涙の章 その2 新野の夕暮れ
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夕暮れどきの新野の市は、台所を預かる女たちの姿で、にぎわっている。
そんな女たちを目当てに、売れ残りを安くするよと声を張り上げる商人もいて、いっそう市場は盛り上がっている。
影の濃くなった市場は、視界も悪い。
さまざまな人々の声の交差するなか、日が沈むぎりぎりまで遊ぼうと、にぎやかに駆けまわる子供たちが大人たちのあいだを縫って駆けていく。
「これをくれ」
人ごみにまぎれてしまったなら、知り合いでさえ、探すのがむつかしくなるだろうというくらい特徴のない風貌をした陳到は、小銭を取り出して、行商人の親父に声をかける。
めずらしく、背後に部下をひきつれた陳到の姿に、行商人の親父は、特に選んだ大きな梨を取り出しつつ、からかうように言った。
「おや、陳さま、ご出世なされたようですな。たいそうな行列ではございませんか」
「冗談ではない、こいつらは新米で、道案内をしてやっているだけだ」
「ご苦労さまでございます。こんな時間までお仕事とは」
「まったくだ。親父、ほかの連中にも、見たことのない怪しいやつがウロウロしていたら、すぐに屯所に報せるようにと、伝えておいてくれ」
「もちろんでございますとも。
ところで、子龍さまは、いつごろお帰りになられますか?」
口をおおきく開けて、梨にかぶりつこうとしていた陳到は、ぴたりと止まって、訝しそうに親父に目を戻す。
「なんだって、そんなことを聞いてくる?」
「市場の女どもの代わりですよ。
近頃は、子龍さまが巡邏にお見えにならないので、女どもが、お風邪でもめされたのではと大騒ぎしやがってしょうがないんでさ」
「子龍どのは、仕事で襄陽へ行っておられる」
「ああ、左様でございましたか。ははん、女たちに教えたら、きっとがっかりするでしょうなぁ。
陳さま、賭けてもいい。明日から、紅をさしてる市場の女が半分に減りますぜ」
「あの人は方々でもてるな。まあ、近々戻られると思うから、女たちによろしく伝えてくれ」
わかりました、今後もごひいきに、と親父は笑いながら言った。
しゃり、と心地よい音をさせながら、梨を食べる陳到のうしろからは、さきほどから、剣呑な目線を向けて、伯亮と仲亮がついてくる。
「叔至(陳到)さま、お仕事をなさらずともよろしいのでございますか?」
「仕事なら、現にしているだろうが」
陳到は、足を止めて、おのれの自宅のあるほうを見る。
市場を右にまがって、しばらくいった路地をさらに行くと、陳到の屋敷だ。
そこで、妻と二人の子が待っている。
「ああ、早く家に帰りたいなぁ」
「市場でうろうろするのが仕事なのですか?」
どうしてこんなに熱心なのか、陳到には、よくわからない。
仕事に真面目な兄弟は、ぶらぶらしている陳到に憤慨しているらしく、顔を赤くして言う。
「おい、わたしは、遊んでいるのではないぞ。これは巡回だ、じゅ・ん・か・い。
おまえらも、わたしばっかり見張ってないで、ちゃんとあたりを見張っておれ」
「いいえ。皆さま方より、民を見てまわるよりも、叔至さまが途中で家に逃げないように見張れ、と念を押されました」
「ったく、信用がないのう」
ぼやきつつ、陳到は空をあおいだ。
西の空に溶けていく夕陽の上を、カラスの群が羽ばたいているのが見える。
おそらくあれは、いまから古巣へ帰るのだろう。
「カラスになりたい」
「叔至さま、軍師よりさきほど書状が届いていたようでございましたが、なにもなさらずによいのですか?」
「うん? 書状か? あれは軍師の主簿や、孫乾どのが処理なされるからよいのだ。
わたしはただの伝達だからな。それにわたしなんぞより、役に立つ人間が、ほかにもたくさんいるから、いいのだよ」
はあ、と生返事しながら、伯亮と仲亮は、納得がいかない顔をしている。
襄陽の孔明からの書状は三つあった。
斐仁の守っていた東の蔵を、徹底的に調査しなおすこと。
壁になにか塗りこめられていないか、蔵の目録にもすべて目を通し、数があっているかどうか、合わない余剰品がないかどうかを確認すべし。
二つ目。
劉州牧の夫人、蔡氏の実家の所在をあきらかにすること。
そのうえで、家族構成を聞きだすこと
そして三つ目は……
つづく




