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序章 黒鴉の爪痕 その4 奮闘、開始!

家臣たちと紹介されてのちの数日は、劉備による細かい説明も兼ねた案内や、孔明自身が城になじむ期間として使われた。

劉備と、そして主騎の趙雲は、つねに孔明のかたわらにいた。

劉備の説明はよどみがなかったが、それでも付け足しがあると、趙雲が口を添えてくれる。

新野城(しんやじょう)の面々は、ほとんどが孔明を無視していたので、趙雲のようにふつうに口を利いてくれる人間がそばにいるというだけで、孔明の安心感は増した。


そして、そろそろ実務を行おうということで話が決まり、孔明はあらたにしつらえてもらった執務室に足を踏み入れた。

大部屋で、主だった文官たちは、ほぼすべてそこに集められているとのことだ。


だが、なにかおかしい。

静かすぎる。

人の気配が薄いのである。


いやな予感がして執務室の中を見回してみれば、そこには麋竺(びじく)ひとりが席に座っているほかは、居心地のわるそうな書記たちが三人ほど、困り顔で孔明を出迎えるばかりだった。

孔明は瞬時に悟った。

おそらく、ほかの者は、仕事をやらないつもりなのだ。

孔明を困らせてやろうという魂胆なのだろう。


なにかしらの反発があろうと孔明も思っていた。

だが、ここまで幼稚な手段を取られるとは。

憤慨し、かつ呆れていると、麋竺が悲しそうな顔をして言ってきた。

「申し訳ない、軍師どの。

どうもみなで示し合わせて、仕事の手を止めようという相談になったらしいのだ。

今日はわたしのほかは、だれも出仕(しゅっし)してきておらぬ」

そういえば、調練場のほうからも、兵士たちの足音、掛け声等がまったく聞こえてこない。

文武両官で、いっせいに孔明を無視しようという腹積もりなのか。


麋竺は孔明の顔色をうかがい、おどおどとした態度で、

「家から弟を引っ張り出してこようか。あれでも、いないよりましだから」

とか、

「うちの字の読める者たちを連れてこようか」

と言う。

どうも落ち着かない。


孔明はちらっと、山と積まれた竹簡(ちくかん)と、執務室に来てくれた面々を勘定してから、麋竺を励ますように、にっ、と歯を見せて笑った。

「ご心配なく。これだけの人数でも足りまする」

「た、足りる? まことですかな? 軍師、こう申し上げてはなんだが、強がりならば……」

「強がりではございませぬ。さあ、仕事をやってしまいましょう」

と涼しく言ってのける。


しかし、表では涼しげな顔をしていても、孔明のはらわたは煮えくりかえっていた。

自分に対するいやがらせだけなら、困った人たちだと思うだけで済んだ。

だが、かれらが仕事をしないということは、上が仕事をしないということである。

つまり、城の人間が仕事をしなければ、劉備が面倒を見ている民すべてに迷惑がおよぶのだ。

迷惑がおよぶばかりではなく、示しも付かない。

第一、劉備が選んだこの自分を無視するということは、劉備を無視すると同義ではないか。


だれがこのつまらぬ嫌がらせの首謀者なのかと、問い詰めたい気持ちをこらえて、自分の席に着き、ぐっと力強く筆を握った。

さいわいなことに、敷物にいやがらせの仕掛けがあるとか、そういうみみっちいことはなく、すぐに仕事にとりかかることができた。


決済前の竹簡をひとつひとつを丁寧に広げつつ、孔明はまだおどおどと、身の置き所がなさそうにしている麋竺に言う。

「書類仕事は午前中にすませてしまいましょう。

このぶんでは裁判も陳情も滞っているでしょうから、午後に一気に片付けます」

「一気に? おひとりで?」

目を白黒させる麋竺に、孔明は内心では、

『やってみせようではないか』

と思っていたが、表面では穏やかに微笑んで、

「そうです」

と頷くにとどめた。

孔明はそもそも仕事の虫だ。

困難がおおきければ大きいほどに燃える人間でもある。

だれが仕組んだいやがらせなのか、よくわからないが、受けて立ってやろうではないかと、心に誓う。


「いままで事務仕事は、公祐(こうゆう)孫乾(そんけん))どのが仕切っておられたのだが」

と、麋竺は自分も書類仕事をさばきながら、寂しそうに言った。

「どうも、あの御仁は、わが君が貴殿を贔屓にしているのを見て、自分のことを否定された気がしているらしくてな」

こんな様子では、自分の前任である徐庶(じょしょ)も苦労しただろうなと、孔明は想像する。

徐庶は孔明にとって、兄に等しい人物だ。

おなじ司馬徳操(しばとくそう)司馬徽(しばき)水鏡先生(すいきょうせんせい))の私塾に通い、切磋琢磨した大切な兄弟子。

同じ席に座って、徐庶もまた、ひとりでせっせと仕事をこなしていたのだろうか。

だとすれば、同じ師に仕え、同じ釜の飯を食った、兄とも慕ったあの男の名を汚さぬよう、けんめいに励むだけだ。


そんなことを考えながら、すさまじい速さで文字を綴っていく。

麋竺は孔明の速さについていくのがやっとというふうだったが、さいわいなことに、かれがもともと、やり手の大商人だったというところが利いた。

麋竺は数字に強く、会計関連の仕事はほとんど任せることができることもわかったのだ。

「これくらいならば役に立てるが、しかし、軍師どのは筆が早いのう。ついていくのがやっとだ」

と、麋竺は感嘆している。

みなの意向にさからって集まってくれた書記たちも、さいわいにも有能な者たちがそろっていて、孔明は予定通りに午前中にはすべての書類仕事を片付けることに成功した。


つづく

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