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涙の章 その3 ちいさな盗人

陳到(ちんとう)は、ちらりと麋竺(びじく)の養子兄弟を振り返り、そうして訪ねた。

「おまえたちも、いまからそんなカチコチでどうする。

たまには家に帰って、家族に囲まれてゆっくりしたいとか思わんのか」

するとふたりのうち、少年のほうはあきらかにしょんぼりし、兄に当たる青年のほうが、怒りもあらわに返答した。

「わたしたちの家は麋家です。しかし、父上のおられぬあの家に戻っても意味がございません」

「なんだ、継子(ままこ)いじめにでも遭っているのか」

「叔父上がいらっしゃいますので」

と、弟がぼそりとつぶやくのを、兄がきびしくたしなめる。

「これ、余計なことを言うな!」

「それじゃあ、麋家じゃなくて、昔の家に戻ればよいではないか。

壷中(こちゅう)』にあるのだろう、おまえたちの家は」


陳到はさりげなく、しかし目の奥ではするどく、息子たちの反応をうかがった。

しかし、かれらは幼さの抜けきらぬ顔をきょとんとさせて、鸚鵡返(おうむがえ)しにしてくる。

「コチュウ?」

「それはどちらの土地なのでしょう。わたしどもは河内(かだい)の出自です」

「おう、そうであったか、だれかと間違えてしまったようだ、ゆるせ」

応じつつ、陳到は、内心で

 『これはちがうであろうな』 

と、見当をつけた。


このとぼけっぷりが、実は演技だとしたら、兄弟揃って、とんでもない曲者ということになる。


孔明の三つ目の書状には、こうあった。

麋竺に、わが君への裏切りの疑惑あり。

麋家に気付かれないように、その真意を探れ。

また、麋家の者の中に、『壷中』という村の出身者がいないか、あるいはその村のことを知らないかどうかを、これも気付かれないように探れ。

もし関係がないにしても、かれらから見張りを絶やさぬこと。


あの麋竺にかぎって、まさかと、書状を読んだ陳到は思った。

この書状が、麋竺ではなく、その弟の麋芳(びほう)のことを探れ、という内容であったなら、どこかで納得したであろう。

だが、麋竺については、まさか、であった。


新野(しんや)じゅうの人間に、

「だれからも好かれる人間はだれか?」

と問えば、最初に出てくるのは、劉備ではなく麋竺の名前であろう。

それほどに、人々から慕われている。

どちらかといえば、血の気の多い新野の面々が、七年間、流血沙汰を一度もおこさずに、民衆ともよい関係をつくってこられたのは、麋竺の細やかな気遣いがあったからだ。

孔明があらわれるまで新野を保たせてきたのは、麋竺だ、と言い切ってもよいくらいである。


曹操に寝返った、というのならばわかる。

しかし孔明の書状はそれを否定し、麋竺がついたのは、『壷中』という、襄陽(じょうよう)を根城にする、危険な組織の一派かもしれない、ということが書かれてあった。

斐仁(ひじん)のことといい、麋竺のことといい、今回のことは、なにやら暗く重たい秘密の気配がする。


さて、今日は、この寄る辺ない身の上になりつつある二人の兄弟を兵舎に戻すか?

はたまた、我が家に泊めてやるか……二人用の布団はあったっけ、などといろいろ考えつつ、陳到はぶらぶらと歩いていた。


だが、ふと、市場のなかで、衣服を売っている店に、目が止まった。

店主が、客とにぎやかに値引きの相談をしている。

店のかまえは、天幕の下に、商品をひろげただけの簡素なもの。

ご婦人方の領巾(ひれ)のかけてある衝立(ついたて)が主人の背中のほうにある。

さらには領巾と一緒に、北方のめずらしい毛皮がかけてあった。

ところが、店主が客に熱心に商品の説明をしているあいだに、毛皮が、ちょうど店主の反対側のほうへ、するすると引きずられていくではないか。

店主は、まったく気づいていない。


「おい!」

陳到が店主に注意をうながすべく叫ぶと、途端に声にはじかれるようにして、衝立の向こうの影が、毛皮と共に往来へ飛び出した。

飛び出していった影は、十歳くらいの子供であった。


「その子供を捕まえてくれ!」

陳到は往来の人々に声をはりあげつつ、まるで弾かれた玉のように素早く飛び出して、子供を追いかけはじめた。

麋竺の養子兄弟は、おろおろと、あとからそれにつづいていく。

陳到は子供を追いつつ舌打ちをした。

追われる子供は、逃げることに慣れているらしい。

往来を、じぐざぐとすばしこく動き、相手をまこうと必死である。


しかし、相手が悪い。

新野でも一、二を争う武術の達人、陳到の動体視力は、黄昏時の往来でさえ、ちいさな影を見失うことはなかった。

たとえそれが(はえ)のようにすばしこくちいさなものでも、陳到は見つけることができただろう。


『うちの娘と同じくらいの年かな』

幼い盗人を追いかけながら、暗澹たる思いで陳到は走った。

子供は、奪った得物を手に、往来を行く人々をすりぬけていく。

陳到につづく養子兄弟のほうは、人にぶつかって怒鳴られたり、市場の商品を蹴り倒してしまったりと、なかなかにぎやかである。


子供の背中が、路地を曲がるのが見えた。

陳到もそれを追う。

しかし、路地は行き止まりにもかかわらず、肝心の子供の姿はなかった。


つづく

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