三旅
三話前から旅ってついてるけれど、どこらへんが旅なのさ?
純真無垢なる読者(いたらの話)の不純物ゼロ疑問。んー。もっともな話。実は私にもわからないのだ。君は私より賢い。きっといつか立派になって冥王星にゲームセンターを作りに行くだろう。その時はぜひ私も呼んでくれ。あ、しかし私は飛行機への搭乗経験ゼロ。飛行機に乗れないのにロケットに乗れるとは思えない。私が飛行機に乗りたくない理由は十の大条件と派生する五七の小条件からなる。そしてロケットを主題にした途端、その条件は二乗されるのだ! これはどうしてだろう。どうやら宇宙における呼吸の困難さと関わりがあるらしいが、詳しいことはわからない。隣席の彼彼女に聞いてくれ。隣の人は常に君より賢いのだから。
ああっ。ぼーっとしているとすぐ滅茶苦茶の霧に迷い込んでしまう。楽な方向に流れがちなのは私に限ったことではないと思うが、特にその傾向が強いのは否めない。ま、ああいうものが面白くないわけではない(なんと自画自賛しやがったこのタコ!)が、書くのはけっこうつらいし、(既に絶滅したと思われる)読者も疲労するだろう。ここはひとつ、欲求を抑制し、まともな話をせめてこの回だけでも実現させてみよう。
およそ四千文字を、なんとなく一回一回の目標と定めている。十万とはこの石垣の上に建設されるものだが、言うまでもなく石垣を積むのだって大変なのだ。いくら書いても行が進まない。読者が目をつぶってくれることに期待して月並みな表現を用いるなら、夢の中で疾駆するごとくといったところだ。だが私にはこの紋切りの意味がいまいちよくわからない。だって私は夢の中にあっても違和感なく走ることができるからだ。私の耳に届くくらいの表現なのだから(そこまで本を読まない私に)、きっと誰もが脳裏に忍ばせておくくらい有名な一節なのだろう。しかし、おかしいと思わないか? 見る夢は一人ひとり違うはずだ。なぜなら全員の脳の形が違っているから(よくテレビやら何やらで見るあの記号的なモデルは間違いだ。レントゲンの経験がある者ならわかるだろう。ちなみに私の脳は和式便所を精巧に模した形状となっている。心外だ。私は必要に迫られない限り洋式しか使わないのに)。誰もが夢で泥をかきわけるような走行をしているわけではないはずだ。
ちなみに余談として、私は本当に泥で包まれた道を歩く夢を見たことがある。あれがどういう意味なのかはわからずじまいだが、多分三日後の腹痛を指していたのかも知れない(食事中の読者の追放)。
だがここまで流通した表現なら、やはり皆共感できるのだろうか。試しに誰かに聞いてみたいが、私にとってそれは難題だ。この「誰か」を私はまったく所持していない。この三文字(読みを基準として進行するスケジュール)に当てはめられる人物としては、友人とか、恋人とか、街角ティッシュ配りの少女が思い浮かぶ。私のぐるりにはその誰もが存在しない。家族を当てはめられるという説もあるが、残念ながら私はそれを支持しない。家族を誰かと呼ぶなんて、あまりにも他人行儀ではないか(家族思いの一面をのぞかせ好感度上昇を祈願)。ま、流行っているならどうでもいいか。私の経験なんて、読む者の誰も気にしないだろうし。直前の一文は危険だ。この作品のレゾンデートルそのものを否定しかかっている(どうでもいい)。
かつて読んだ様々な本と比較すると、何とこの文章のつまらなさが際立つことだろう! しかし、それも当然なのだ。私は何の考えもなくタイピングを続けている。工夫も何もない作品(とも呼べない木炭のような何かであるけど)が面白く胸をときめかせるものとならないのは普通のことだ。設定や、展開や、そういった作品の骨組みからよく考えて作り上げることにより、全体としても完成度の高いものとなるのだろう(だろう、というのはもちろん私はそんな作品の作り方やら何やらをまったく知らないからである。知りもしないことを語るのは実のところ一話目からやっていた)。
私の不出来な言葉についてしゃべるより、よりもっと面白い作品について話した方がずっと有意義だし楽しいはずだ。直接名前を出すことはしない(私などに褒められてはむしろ風評に傷がつくからね)が、仄めかす程度にして色々紹介してみよう。もしかしたらあなたが知っている本もあるかもしれないし、知らない本もあるかもしれない。面白いのは間違いないから、強い興味を惹かれたのなら読んでみるのが良いだろう。
