奥田さんの話
僕は一人で奥田さんのところへと向かっていた。以前布団をもらった時に、僕は枕をもらってくるのを忘れていた。やはり布団だけあっても枕がないとなんか寝心地が悪い。
前にインテリさんと来た倉庫の前まで来ると、倉庫のシャッターが開いていた。中を覗くと、奥田さんが一人で何か作業をしていた。
「あらっ」
僕が姿を見せると奥田さんは、気さくな表情を僕に向けた。奥田さんは僕のことを覚えていてくれたみたいだった。
「どうしたの?」
奥田さんは相変わらずきれいな人だった。今日は形の良いその唇に引かれた真っ赤な口紅が、その神秘的な長い白髪と対比して際立っていた。
「あの、枕ってありますか」
「あるわよ」
奥田さんは、愛想よくまた奥の部屋に案内してくれた。
「好きなの選んでいいわよ」
「はい、ありがとうございます」
僕は積み上がった枕の中からさっそく選ぶ。
「おっ」
小豆枕まである。ちょっと堅めのざらざらした感触。田舎のおばあちゃんの家に同じものがあった。なんだかそれを思い出し懐かしかった。
「あっ、これいいな」
丁度手ごろなのがあった。形も大きさも申し分ない。僕はそれを手に取り奥田さんを見た。
「いいのあった」
「はい」
僕は自分選んだ枕を奥田さんに見せた。
「・・・」
だが、僕は枕を持ったままその場でモジモジしていた。
「どうしたの?まだ何か?」
「あの・・」
「うん」
「奥田さんは、なんでこんなところで、支援活動なんかしているんですか。なんか、聞いた話だと、相当優秀な方だって・・」
「ああ・・」
奥田さんは、僕の言わんとするところを理解したみたいだった。
「私は人間を捨てたの」
「えっ?」
突然のまったく予期せぬ答えに、僕は目が点になる。僕は奥田さんの顔をまじまじと見た。奥田さんはそんな僕を見て笑った。
「私は人間を捨てたのよ。ふふふっ」
「・・・」
奥田さんは軽い感じで言いながら笑っているが、僕はその言葉に、奥田さんの何か人生の奥深い凄みのようなものを感じた。
「丁度いいわ。お茶にしましょ」
「え、あ、はい」
時刻は丁度午後の三時前だった。
「紅茶でいい」
「はい」
奥田さんは僕をさらに奥の大きなテーブルのある部屋へと案内した。
「はい」
出てきた紅茶はとてもかおりが良く、その香りをふわっと感じただけで気分が何とも心地よくなった。
「砂糖は自分で入れてね」
「はい」
カップの真ん中には輪切りのレモンが一つ大きく浮いている。
「これ結構いいお茶なのよ。私の知り合いのトルコ人の子がお土産にくれたの」
「へぇ~、そうなんですか」
僕は一口飲んでみる。
「おいしい」
「でしょ」
奥田さんはテーブルを回り込み、笑顔で僕の向かいに座った。
「クッキーも食べて」
「はい、いただきます」
テーブルの真ん中に置かれた菓子鉢にはクッキーが入っていた。ミルククッキーだった。僕はそれを一つとる。
「おいしい」
「それは私の手作り」
「そうなんですか」
僕は驚く。ほんとにおいしかった。ふんわりとしていて甘過ぎずサクサクして、味に深みがある。市販のものより数段おいしかった。
「私は確かに優等生だったわ」
奥田さんは自分のティーカップに一口口をつけると、前置き無しで話し始めた。
「小さい時から、普通に勉強もできたし、色んな事がそつなくできた。人間関係も特に問題なかったし、友だちもたくさんいた。みんなと仲良くなれるタイプだったの。あまり人からも恨まれないというか、自分で言うのもなんだけど、みんなから愛されるキャラクターだった。今思うとかなり得なキャラクターよね」
奥田さんは小さく笑った。
「先生からの覚えもよくてね、勉強だけじゃなくて作文とか色んな事を評価してもらったわ。先生とか大人に評価されやすい子どもだったのね。高校生の時に国連の子供平和大使に選ばれたこともあるのよ」
「すごいじゃないですか」
「ふふふっ」
そこで奥田さんは不敵に笑った。その笑いが何を意味するのか僕には分からなかった。
