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序章 黒鴉の爪痕 その20 真実に向けて

料理女の蘇果(そか)は、しばらく、かの女の兄の経営する行神亭(こうじんてい)に引っ込んでいた。

そのためなのか、周慶(しゅうけい)の必死の努力があったにもかかわらず、厨房の料理は以前ほどに評判をとらなくなってしまっていた。

宿直をする者たちも、

「最近の飯はどうも水加減がよくない」

「はっきり言って、味気ない。塩が足らぬ」

などと愚痴をこぼしている。


それが城下にも聞こえて行ったのか、ほどなく、蘇果が行神亭から戻って来た。

とたん、塩味の絶妙さは戻って来たのだが、やはり、飯の水加減については、以前のようにはならなかった。

誰もが黙っていたが、宋白妙(そうはくみょう)のことを思い出さない者はない様子だ。

白妙に片思いをしていた劉封(りゅうほう)などは、すっかりしょげていて、兵の調練にも力が入らないらしく、劉備を心配させている。


「白妙はおっちょこちょいだったが、真面目にしようと努めてはいた。

劉封の恋が実ったかどうかは怪しいわい」

と、趙雲の部屋の前で語らってから執務に戻ってくれた簡雍(かんよう)が、休憩時間に言った。


簡雍は、孔明とふつうにことばを交わせたことを機に、まるではじめから執務室に通っていたかのような顔をして戻って来たのだ。

麋竺(びじく)はあきれ果てていたが、孔明としてはうれしい。


「なぜ恋が実らないと?」

孔明が問うと、簡雍は肩をすくめつつ、答えた。

「そりゃ軍師、劉封にはれっきとした許嫁(いいなづけ)がいる」

「そうなのですか? つまり、劉封どのは、白妙を側室にしようとしていたと?」

「ま、そういうことになるな。

こう言っちゃなんだが、自分で一寸の土地も支配していないうちから妻の数だけ増やしても仕方ないと、わしは思うのだが、最近の若い者はちがうのかねえ」

「ちがいませぬよ。劉封どのは……そうでしたか」

言い淀みつつ、孔明も呆れる。

だが、白妙が死んだとき、床に身を投げて激しく嘆いていた劉封の姿を思い出すと、気の毒で、簡雍ほどには声高に批判できなかった。



ほどなく、更衣のため席を立っていた麋竺が帰って来た。

なぜだか広い執務室のなかをきょろきょろ見回している。

どうしたのかと尋ねると、おかしな答えが返って来た。

「周慶か、周慶の息子がここに来ておらぬかね」


周慶は白妙のことがあって以来、自分を避けている様子だったから、執務室に一人で来るはずがないと、孔明は思う。

その息子も同様だ。

周慶の息子は今年で七つのやんちゃな男の子で、寡婦(かふ)の周慶とともに城で暮らしているのだが、さいきんは、どこからか迷い込んできた例の黄色い犬を相手に遊んでいることが多い。

周慶とその息子と犬が暮らす場所と、執務室は離れているので、かれらが来ることはないだろう。


麋竺もそれとわかっているだろうに、なぜそんなことを問うのか。

孔明は不思議に思いつつ、

「何かありましたか」

と尋ねる。

すると、麋竺は腕を組みつつ首を傾げた。

「いや、そろそろ晩飯の仕込みをしなければならない頃なのだが、肝心の周慶がどこにもいないのだそうだよ」

周慶は、厨房の料理の、最後の味見をする係も買って出ている。

「息子もいないとなると、さて、何か用事があって城を出たのかな? 

どうやら、蘇果も一緒らしい。城の番兵がそう言っておった」

「蘇果と一緒とは、なぜでしょう」

「わかりませぬなあ」


首をひねる麋竺のもとへ、追いかけるようにして、厨房の料理人のひとりがやってきて、やはり同じように、執務室を覗き込む。

「なぜここに来たのだね」

なるべく詰問調にならないように気を付けつつ孔明がたずねると、料理人は恐縮した様子で答えた。

「周慶さんがいなくなる前に、軍師さまにお伝えしなければならないことがあると言っていたので、こちらかと思ったのですが」

「わたしに? その用件は聞いておるか」

「いえ、あいにくと。わたしも遠目で見ていたのですが、周慶さんは息子さんといっしょに犬の世話をしていました。

なにか息子さんが周慶さんにしゃべって、それから急に周慶さんは立ち上がって、軍師さまのところに行かねばと言いまして」

「周慶には、蘇果も一緒だそうだが」

「蘇果ですか? わたしが見ていたときは、蘇果は側にいなかったような」

「周慶どのと息子さんは、いったい何をしゃべっていたのだろう」

「いえ、わたしも遠くにいたので、はっきりとは。

でもたぶん、犬を飼う、飼わないの話だったのではないでしょうか。

あの黄色い犬は、息子さんにだいぶなついていましたから」

「ふむ?」

「でも周慶さんは、犬が人なれしているので、ほかに飼い主がいるのではと気にしていましたね」


料理人のことばを引き継いで、簡雍がしたり顔で言った。

「周慶は息子を可愛がっておるからな。

息子が自分の犬だと信じていたところへ、元の飼い主があらわれたりしたら、可哀そうだと思ったのだろうよ」

「しかし、その話と、軍師どのとで、どうつながるのだろう」

麋竺のもっともな問いに答えられるものはなく、簡雍もはてな、と思案する。


『犬。黄色い犬か。人なれしている犬……』

孔明は、孫直(そんちょく)が毒で死んだその日に、宴席に入り込んできた犬のことを思い出した。

陳到が、飼い主はいないかと宴席で尋ねても、だれも名乗り出なかった。

迷い犬だとしたら、城下の誰かが飼っていた犬なのか?

『しかし、だからといって、なぜ周慶は犬を見て、わたしに伝えなければならないことを思いついたのだろう』

そして、周慶と子と、蘇果がいっしょだという。

そういえば……と孔明は、簡雍の丸い顔を見て、さらに思いを巡らせる。

『孫直が死んだとき、蘇果は「これからどうしたらよいのでしょう」とつぶやいたと言っていたな』

あれはどういう意味だったのだろう。

亡くした恋人を悼んでのことばと、素直に受け取めてよいのか。


『待てよ?』

迷い込んできた犬と、蘇果のつぶやき、そして死んだ孫直……皿を入れ替えた白妙。

すうっと、脳天から腹の底まで風が突き抜けた気がした。

ある推理が浮かび上がってきたのだ。


するとそこへ、陳到(ちんとう)がばたばたと足音も高く転がり込んできた。

「軍師っ、いましがた、行神亭の子龍どのから連絡が! 

急ぎ兵をあつめ、応援してほしいとの要請です!」

そうか、そうだったのか!

孔明はすぐさま文机を蹴るように立ち上がると、陳到に下知した。

「よし、すぐに手の空いたものを集めて、行神亭へ向かおう、叔至どの、案内してくれ!」

「ええっ、軍師どのも同道されるのですか」

「もちろんだ、これでもちゃんと馬に乗れる。子仲どの、憲和どの、あとを頼みます」

麋竺も簡雍も、孔明に急に後を託されて、目を白黒させている。

孔明はかれらを安心させるように、にっ、と笑って見せると、すぐさま引かれてきた馬に飛び乗り、陳到の案内で城下の行神亭に向かった。


つづく

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