序章 黒鴉の爪痕 その21 趙雲のうわさ
※
新野城は、しばらく陰鬱な空気に包まれた。
明らかになった『黒鴉』の存在、そうであったらしい宋白妙の自害、死んでしまった色男の孫直と、喪に服している兄の孫乾。
しかも悪いことに、あれほど美味であった新野城の食事も、はっきり不味くなってきた。
孔明も後で知ったことだったが、飯の焚き加減などは白妙が担っていたという。
厨房を仕切る周慶は、がっかりしている城の者たちに、
「白妙の作る料理の水加減は絶妙でしたもの」
と怒りを含めて突き放していた。
周慶は、白妙が曹操宛の密書を持っていてもなお、その潔白を信じているようだった。
「あの子が細作だなんて、何かの間違いに違いない」
そう言い続けて、孔明や劉備に白妙の潔白を訴えようと、直談判するほどだった。
白妙を可愛がっていた周慶の愛情の厚さにほだされたか、劉備は周慶の話を聞いてやったようだ。
しかし、周慶自身が、あたらしいしいべつの証拠を持っていたわけではなかった。
けっきょく、劉備が、ただ周慶をなだめるだけの話し合いに終わってしまったようで、劉備もがっかり、周慶もがっかり、という残念な結果となってしまった。
「周慶の言う通りだったらよいのだがな。白妙は、ちょっと細作にしては抜けている娘だった。とはいえ、それすらも演技だった可能性もあるが」
劉備はそう慎重に言った。
孔明自身もすっきりしなかった。
徐庶にいやがらせをつづけ、自分をも殺そうとした細作がいなくなったわけだから、もっと晴れ晴れとしてもよいはずなのに、なにか本能に近いものが、どこかおかしいぞとささやいてくる。
『徐兄を曹操の元に連れて行った『黒鴉』。しかし、なぜわたしに対しては暗殺を仕掛けてきたのだろうか。もし殺そうというのなら、枕に仕掛けた針に毒を塗っていれば、わたしはいまごろ、この世の者ではなかったはずなのに』
その疑問が残っている。
仕事をしていても、気が晴れないので、趙雲のところへ行って、相談に乗ってもらおうかと思った。
そこで、仕事をひと段落させてすぐに趙雲の住まう小部屋に向かったのだが、肝心の趙雲がいない。
「行神亭へ行ったらしいぞ」
と、趙雲の部屋の前で声をかけてきたのは、意外にもガラガラ声の簡雍だった。
この団子鼻の男は、趙雲の部屋を自分も覗きつつ、やれやれ、というふうに首を横に振った。
「こんな殺風景な部屋に住んどるから、潤いが欲しくなるのだろうが、真面目な奴が女に入れ上げると怖いな。孫直が死んだから、ここぞとばかりに蘇果を狙おうとしているのだろう」
どうしてそうなる。
むっとして、孔明はすぐ反駁する。
「子龍どのは、そういう男ではありませんよ。ところで、なぜ蘇果なのですか」
「そりゃ決まっている。行神亭は、蘇果の実家だ。あそこは蘇果の兄が切り盛りしているのだよ。たまに蘇果も顔を出すようだ」
「その蘇果を子龍どのが狙ているというのは、根拠があるのですか。どうしてそんな噂が立っているのでしょう」
思わずかばうと、簡雍はそれには応じず、ため息をつく。
「蘇果と子龍が、厩舎であいびきしているところを見たというやつがいるのだ」
「たまたま、ばったり行き会っただけでは?」
簡雍はそれを聞くと、かかか、と笑う。
「武将と料理女が厩舎でばったり会うものか。蘇果が孫直から子龍へ乗り換えようとしているのかもしれぬが、見た者によれば、ただならぬ様子だったようだ。わしは、良いことだと思うがね」
「蘇果と子龍とでは、つり合いませぬ」
きつい目の蘇果は、性格もきつそうだった。
趙雲のとなりに並ぶ女人は、もっと穏やかで明るいほうがいいと孔明は思う。
「軍師は妬いているようだな」
「どちらにですか、蘇果に?」
「おかしなことを言う。子龍のほうに、だろう。ふつうは。ともかく、厩舎で目撃されて以降、子龍も大胆になってな。最近は、ほぼ毎日、行神亭に通っているようだ。行神亭には蘇果の兄がいるからな、おそらく、将を射んとする者はまず馬を射よということなのだろう」
「妹を射んとする者はまず兄を射よ?」
「そうそう、そのとおり」
おもしろくない話である。
孔明がふんと鼻を鳴らすと、簡雍は何を思ったか、肩をすくめた。
「軍師は、子龍が行神亭に通う理由がほかにあるとでも?」
「あるのかもしれない」
「どんな理由が?」
どんな、と問われても、さすがの孔明もすぐに答えが出ない。
困っていると、簡雍はそれには頓着しなかったようで、つづけた。
「蘇果と孫直は似合いだったのになあ。孫直が死んだ直後に、蘇果が言ったことが忘れられん。『これからどうしたらよいの』と言ったのだよ。なにかいい交わしていたのだろうに、先に逝かれてしまったのだから、気の毒といえば、気の毒だな」
「あの混乱の中でも、よく注意して周りを見ていたようですね」
思わず孔明が褒めると、簡雍は照れて、
「いや、ちょっとしたことが気になるたちでな」
と笑った。
「なんにせよ、『黒鴉』は死んだ。白妙がそうだったとは意外だったが、本名が『白』妙で、細作としての名が『黒鴉』とは、悪い冗談のようだな」
「まったく」
相槌を打ちつつ、ほんとうにそうだろうかと、孔明はこころの隅で考えていた。
つづく