「でも、小さい時から、平和活動やボランティアには関心なんてなかった。ただ普通に自分の青春がキラキラ輝いてた。学校も楽しかったし、勉強も楽しかった。先生や親ともうまくやっていたし、友だちといるのも楽しかったし、好きな人もいた。絵に描いたように順風満帆な学生生活。そのまま第一志望の有名大学にも合格できたし、エリート街道まっしぐらって感じね。目の前にはなんの障害も障壁もなかった。勝手にもう私の通る道が開かれてたって感じかな。当然、自分のことしか考えてなかったわ」
そこで奥田さんは僕を見て自嘲気味に笑った。
「それが大学の卒業旅行の時だった。女友だち四人とアジアに行ったの。友だち同士で行くのは初めての海外旅行だったし、すごく興奮してた。実際すごく楽しかったし、見るもの聞くものすべてが新鮮でおもしろかった。一週間の旅だったけど、楽しくてほんとにあっという間だった。ほんとに夢のような時間だった。最後の日、これでもう明日帰国かって、ほんと寂しいなってみんなで話していた。もう後は最後の観光地を巡ってそれで明日は帰るだけ、そのほんとに最後に寄った観光地でのことだった。私は見てしまったの」
奥田さんは僕をチラリと見た。
「そこで、路上にいる信じられないくらい貧しい子どもたちを見たの。みんな裸で薄汚れていてあばらが浮き出るほど痩せていた。みんなすごく虚ろで卑屈な目で、私たちを見上げているの。お金を恵んでくれって、助けてくれって、怯えたように私たちを見ていた。その姿を見て、私は衝撃を受けた。強烈なショックだった。こんな境遇の子どもたちがいるんだって、こんな酷い状態の子どもたちがいるんだって、この時初めて知ったの。私は何も知らなかった。何も。世界の現状を何も知らなかった。本当に箱入り娘っていうか。自分が何も知らないお嬢さまだったって、その時、強烈に実感させられた」
「・・・」
僕は黙って奥田さんの話を聞いていた。
「私は就職先も決まってたんだけど、大手の総合職よ。でも、彼らを見た後ではそれもなんだか、虚しく思えた。だから、それを辞退しようと思った。でもそれは、家族とか親戚とか、恩師とか、友人知人あらゆる人から止められて、結局就職はした。でも、頭の中には、あの子たちの光景がずっとあった」
奥田さんはそこで、少し何かを考えるように視線を落とした。
「だから、三年だったかな、結局会社を辞めて、アジアの貧しい子供たちを助けるNPO法人を作って、海外でボランティア活動を始めたの」
「すごいですね」
「ふふふっ」
そこでまた奥田さんは不敵に笑った。
「私は燃えていたわ。若かったし、やる気と正義に燃えてた。ほんと自分一人で世界を変えられるってくらい思っていた。バカよね」
奥田さんはまた笑った。
「活動を始めてすぐの頃だった。気になる子がいたの。名前はヴァリー。まだ小学生くらいの女の子。とてもかわいかった。すごくかわいい笑い方をするの。そこに一瞬で魅了されちゃったわ」
奥田さんは微笑む。
「私とヴァリーはすぐに仲良くなった。その子はね。左腕が無いの。着ている物もボロボロで、体中ほこりまみれ。同じようなボロボロの格好の母親の隣りで、他の物乞いの人たちと一緒に路上に座って物乞いをしてた。もう見るからに悲惨な状態だった」
彼女のヴァリーという発音が妙によかった。そのことが彼女の海外生活の長さを物語っていた。
「私は、すぐにこの子を何とかしたいと思った。私は私の全ての力でこの子を幸せにしてあげたいと思った。この悲惨な現状をなんとか救ってあげたいと思った」
「父親もいないって言ってた。母子家庭で障害のある子がいる。本当に暮らしは貧しくてかわいそうなものだった」
奥田さんは少し興奮気味に矢継ぎ早に話していく。
「彼女の住む地域は、いわゆるスラム街。貧しい国の中でさらに貧しい人たちが集まって、東屋を建てて生活しているの。それは、もう、日本の水準からしたら生活なんて呼べるものじゃなかった。食べるものはもちろん、水道や電気もなかった。糞尿もそのまま近くの川に垂れ流し、その地域全体がとても臭かったわ。私はそのあまりに悲惨な現状を見て思わず泣いてしまった。ものすごく失礼なことだと思ったけど、でも、涙が止まらなかった」
「私はこの人たちを助けようって思った。全力で助けようって思った。何があっても助けようって思った。そして、私はそうした」
「・・・」
この時、人助けという温かい話をしているはずなのに、奥田さんはなぜか、とても冷たい目をした。僕はそこが気になった。




