雨の章 その4 ことのはじまり
おまえは、ひとごろしがうますぎる。
そのひと言ですべてが始まったようでもあり、終わったようでもある。
話は、二日まえにさかのぼる。
各部隊で対抗して、模擬戦がおこなわれた。
しかし趙雲の軍の、模擬戦の結果はさんざんであった。
趙雲の部隊のなかでは、もっとも弓馬にたけた副将の陳到が、長女の銀輪の病のために早退したこともあり、趙雲の部隊は糜芳の部隊にボロ負けをしてしまったのだ。
もともと、糜芳と趙雲は仲がわるく、当然、その下についている部将たちの仲も、よいものではなかった。
「いまなら、おまえを針ねずみにできるかもな」
ろくに弓のあたらなかった趙雲に対し、糜芳は言ったが、機会さえあったなら、実際にそうしたかもしれない。
妙に鋭い視線が肌に痛い。
顔は笑っていても、目が本気なのである。
そもそも、糜芳とは、はじめから仲がわるかったわけではない。
むしろ、はじめは良かったのだ。
それがどうしてこうなってしまったか、趙雲には思い当たるフシがまるでないのだから、解決のしようがない。
趙雲のほうとしても、一方的にきらってくる糜芳をよく思えるはずもない。
それに、糜芳の向けてくる怒り、いや、嫉妬の目線を見返していると、なぜだかふしぎと刺激される記憶があるのだ。
かつて、公孫瓚のもとにいた際に、自分をつめたく突き放した男。
その男を、なぜだか思い出す。
「おまえはひとごろしはうまいだけの男だ。
だからこそ、わが君に重用されているにすぎぬ」
糜芳はそう嘲笑して去って行ったが、趙雲はそれにひとこともかえせなかった。
むかし、やはりそんなことをいわれたことがある。
ひとごろしがうまい。
そのことに反駁するつもりは無い。
実際にうまいのだろう。
趙雲が暗く冷たい記憶に苛まされているあいだに、麋芳は趙雲を言い返せない意気地なしと判断したか、鼻を鳴らして去っていった。
たとえどんなに心に波が立とうと、それを懸命にこらえて、やりすごしてしまうのが趙雲のやり方なのである。
悔しいのに、口が、体が動かない。
そんならしくもない状態に置かれているとき、部将のひとりが呼び止めてきた。
「今宵は、叔至(陳到)が夜警の当番ですが、交代は如何いたしますか?」
呼び止めてきた部将も、どこかしら態度がつんけんしている。
模擬試合での趙雲の不様さ、そして、そのあとに、糜芳がなにを言っても沈黙をまもって応じようとしなかった態度が不満なのだろう。
「おれが代わる」
みじかく趙雲が答えると、部将は、皆に伝えます、といって辞去しようとした。
その背中に、趙雲は声をかける。
「ついでに、みなに、すまぬ、と伝えてくれ。
おれは、どうしても弓というものと相性がわるいのだ。
手抜きをしたわけでも、手の内を隠したわけでもないのだぞ」
趙雲がさびしげに笑ってみせると、部将は、たちまち剣呑な表情をひっこめて、むしろ悲しそうに言った。
「だれしも得手不得手がございます。
弓以外の子龍さまの腕のすばらしさは、みなも知っております」
「すまぬな。みなに、おれを悪い手本として、調練にはげめ、と伝えてくれ」
部将は、もう一度、礼を取ると、場を辞した。
空を見上げれば、いまにも泣きそうな曇天が、のしかかるようにある。
厚い雲に覆われて、いまにも降り出しそうな気配を見せていた。
俺が見上げる空は、いつもこんなふうに暗く閉ざされている。
故郷で見上げた空もそうであったし、易京で潘季鵬を助けようとした日に見た空も、こんなふうに重く、暗かった。
※
「潘季鵬とは、さきほど、うなされて口にしていた名前だな」
孔明が竹簡に文字をしるしながら、さりげなく言ったので、趙雲は、寝台に寝そべった姿勢のまま、孔明のほうを向いた。
「おれは、うなされていたのか」
「潘季鵬がどうとか、助けねばならぬとかなんとか。
すまぬな。聞かれたくないことであったのか」
孔明は、律儀に筆を止め、すでに綴っていたらしい、潘季鵬の名をしるした部分を、竹簡から消そうと手を動かしている。
しかし、趙雲は頭をよわよわしく振った。
「わざわざ消すこともない。潘季鵬の名ならば、わが君もご存知だし、いまさら隠すようなものでもないのだ。
そうだな。潘季鵬のことから話したほうがわかりやすいか」
独り言のようにつぶやいて、趙雲は先をつづけた。
つづく




