一 彼岸にて
幾重にも堆積した垢の様なものが体にまとわりついて、何度かき分けても一向に剥がれない。藻がいても足掻いてもべちゃりとした感触以外は感じられず、そのうちに体が上に下に、右に左にぐるぐると回され始める。
いい加減疲れそうなものだが不思議と疲れは感じない。ぐるぐると回りながら藻がき続けると遠くに光の点があることに気づく。どうすることもできないのだが、光の点は少しづつ大きくなっており、どうやらそこに向かって吸い寄せられているようだと理解する。
どれだけの時間がかかっただろうか、ようやく光の中に吸い込まれると、そこは目も開けられない明るさで、ただ白く眩く静かだった。相変わらず体はぐるぐる回っているが、だんだんと垢のべちゃりとした感触が薄れていくのを感じる。目を閉じているのか開けているのかも判別できなくなり、意識の混濁が続く。
白く眩いだけだった視界にだんだんと天井材に刻まれた凹凸の陰影が見えてくる。ぐるりと見まわすと埋め込まれた室内灯が煌々と白色光を放っている。視覚がはっきりしてくると体の各器官が新たなものとして組み込まれていく感覚があった。腕、手、足、握る、立つ、歩く、走る、天井を見つめながら組み込まれる感覚を味わうように感じていると「目が覚めましたか?」と声が聞こえた気がした。
「まだもう少しかかりそうですね、大丈夫ですよ、そのままそのまま」とまた聞こえた気がしたが、声も意識も遠く遠くに吸い込まれていった。
また垢の様なものがまとわりついて、それをかき分けるたびに断片的な映像が脳裏に浮かんでは消えていく。脈絡のない映像の連続の中で、高欄に結びつけられた和紙の映像がなぜか強い焦燥を呼び起こしたが、延々と続く映像に溶け込んで消えていき再びこれを感じることはなかった。
「目が覚めましたか?」と声が聞こえる。
前回と違って声が近くからはっきりと発せられたものだと認識できる。声の方に顔を向けると白衣を身にまとい眼鏡をかけた初老の男が立っている。何か返事をしようとするが上手く言葉を発することができない、言葉というよりも体を制御するということが、どうすればよいのかすっかり抜け落ちてしまっている。
「ああ大丈夫、ゆっくり、ゆっくり、ずいぶん時間がかかっとったからね」
初老の男はそう言うと、手に持った用箋挟を確認して諭すように話し始めた。
「城宮道雅さん、まずあなたは現在、彼岸、いわゆる死後の世界に来ています」
こちらの表情を確認して話を続ける。
「死ぬとそのままの姿形と人格で、あたかも旅するように死後の世界に行くような思い込みをされている方がとても多いんじゃが、実際はすべてを一度溶解してこちらの世界で再構築される仕組みなんですな、蛹の状態で此岸と彼岸の間を越えていると理解していただいても構いません」
突拍子もない内容に戸惑いを隠せないが、声を上げることもできず、ただ聞いているしかない。
「ですので、今のあなたのお体の状態は、蛹が羽化した直後ぐらいと思ってください、体の各器官が完成しつつある状態ですね。ただ虫達と違って我々は少し体を動かす練習なんかが必要になりますがね」
初老の男は書類に視線を落として続ける。
「数値は特に問題なさそうじゃな、もうしばらくしたら動けるようになるじゃろう、そうしたらリハビリの開始ですな」そう言うと顔を覗き込んで屈託のない笑みを見せる。
「顔色も問題なさそうじゃな、大丈夫、リハビリをすればすぐに体は動く様になりますからな。あと、必要なことはだんだん思い出してきますでの、何が必要かは神のみぞ知る、ですな、思い出すも八卦、思い出さないも八卦です」
そう言うと笑いながら去って行った。
◆
「ゆっくり立ってみましょう、はい、良いですよ、その調子、ゆっくりゆっくり」
療法士に言われるままゆっくり立ち上がる、足の感覚、立つ動き、今までも知っていたことのような、懐かしい感覚もありながら、それでいて新鮮な感覚でリハビリを行う。まわりには十名弱が同じようなリハビリを行っている。立って歩いてボールを掴んで放ってと一連の動作を終えると、発声練習に進んだ。