まずは一冊目。この本はそもそも私がこうやって文章を書こうと思い立った理由を支えている。今書いている文章、この文章はただ十万文字のためだというのはあんたらの耳が腐るほど言ったことだが、私は別の文章も書いているのだ。ま、もうすべて燃やしてしまったけれど。とにかくこの本は面白い。面白いというのはもちろん四方八方の指向性、嗜好性、思考性を指す言葉だけれども、この本はそのうちの五、六方向をまとめて制覇している。第一に、すごく笑える。私は小説で笑ったことはあんまりなく、笑ってしまったものは漏れなく自分で作り上げたみすぼらしい殿堂の中に加え入れている(作品にとってそれが幸福かどうかはさておいて)。その本の中でも特に笑えるのがこの本なのだ。一体ここまでのユーモアをどうやって身につけたのか、想像もつかない。この人の周りにいた人は多分毎日笑い転げていて、一週間にいっぺん腸捻転の手術を受けなくてはならないのだろう。もちろんこれは誇張だが、そんな出任せをつい言ってしまいたくなるくらい素晴らしいのだ。惜しむらくは、もうこの人がこの世にいないことだ。面白い人ほど先に死んでしまい、残るのは私のようにつまらない人ばっかりになるのだろうか。でも私よりつまらない人は中々いないから、そこまで心配する必要はないな。
って、全然作品の中身を紹介していなかった。いやしかし、仄めかす程度なのだから、具体的に説明するわけにはいかなく、具体的に説明できないとなるとほとんど説明できる部分はなくなってしまうのだ。わかってくれ。それでも微かな説明を試みるならば、これは非常にぶっ飛んだストーリー、展開、キャラクター、設定を持つ作品であり、読者は顎が外れないようにスプーンにまいたタオルを噛み締めておく必要があるのだ。うん。まったくわからないな。これはもう読んでもらうしかない。というか読め。今すぐ書店に駆け込め。私の文章が冬の畑ほどにも荒涼としていることがわかるから!
この本はシリーズ作品となっており、全部で五作。ちなみにもともと外国で出版された本であったが、すべて日本語訳されている。ありがたや。私のように語学が堪能どころか低能である人間にとって、翻訳書の存在がどれほどの光であったか。これは言語化することすら難しい。なぜなら私はそもそも日本語すら怪しくて、こういう胸にとめどなくあふれ来る感情に当てはまる言葉が、言語野には今のところ存在しないからだ。一体いつアップデートされるのか、公式サイトに張り付いておけ。
おっ。この自分の読んだ本の紹介というのは、かなりの文字数を稼げるものなのだな。しかしこればっかりでもいけないのだろう。ちょっと面白みの塩味に欠ける。いや、もちろん私の紹介する作品がつまらないという意味ではない(さすがにおわかりだろう。私がいちいちこういう説明を差し挟むことについて、読者の皆様方はもっともっと怒りの感情を炙られてよい。馬鹿にされているに等しいのだから)。が、これもまたワン・パターンの腐葉土へ誘い込む手口なのだ。またしばらく違う方向へ話を展開しておき、それが困難になったら二回目を行おう。こういう逃げ道を確保しておくだけで、われわれ人間は楽に修羅場の空気を吸うことができるのだ(胸焼けには対症療法)。ん? 文字を稼ぎたいだけであるはずなのに、こいつ、面白さを追求しようとしておるな。やっぱり読者に読んでほしいのだろう。こんないたいけな作者の気持ち、どうかわかってやってくださいな。
しかし時間がかかるのだな、文字を書き連ねるというのは。四千文字を、私は一時間でこなしたいと常日頃から考えている。どうも成層圏に突っ込むほどの高望みであったようだ。それでも一回一回に取り組み続ける他あるまい。十万の壁はあまりにも高く、こんなに遠い場所からでもはっきり視認できてしまうほどなのだ。その広大無辺さをまともに考えよとすると、私の頭の回路は突然焼き切れ、コーンスターチによる冷却を要求し始めるのだ。ま、要するにやる気がでなくなってしまうというわけ。だからひとまず、この一話を完成させることに集中し、他のことに視線を泳がせないように努めるのだ。わっ。まじめ。時おりこういう自画自賛も混入するのは、モチベーションが連綿と続くようにするためだ。だから読者に読ませるというよりは、私自身に読ませる言葉と言えよう。だからどうか気分を悪くしないでください。エチケット袋は十年前廃止されましたので。
書け、書け、書け。何と、小説を完成させるためにはまさしく書く以外に何の方法もとれないのだ! ここまで進歩した(ように見える)現代にあっても、小説をパッパッと塩コショウを振りかけるごとくに手早く完成させる技法、まったく発明の兆しすらない。まあ、頭で考えていることがすぐ文章として入力される、そんなデバイスが発明されたとしても、小説を書く役には立たないかもしれない。もちろん他のことにはすごく役立つだろうが、特に私の脳内など常に混沌となっていて、明日の予定と今日の文章とが渾然一体となる恐れがある。そんなもの誰が読む? ……いや、既にこの文章もそうなってしまっているのではないか? だとすると、ううむ。自分の首に自分の手がかけられたのを感じる。何と冷たい手。死人の手。誰か、火葬場への道案内を頼む。私は今なお方向音痴。きっと死んでも方向音痴。音痴の葬送曲を聞かせてやる。それは次の一節から始まるのだ。
さらば!




