涙の章 その4 天狼星の、その下で
『しまった、見失ったか』
舌打ちし、周囲を見回す陳到に、だいぶ経ってから、息を切らせながら麋竺の養子兄弟が追いついてきた。
「叔至(陳到)さま、子供は?」
「それはわたしが聞きたい」
道は行き止まり。
薄闇に星がまたたきつつある空の下、視界が悪くなっているとはいえ、すれ違いで抜け出されたとは思えない。
行き止まりの先には壁がある。
逃げた子供がどれほど跳躍が得意であろうと、これを越えることはむずかしいであろう、という高さ。
すると、兄の伯亮のほうが、前に進み出て、左手の、屋敷の垣根を無造作にかきわけはじめた。
陳到は、思わず、ほお、と声を上げた。
ちょうど子供がひとり、くぐりぬけることができるほどの大きさの、隠れた通路があらわれたからだ。
「よくわかったな」
陳到が感心して言うと、伯亮は、照れくさそうに笑いながら答えた。
「わたくしも以前、あのくらいのときに、こんな抜け道をよく利用しておりました。
ですから、こういう子供にしかわからぬ抜け道は、町はちがえど、だいたい見当がつくのです」
「やんちゃであったのだな」
陳到が言うと、伯亮は首を横に振る。
「わたしもいまの子供のように、盗みで食いつないでいたときが、ございましたので」
「叔至さま、わたくしもでございます。いまの父上に拾われるまでは、兄上と同じでございました」
「左様であったか……」
麋竺の好みそうな、端正で品の良い顔立ちのふたりをあらためて見る。
かなり苦労してきたようだが、その苦労は、ふたりを荒ませていない。
麋竺が、よほど上手に育てているのだろうということが知れた。
「ところで気になっていたのだが、おまえたちの字は、軍師の名からとったものか」
「よくおわかりになりましたね」
「いや、勘であったが、そうか」
陳到は、違和感をおぼえた。
孔明が新野に迎えられたばかりのとき、風当たりは嵐のようにきついものであった。
武人も文官も、孔明に対しては、無視するか、とげとげしく接するかのどちらかであったのだ。
しかし、麋竺だけはちがった。
最初から、まるで自分の子供を迎えるようにして親しげにし、孔明に不便がないように、あれこれと便宜をはかっていた。
さらに加えて、だれも知らないあいだに、自分の養子に、新野じゅうののけ者となっていた孔明の名をそれぞれ一字、与えたというのだから、贔屓もよいところである。
それほどまでに孔明に対し、愛情にも近い心を寄せている麋竺が、ほんとうに裏切りなどするものであろうか?
『なにか裏があるにちがいない。
長年苦労をともにしたわが君のもとを離れて、単独で解決しなければならないような、面倒な裏が』
そう推理する陳到の頭上では、早くも夜陰の帳の中で天狼星が、まばゆいばかりの光を放っていた。
※
あまたある星のなかでも、天狼星の輝きは、人の目を奪う。
まるで気性のはげしい、わがままな美女のようだ。
その神秘的なまたたきは、傲然と天空に君臨するあばた面の女神の住まう月よりも、美しい。
派手な赤い格子や建具、きわどい絵の描かれた壁や衝立にかこまれた妓楼の窓からながめる夜空は、おそろしく澄明で美しかった。
しばらく、こんなふうにゆっくりと、夜空を見上げることがなかったと、夏侯蘭は思う。
許都から新野に至るまでの道程では、どす黒い怒りと殺意をたぎらせていた。
もちろん、いまもって、怒りも、殺意も消えてはいない。
しかし、先日までたしかに抱えていた鬱積した毒のようなものが、体から抜けてしまったような感覚は、ある。
藍玉が飲ませてくれた五石散の解毒剤が、悪い毒をすべて抜いてくれたのだろうか。
夏侯蘭は、天狼星をながめつつ、妻は懸命に生きていた女だったと悲しみとともに思った。
佳い女だった。
気品も教養もあり、けして自分を貶めるようなことを口にしなかった。
いつか貧困の泥沼からかならず這い上がれると、心に固く信じていたのだろう。
辛いことばかりの人生であったはずなのに、愚痴ひとつこぼさず、母親が子供を労わるように、疲れ果てた夏侯蘭の体も心も癒してくれた。
夏侯蘭と出会ったとき、妻はとある武将の妻の仕女となっていた。
もとは、良家の子女であったと身の上話をしてくれたことがあったが、本当であったかもしれない。
けして美人ではなかったが、あの気品は一朝一夕で身につくものではない。
だから、彼女を見初めた夏侯蘭は、時間をかけて女のもとに通い、熱心に告白をつづけ、贈り物をし、そうしてやっと結ばれた。
夏侯蘭が許都の役人になると決まったとき、妻はこころから喜んだ。
格好がつかないからと、ちいさな家を借りて、ここで二人で人生を始め直そうというと、泣いて夏侯蘭に抱きついてきた。
これで、ほんとうに、人生に光明が見えてきたと思ったにちがいない。
それなのに……
つづく