「これで体の方のリハビリは終了です、慣れるまでもう少し時間がかかると思いますので、ご自身でもやってみてくださいね、開いていればこちらを使っていただいてかまいません、中庭に出てみるのも良いかもしれませんね、寒いので注意してください」
そう言うと、次は二階で記憶の相談援助があるので、一休みしたら行くようにと告げて去っていった。
どうしたものか思案して中庭に出てみることにする。ガラス戸を引くとすっと冷気が入り込み、弛緩していた皮膚と気持ちを引き締める。体がぶるっと震える反応がなんとも不思議に感じられた。もう一度気持ちを入れ直して外に出ると、風がより冷たい空気を運んでくる。
「どうも、あ、さっき同じリハビリを……」と、柱の陰から先客が声をかけてくる。
「こちらこそ、どうも」人が居たことに少し驚きながら言葉を返す。発声練習のおかげか澱むことなく声が出たことに少し安堵する。
「なんか僕ら、死んじゃったみたいですね、実感もなければ何にも覚えてなくて」
先客は他人事の様に嘯いた。
「そうみたいですね、私も何も覚えてなくて…… 必要なことは思い出していくと言われましたが……」
「そちらもですか、体を動かすのも今まで散々やってたんでしょうが、妙に初めてな感じで何から何まで不思議ですな」
「これからどうなるんですかね、これから記憶の相談援助があるって言ってましたが……」
「そうでした、そうでした、ぼちぼち行って見ましょう」
二人並んで階段を上がり廊下を道なりに進むと、前を歩いていた療法士が第二リハビリ室と書かれた部屋に入っていくのが見えた。後を追う様に部屋に入ると中は間仕切りで仕切られており、それぞれの区画には番号が振られている。
奥から療法士と同じ衣服を身にまとった女性が歩み寄ってくると「お名前をお願いします」と聞いた。
「私は梨山隆と申します」とここまで一緒だった道連れが答える。
「梨山さんは、六番にお進みください」と言われると、こちらに軽く会釈をしながら「また」と言いながら言われた区画に進んでいく。
療法士がこちらに視線を向けるのに合わせて「城宮道雅です」と答える。
「城宮さんは検査がありますのでこの階ではなく、もう一つ上の階になります、先ほど上がられた階段をもう一階上に上がっていただいて、ここと同じ位置になります」と言った。
「分かりました」と応え、第二リハビリ室を出て廊下を戻る。何か別扱いされる理由について逡巡するが、思い当たることはなかった。階段を上がって廊下を進むと、検査室と書かれた部屋に入ると「城宮道雅さんですか?」と声をかけられ「はい」と応える。
「頭部の画像検査を行いますので、奥の診察台に仰向けになっていただけますか?」
診察台に上がると「では、始めますね」と言われ機械の動作音が低く唸るのが聞こえる。目を開けると頭上を検査機器が忙しなく動いているのが見える。また目を閉じてしばらくじっとしていると「終了です、こちらへどうぞ」とさらに奥の部屋から声をかけられる。
起き上がって、奥の部屋に入ると白衣を着た初老の男が、画面を見ながら「どうぞ、そこに座って」と促した。
向き合う様に置かれた椅子に座ると、男もこちらに向き直して眼鏡の位置を直す。転生して最初にベッドで話した男だと、数日前の記憶が蘇る。
「どうも、川奈顕造と申します、こちらで転生されてこられた方の状態を観させていただいている医者みたいなもんですな、その感じだと先日お会いしたことを思い出していただけた様ですな」
「ええ、こちらに来て最初に声をかけてくれた方ですよね、あまりはっきり覚えてはいないのですが……」
「そうです、そうです、あの時は失礼しましたね、一方的にお話ししてしまって」そう言うと川奈は手を広げて見せた。
「こちらこそ前後不覚で何がなんだかわからない状態で……」
「こちらに来て間もない時ですからしょうがない、お気になさらず。あれから何か思い出すようなことはありましたか?」
「いいえ、特には。今こうしてお会いしてあの日のことをようやく思い出したぐらいでして……」べそを掻きたい気持ちで答える。
