みと、それを抱えたまま歩き出す覚悟が滲んでいた。
やがて蓮真はそこからまだ先にある、黒目村へと向かった。
そこでは、少女だった燈が、今は若き巫女として人々に祈りを捧げていた。白い衣をまとい、手にした数珠が柔らかな光を帯びる。
その佇まいは神秘的でありながら、どこか優しい温もりを感じさせた。
蓮真の姿に気づいた燈は、ぱっと顔を綻ばせる。
「蓮真さま!」
「久しぶりだな、燈」
「はい……! 村の人たちも、もう恐れることなく眠れるようになりました。少しずつですが、笑顔も増えてきています」
燈は三年前よりも少し背が伸び、少女らしいあどけなさを残しながらも、巫女としての気品と強さを纏っていた。
あの夜、彼女が放った祈りの光は確かに影月の闇を退け、多くの命を救った。
その力は今も彼女の内に息づいている。
蓮真は頷き、静かに微笑んだ。
「お前の祈りが、この地を救ったんだ。胸を張っていい」
「……いえ。みんなが一緒だったからです。葵さまも、百合丸さんも、蓮真さまも……」
燈の声は柔らかく震え、遠い夜を思い出すように視線を落とした。
――葵。
その名を思い浮かべ、蓮真は小さく息を吐いた。彼は今、北の山深くで暮らしていると聞く。
桐原藩の名跡は継がず、ひとりの武士として夜哭丸と共に、ただ静かに生きているらしい。
だが蓮真には、それが葵らしい選択だと思えた。背負ったものはあまりにも大きく、簡単に癒えるものではない。
それでも彼は、あの夜のまっすぐな瞳のまま未来へと歩みを進めているのだろう。
蓮真はふと空を仰いだ。
柔らかな陽射しの中、桜の花弁が風に揺れている。あの日の夜を思い出すたびに、胸の奥の痛みは消えない。
だがその痛みは、共に戦った証でもあった。
――彼らは確かに生きた。
――そして今も、生きている。
黒目村を後にした蓮真は、ひとり街道沿いを歩いていた。
街道を抜け、いく日か過ぎた頃、かつて戦いの中心となった城下町が見えた。荒れ果てたままの廃屋や崩れた石畳が、三年の月日が経った今でも人の手が入らずに取り残されている。
しかし、かつて影月の瘴気に覆われ何もかもが失われたこの地にも、ようやく生命の息吹が戻りつつあった。石垣の隙間に芽吹いた小花は、すべての傷跡を包むように柔らかな色彩をまとい、若草が空に向けて葉を伸ばす。
――時は確かに流れている。
道の隅に簡素な石碑がひとつだけ置かれていた。碑の上には、新しい花が供えられていた。山に咲く藤の花だ。
誰が置いたのかはわからない。だが、この地がもう呪われた地ではなく、祈りを捧げる地となったことを、その花が雄弁に語っていた。
この先には、かつて影月が封じられていた祠がある。
苔むした石段を上ると、静寂に包まれた祠が現れた。否、かつて祠であったものは、いまや崩れた石の断片に過ぎない。
あの夜、血と瘴気に塗れたこの地は、今では穏やかな緑に覆われ、鳥の声さえ戻っている。だが、蓮真の胸にはあの夜の惨烈な記憶が鮮明に刻まれていた。鬼の咆哮、剣戟の音、闇を裂いた祈りの光。
そして――葵が振り下ろした一太刀の重み。
蓮真はゆっくりと目を閉じた。彼の脳裏に、もう会うことのできない者たちの面影が浮かぶ。
影月の呪縛を断ち切れず鬼に身を堕とした朔真。
愛するものを守るため命を懸けた紫苑。
そして、沙耶――。
闇に堕ちようとも、最後まで人であろうとした者たちの魂。
「……安らかに眠れ」
低く呟き、手を合わせる。
風が吹き抜け、藤の花の花弁が舞った。
まるで祈りの声に応えたかのように、木々の隙間から柔らかな光が差し込む。
蓮真はゆっくりと顔を上げた。
祠の前で深く息を吸い込み、静かな決意を胸に刻む。この先もまた、彼は歩みを止めることはないだろう。
鬼や闇が人の世から消えることはない。
だがそれでも、守り抜くべき命がある限り――祈りを捧げる。
石段を降りる足取りは穏やかだった。山の向こうには、暮れかけた空の中に朱色の光が滲んでいる。
春を告げるその光は、遠い未来への道を照らすようだった。
蓮真は一度だけ振り返り、祠を見上げる。そこにはもう、鬼の影も怨嗟の声もない。
ただ、静かな風が吹き抜けるばかり。
「――行こうか」
誰にともなく呟き、僧は再び歩き出した。山の稜線の向こうで、ゆっくりと夜が訪れる。その夜は、もう恐怖ではなく、静かな眠りを与えるものとなるだろう。
やがて道は闇に溶けていく。
だがその背には、確かに灯火のような希望が宿っていた――。
完
ここまで読んでいただきありがとうございます。
続けて「月影ノ誓 番外編」といたしまして、桐原葵の後日譚を少しだけ付け加えました。
お読みいただけると幸いです。