「そうですか、まあ思い出すという行為は往々にして何かしらのきっかけが必要ですからな、今日だってこうやってお会いしたことがきっかけになって、最初にお会いしたことを思い出されたわけですしのう」
そう言うと川奈は、屈託のない笑顔を見せ、話しを続ける。
「先ほどの検査では特に異常は見当たりませんでした、安心してください」
「どんな検査だったのでしょうか?」と聞いてみる。
「皆さん此岸でお亡くなりになられてこちらに来られるんじゃが、その間はいったん姿形をすべて失って、再構築されると前回お話ししましたな?」
「ですね、覚えてます、蛹の状態ですよね」
「そうです、そうです、その蛹の中になんらかの異物の混濁が発生することがあるんですな。そうするとまったく意図しない記憶が形成されてしまうため、神経伝達物質の動きに異常をきたすことがありましてな、症状が重篤になると日常生活にも支障をきたすことがありますな」
「混濁というのは何か別のものが混ざってしまうのでしょうか?」
「そうだと考えております、何が入ってしまうのか、いつどの段階で入ってしまうのかは分かっていません。ただ異物だと認識するためか神経細胞が特徴的な結合の仕方をするんですな、それを頑張って見つけるわけです、すべてを見きれるわけではないのですがの」
黙って頷く。
「何かご質問は?」
「いいえ」
「では検査についてはここまでにして、ここからは記憶の相談援助の方に入っていきますかな」
川奈は一呼吸おいて話しを続けた。
「まあ先ほどの記憶が混濁する話と近いと言えば近いのじゃが、記憶野に過去の記憶を保持しているかのような箇所が発生することが分かっておりましての。大きな違いはご自身のものかまったく無関係のものが混じってしまったうかの違いですな、これを混濁とは区別して跨世虚記憶と呼んどります」
「跨世虚記憶……」思わず口をつく。
「これはどの方にも多かれ少なかれ見られる症状であることが分かってましてな、なので極端に心配する必要はありません。これも原因がはっきりせんのですが、転生中に溶解しきれない部分が残ってしまうのではないかと考えとります。トランプのカードでシャッフルが不十分で、前の手が残ってしまうイメージですな」
例え話しが分かりやすいのかわかりにくいのか、低く呻く。
「まあ元を正せばご自身の記憶なんでしょうし、だいたいの場合は何も起こりません。万一その部分を読み取ってしまっても、強い既視感を覚えたり、まだ経験してもいないことなのに、あたかも知っているような気になるだけです」
「はい」
「問題になるのはある事柄について矛盾した記憶が形成されてしまった場合でしてな。特に善悪の判断や好き嫌いの領域で問題になることが多いですな。皆さんはいくつもの時代を転生されています、そうするとその時代時代で社会規範や常識が大きく異なるわけですな、ある時代は是、次の時代では非、こういった部分でこの現象が発生すると厄介なわけです、皆さん大いに悩まれますな」
「どちらの価値基準に従うか、で悩むわけですか?」
「そうです、それともう一つ問題になるのが、この部分を読み取った時に痛みなどの耐えがたい五感を感じる場合や、怒りや悲しみなどの情動を感じる場合がありますな。恐らく過去の耐えがたい経験が残ってしまったのでしょうが、これを何度も追体験させられるのは辛いでしょうな……」
「そうですね、そうなったら治るんでしょうか?」城宮は恐る恐る質問する。
「そうなった際はこちらに戻っていただいて、今日の様な相談援助を受けていただくことになりますな、一つ一つの記憶をしっかりと洗い出してどうあるべきかを話し合って矛盾を解決していくことになります。まああまり症状が出ないのか、皆さんなんとか折り合いつけられているのか、こちらに来られる方はほとんどいらっしゃいませんがね」
そう言うとにっこりとほほ笑み「ほかに質問はありますか?」と尋ねる。
「いいえ、今のところは大丈夫です」
「それは良かった、では戻っていただいて結構です、しばらくリハビリを頑張ってもらったら、いよいよ本格的なこちらでの暮らしが始まります、住居の割り当てなんかも連絡が行くと思いますよ」




